草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

GHQの占領政策に大きな影響を与えた白虎隊讃美のハイゼの遺著!

2014年02月21日 | 思想家

 白虎隊の自刃については色々な見方があるが、従容として死に就いたことについては、誰も批判することはできないはずだ。公のために身を捧げるのは武士道においては当然の行為であった。日新館での教育によって、幼いころから切腹の作法を身に付けていた者たちにとっては、死は厭うべきものではなかったのである。瀬野文教の『リヒャルト・ハイゼ物語』を手にとって、私は一瞬目が釘づけになってしまった。敗戦の日本の救ったのは、白虎隊であると書かれていたからだ。ハイゼは東京高等商業学校(現在の一橋大学)のドイツ語教師として明治35年に来日。学習院高等科でも教鞭をとっている。ハイゼは日本女性と結婚し、日本への思い入れは人一倍であった。とくに敗者になった会津を高く評価し、戊辰戦争から40年後に会津の地を踏んだのである。そのときの感想や日本の武士道を論じたのが『日本人の忠誠心について』であった。そこで白虎隊を論じたハイゼは「敵のくびきにつながれて、落魄の身を鎖に縛られたまま、不平不満だらけの長い不幸な人生を老いさらばえるよりは、故郷の子として思うがままに若く散った方がどれだけ美しいことか」といった滅びの美学に共感し、刃に伏したことで「少年たちのはかない命は、彼らは不滅のものにし、人々の胸に誉れ高い記憶を刻みつけた」と讃えたのである。そして、その本の訳者でもあった瀬野は『リヒャルト・ハイゼ物語』において「かりにもし彼(ハイゼ)が日本に来ていなければ、会津藩や白虎隊の話が欧米人に伝わることはなかったかもしれない。太平洋戦争後、日本を占領したGHQの将校の中にハイゼの遺著を読み、日本の武士道、とりわけ会津武士と白虎隊に感銘した高官がいて、日本の伝統を守ることに理解を示し、マッカーサーの政策に大きな影響を与えた」とまで書いたのだ。白虎隊は無駄死にではなかったのである。

 

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「知識人」の終焉を予言していた歴史学者坂本多加雄!

2014年02月21日 | 思想家

 知識人の権威は遠の昔に失墜しているのである。坂本多加雄は『知識人大正・昭和精神史断章』で知識人の終焉について触れている。戦後の知識人の思想は圧倒的にマルクス主義であった。それが昭和40年代半ば前後から社会主義国の現実が知られるようになり、我国の高度経成長もあって、マルクス主義は色あせていった。新左翼の運動も過激派の内部抗争によって、そうした趨勢を逆転することができなかった。昭和50年前後からは日本の知的世界においては、「思想」に代わって、庶民や大衆の「常識」の立場が大きく浮上してきた。そこで登場したのが司馬遼太郎や立花隆といった書き手であった。坂本は「時空を超えた普遍的抽象的な観念や理念に代わって、各社会領域における人物や事実についての具体的で詳細な報告が喜ばれるようになったのである」と書いている。そこで流布されるようになったのが「情報」であった。様々な分野でのノウハウ本も次々と出版された。しかし、坂本はすでに平成8年の段階において、「常識」も曖昧なものになりつつあることを見抜いていた。「常識」と混同されがちな「世論」の危うさを指摘し、「常識」を「言葉」で明示することの必要性を説いたのだ。「言葉」は無数の人々の体験のなかに蓄積されることで成立したのであり、「言葉」が担う「意味」の歴史に目を向けたのだ。そして、坂本は「言葉の歴史的な意味を確認するという営みは、同時に、そうした歴史的に確認された意味のなかに新たな可能性を探ると云う試みを伴わねばならない」との結論に達した。それはいうまでもなく、伝統を確認し、それを新たに創造することでもある。坂本の言葉を借りるならば、「知識人」の物語を終えて、私たちひとりひとりが「新しい知のあり方の可能性を探求」しなくてはならないのである。

 

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