信玄誕生
司馬温公の勧学歌に「子を養い教えざるは父の過ちなり」と、されども父が無道の者で、教えること好ましくない場合はどうなるのだろうか。
それはそれ、天地の性はまことにうまくできている、愚かな親に時として素晴らしい才を備えた子が生まれ出ることがある。
武田家において、まさにそのとおりのことが起きた。
武田勝千代丸と申すのは信虎朝臣の嫡子である、その母は穴山左衛門大夫信孝の娘、すなわち伊豆守信行の妹である。
穴山氏は元武田家の一族、もとは下山家と言ったが、近年家風が零落して、信虎の父信昌の時より当家の家臣となった。
勝千代丸が誕生した時には、大永元年辛巳の歳三月である、その頃、駿河国の住人節間玄蕃允という者があり、今川義元の為に領地を奪われ、信州飯田というところに移り住んでいたが、郷民をたぶらかして一揆を起した、信州の所々より訴えが起って信虎の耳に入った。
日を移さず信虎は甲府より押し寄せて一揆をうち破った、一揆の郷民を切り鎮め、節間をも打ち滅ぼし三月二十八日に甲府に凱旋した
その日、信虎の内室は穏やかに男子を産んだ、勝ち戦で帰還した日に生まれたので、幼名を勝千代とした。
我が国の兵家の祖とも称された奇特の英雄故に、降臨された時の様々な不思議が伝えられている。
中にも確かに見て驚いたのは、産屋の上に白雲一条たなびき下り、よそ眼から見るときは、ただ白旗の風にひるがえる姿に見えた
しばらく空に留まり、四方に散り去った時、一隻の白鷹がいずこからか来るともなく産屋の上に下りて三日までそこを去ろうとしなかった。
これを見た人々は「これはただ事ではあるまい、当家が崇拝する諏訪明神の神の使者、若君を守護してくれているのだ」と末頼もしく思うのであった。
七日の祝詞が終わり、武田家の人々が若君を見ると、その様子は優れて尋常の小児と異なり、みだりに泣き声を上げることなく、もし心に叶わず泣くときには声の大きなこと人の耳を貫くほどであった。