芥川龍之介の『西方の人』のイエス像に、心惹かれるのは私だけだろうか。クリスチャンでもない私は、せいぜい聖句を幾つか暗記しているだけだ。それでも、芥川の「十字架上のクリストは畢(つひ)に人の子に外ならなかった」との断定は、私たちと同じ血が通っていたことを、さりげなく述べたのだった。神の子であったとしても、神ではなかったのだ。ゴルゴダの丘での「エリ、エリ、ラマサバクタニ」の悲鳴は、その弱さから出たのだろう。芥川は「わが神、わが神、どうして私をお捨てになさる?」と悲鳴を上げたことに対して、「クリストはこの悲鳴の為に一層我々に近づいたのである。のみならず彼の一生の悲劇を一層現実的に教えてくれたのである」と書いている。あくまでも芥川は、日本人的な見方をしているのではないか。しかし、それを恥じていないところが立派だ。日本人は近代化を受け入れるにあたって、一緒にキリスト教も受け入れようとした。だからこそ、芥川は「永遠に守らんとするもの」をマリアと呼び、「永遠に超えんとするもの」を精霊と呼んだのである。善悪の彼岸に立つ精霊に振り回され続けたのが、日本の近代化であった。それだけに、私たち日本人は、内なるマリアを思い起こすことで、日本人であることを確認してきたのではないか。今日がクリスマスイブのこともあり、なおさら『西方の人』におけるクリストにこだわってしまう。今の季節の会津の雪原は砂漠に似ているが、あくまでも私たちは日本人なのである。
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