2022年の映画「月の満ち欠け」をテレビで見た
キャスト 大泉洋、柴咲コウ、有村架純、菊池日菜子、田中圭、目黒連
直木賞受賞、佐藤正午の長編小説が原作だと言うことだ
今度、小説でも読んでみたい。
以前、映画1997年の映画「うなぎ」を見てから、吉村昭の原作を読んだが
表現や微妙なニュアンスの相違が面白かった
だが映画を見てから小説を読むのと、小説を読んでから映画を見るのでは、どちらが面白いだろうか?
小説は想像力を掻き立て、読者は十人十色の主人公の姿を空想して作り出す
だから映画が後だと、自分の主人公像との違いにがっかりすることがある。
だが映画を先に見て小説を読むと、おそらく小説の中の出演者と、映画の出演者は一致して見える、それだけ小説を読んでも楽だと思う。
予備知識を持たずに見た1回目は、目まぐるしく年代の変化でわけがわからなくなった、ただ最後には輪廻転生がテーマだとわかった。
わかったけれど登場人物がごちゃごちゃになって整理できなかった。
それで日を改めてもう一度見直した、メモとペンを持って
一人の女性が映画の中で4度転生していることがわかった
小山内瑠璃の親友緑坂ゆいの娘、小山内瑠璃、正木瑠璃、正木瑠璃の前世(姿は出ないが、三角に「ずっと私に気づくのを待っていたのよ、あなたは気づいてくれなかった」というセリフで正木瑠璃と三角は前世からの因縁があるのがわかる)
「赤ちゃんは生まれる前に、雲に乗って空から誰の子供に生まれようか見ている」というセリフは、そこだけが漫画チックで笑えたが、あとは結構共感できた。
「人間は誰でも生まれ変わっている、ただ多くの人はそれに気が付かないだけ
私のように前世で深い無念をもったまま死んだ人だけが、その記憶をもって生まれ変わる」
主役の瑠璃(るり)という女性が生まれ変わり、生まれた新たな瑠璃が7歳の時に高熱が続いて治ったとき、人格が変わる。
実は、それまでは前世の記憶がない瑠璃で、高熱の後の瑠璃には前世の大人の瑠璃が蘇っている。
こう書くとホラーみたいだが、これはホラーではなく悲しい純愛の映画である
ある年代から、前世の自分が蘇って体を支配するストーリーは私が何度も読み返している愛読書「リプレイ」そのものだ。
「リプレイ」では体は毎回別人になるが、心は同一人物である、だが心が体に戻ってくるのは生まれた時からではなく、ある年数を経てからだ。
それまでは生まれた時からの別人格が体の中に住んでいる、そこに前世の人格が戻ってくると最初の人格は消えてしまう。
何度目かに彼女が生まれ変わって戻って来た時、そこには既に先に戻って来た彼が別人格の彼女の体と住んでいた。
戻って来た前世の彼女は、自分ではない人格の自分と同棲していた彼に対して怒り別れてしまう。
体は同じでも、人格の違う彼女と10数年暮らしていたことに我慢が出来なかったのだ
彼は、いつ前世で愛し合っていた彼女が戻ってくるかと待ちわびていただけなのに。
でも戻ってきた彼女は許すことができなかったのだ
この部分が「リプレイ」の中でもっとも深くて、気に入った場面である
心(魂)は永遠で消え去ることはなく、体は一世代で滅んでしまう
一人だけの記憶を魂が持ち続けるかどうかは怪しいが、魂が永遠であることには賛成である。
姿かたちのない魂があっても不思議ではないし、現実的に今わたしがここにいる。
そして体が滅んだ時、魂(心)も滅ぶだろうか? それはわからない
体から抜けた魂が現世の記憶を持ち続けるのは否定する。
形の無い物には何の思いも考えもないはずだ、もちろん人間が思いついた時間などもあるはずがない。
だからこその永遠、永遠の長さは人間が作った1秒かもしれないし、数百億年かもしれない、そもそも時の長さで考えることがナンセンス
体というものを得た時に新たな人生、人格が始まる、そして滅ぶのは「月の満ち欠け」の通りである。
この世の中で同じ自分の人生を繰り返したい人がどのくらいいるだろうか?
自分はそうしたいと思っても、妻や子供がお父さんとまた暮らすなんて耐えられないと言えば、あなたの夢は実現しない。
宇宙と魂とが一体化しているなら、それは永遠なのだ
魂が無である限り、無は永遠であり、無の状態こそ安らぎの世界なのだ
最大級に磨かれた魂だけが天の国で永遠の幸福を得るとは、このことだ
それは地球だとか天国だとかという限定的な狭い範囲ではない、果てしない永遠の空間での話である。
無の安らぎは、母の胎内での安らぎに似ているのではないかと思うことがある
この映画を見て、「リプレイ」を思い出し、とりとめもない文を書いたのである、唯一心残りは2人の瑠璃と小山内の妻の3人を間接的に殺した正木竜之介のその後がわからないこと・・小説では描かれているのだろうか?