二人は一日何度も城中に駆けつけて、ついに阿竹という取次の女房に出会うと
「この度、信州の村上義清、小笠原長時の両名は当国の農民をたぶらかし農民もこれに同意して凡そ2万人が韮崎に集結、お館に攻め寄せんと画策しておる由、両家の旗先は原あたりに見えたので注進に参った次第である、危急につき急ぎ参上した、ぜひ御屋形に取次ねがいたし」
阿竹は驚いて、ただちに奥に入り、前夜泥酔して寝ている信虎をゆすり起して、両名からの件を伝えると、たちまち飛び起きて阿竹に長光の大脇差を取り持たせ、目をこすりながら広間に走り出て、「村上、小笠原が押し寄せたとは、その勢いかほどであるか」と問うのに対して、両名は
「一揆が蜂起したとは我らの偽りでござる、騒動はおこってはおりません
我らは近頃の御屋形の行状に耐えかねて諫言に参ったのです
しかるに先の件でお目通りを禁じられ、なんとか目通りいたす方策は無いかと思い、この計を思いついた次第
その昔、馬場伊豆守、山縣河内守諌死なされたが、その後われらは今日までむなしく過ごしてまいりました、しかし山縣ら両名の諌死にも関わらず、御屋形の行状は以前にも増して愚かな振る舞いが目立ち、もはや御家の傾くこと疑いなく我らも諌死するときが来たと御前に罷り越した次第であります。
亡国の根本を思うに四民の業の安泰かなわず、臣が上に背いて去る時には我が国ばかりではなく漢土の王朝もまた亡国のきざしなり
思うに、今井杢之允は戦場にて数度の功をあげた忠臣でありました、それに対して非業の死を賜ったのは彼の御番を怠った罪ではありますが、死罪にするまでの重き罪だとは思われません
またその子、弥太郎には本来なぐさめるべきなのに、親と同じく死罪を申し付けられました、そのため弥太郎は出奔し当家の怨敵である村上義清に身を預けたこと、お味方二人の勇士を失い、敵方には一人の勇士が加わったということは己に三人の敵を得たと同じであります。
弥太郎は若年とはいえ15歳、もう一人前であり御当家の軍法も熟知しております、これは敵方にとって数百の味方を得たも同じ、当家は逆に数百を失ったの道理。
臣民みな御屋形の武威にひれ伏して四方みな敵で溢れかえっても怖れることなしと申されるが、それは死を賜ることを恐れて形のみ従っているだけのこと、いつ離反しても不思議はない
隣国に名将現れて当国の臣民を扇動すれば、たちまち臣民反逆して敵の手の内に罷り出て御屋形より離反するのは必定であります。
先祖より伝わる名家の御当家も、愚かなる御屋形の代で滅亡し群臣零落の姿を見るよりは、首を刎ねていただき、あの世にまかり出て先代以前の御名君に、お仕えいたします」
思い入れて諌める両名の姿こそ、真の忠臣の姿である。
しかるに信虎、短慮の暴君、たちまち真っ赤になって怒り狂い
「気持ちよく寝ているものを嘘の方便で叩き起こし、そのうえ愚にもつかぬ恨み言を並べるとは許しがたい、当家の滅亡などと不吉な言葉を並べくさって、この曲者どもが、近習どもの手を煩わすまでもない、この儂が自ら今生の暇を取らす」
例の長光二尺一寸で工藤下総の頭上より一閃振り下ろし、暴虐の人と言えどその武術は人にも優る手練れなれば、頭まっ二つに切り割った
内藤相模守すぐに刀を奪おうと近づき「無道の暗君、いかに正体無くとも黒白を分かちたまえ」と叫ぶ
信虎、聞く耳持たず右の腕首を討ち落し、返す刀で左の肩口から胸まで切り裂けば、知勇に優れた二臣といえど老体の上、痛手を蒙り倒れるところをとどめの一刀突き刺し殺した。
この日以後、誰一人として信虎を諌める家臣は無く、ますます信虎の暴虐は留まるところをしらず、気に入らぬ者はたちまち命を絶たれ家を失った。