信虎には彼の国の故事を例に申し上げる
「昔。衛国の懿公(いこう)は常に驕りのあまり、鶴を愛し金の冠に、錦の服を着せ、官位を与えて「鶴大夫」と呼んだ
外に出るときは鶴をも輿に乗せて往来し、その為に費用を費えること莫大であった。
忠臣がこれを危ういと思い諫言しても一向に聞き入れず、贅沢三昧を続けた
後に北方の犬戎国の夷族が衛国に攻め込んできたとき、懿公の為に戦う者は一人もなく、敗惨した。
懿公、また左右の者に命じて戦わせようとしたが、左右の者は『君、日頃から鶴を愛し、鶴大夫と称して我らより高位にしたのだから、鶴大夫に命じて戦うべし』そう言って、懿公を置き去りにして皆去っていった
懿公は夷族によって滅ぼされ、その身は細々と切り裂かれて亡き者にされた
これもひとえに畜類を愛し、人を用いることが無かったからであります
このような例え話をわが君に言上申し上げるのは、まことに恐れ多いことなれど、あえて申し上げます
此度、今井杢之允に死を賜る所以は一匹の畜類より始まったことで、いかにわが君の寵愛厚いと言えども累代の功臣と同列ではありません
刑法は国の治具にて、刑法の罪に当たらぬ裁断をされたなら人々は皆、背くでありましょう
今一度、心を鎮められて今井の切腹の沙汰御取りやめいただきますよう、万民が納得する正しきお沙汰をお願いいたします」
言い終わると同時に、信虎の表情は憤怒の色顔に現れて、館中に響き渡る怒声を張り上げた
「虎豊、虎資、黙って言わせておけば法外なる悪言かな、定国は武門の身として、その役目をおろそかにして、居眠りをした挙句、白山に面を切られる失態
これがもし、敵国の忍びであれば定国の命はもちろんのこと、わが身さえも命の危うき事はなはだしかったではないか。
主人の身を警護する者が、その役目をおろそかにし、このような失態を犯しただけでなく、わずかに眉間のかすり傷であるのに、わが寵愛する白山までも切り殺すとは、何たる不届きであるか
また凡夫の身でありながら主人の次の間で刀を振り回すなど、それだけでも死に値する所為であろう
畜生と申すなら、殺す前にこうこうしかじかと申し立てて処分を問うてからでも間に合うものを、我に相談もせず切り殺すとは、これ賜死に値するものである
うぬらも少々の学識を鼻にかけて、主人の罪を数え上げ毛唐人の亡国の不吉な故事を引き合いに出し面白からぬ諫言不快千万である、胸糞悪いことはなはだしい
本来ならば二人揃えて打ち首にするところだが、今般は許しおく、二度と目通りは叶わぬ、早々に罷り立て」と吐き捨てて、奥の間に入っていった。
両士は一命を投げうって諫言せんとしたが、信虎の暴挙の中にも定国の罪名を挙げて話したことには、たしかに一理あると認めざるをえなかった。
二人はあきらめてすごすごと館を後にした。