攘夷という言葉を掲げると、眉をひそめる人たちがいる。しかし、幕末から平成の世の現在まで、日本を救う力となったのは、時にはマルクス主義の仮面をつけたとしても、その根底にあったのは、外敵に対しての「撃ちてし止まん」の攘夷の心なのである。だからこそ、若き日にマルクスの洗礼を受けた林房雄が、保守民族派に転向しても、まったく違和感がなかったのだ。三島由紀夫が林房雄に注目したのは、思想の相対性の世界の住人としてではない。「氏のかつてのマルクス主義の熱情、その志、その大義への挺身こそ、もともと、『青年』のなかの攘夷論と同じ、もっとも古くもっとも暗く、かつ無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な日本人の心であった」ことに、三島は限りない共鳴を覚えたのだ。私が70年代前後の新左翼、とくに沖縄奪還を掲げた中核派にシンパシーを感じるのは、まさしく攘夷の一点においてである。三島がこだわる「日本人の心」と無縁な口舌の徒は、私からすれば、どうでもよい連中である。今の日本のサヨクが口にするヒューマニズム、反原発、平和主義とかが胡散臭く思えるのは、命を賭けるパトスが彼らにはないからだ。高橋和己流に解説するならば、「死の情熱としか命名しようのない、一つの混沌を」(『散華』)ともなわない政治運動は、あくまでも徒花であり、爆発的なエネルギーを持つことはできないのである。
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