天文二年五月となった、いったい何の因縁なのか左京大夫信虎は、嫡男である勝千代丸を嫌い、二男の二郎丸を深く愛し、家督さえ二郎丸に譲ろうとする気であった。
それでありながら二郎丸には芸術のほかは何も教えずいた。
五月の末、領内から黒栗毛の馬が館に献じられた、この馬は姿かたちと言い、走る勢いと言い逸物の名馬であった。
信虎はこれを喜び秘蔵の馬として愛していたが、あるとき勝千代丸はこれを欲し、信虎の前に出でて
「この度の献上された名馬は、昔の鬼鹿毛にも劣らぬ荒馬の様子、某(それがし)も、もう13歳になり戦場のお供を仕り、あっぱれ一方のお役に立ちたいと思います、かかる荒馬を乗りこなしてなづけたいと思い、ぜひ拝領仕りたく願い出た次第です」
信虎、とたんに機嫌が悪くなり顔にそれを出して「汝、まだ13歳と言えば大人とは言えぬ、それなのに親子とはいえ、父の秘蔵の愛馬を所望するなど無礼であろう
同じ少年と言えども二郎丸は分をわきまえ、汝のような無礼を申さぬ
来年には14歳になる故、元服させ当家重代の御旗、鎧、太刀、兜など譲ろうと思っていたが、その体(てい)では相伝することも考え直さねばならぬ」
と腹を立てて傍若無人にも怒鳴り散らすのを見て、勝千代丸は顔色も変えず早々にその場を立ち去った。
それ以後、信虎は勝千代丸の良いことは全て打ち消し、二郎丸の悪い行いも良い行いに解釈するようになった。
勝千代丸の守役である小幡入道日浄は小幡山城守虎盛の父である
弓の腕前にかけては当家第一と言われ、勝千代丸の幼い時から預かって養育してきた。
以前より、信虎が諫臣を次々とあやめることに加え、勝千代丸の廃嫡さえ思案しているのを見て、いよいよこれは当家も滅びの前兆、危ういと思い、お家の断絶だけはあってはならぬと思案するようになった。
ある夜、勝千代君にささやきかけ、春巴和尚の故事の話を聞かせた
遠い昔、斉の㐮公と言う人があった、暴悪驕慢で忠臣の諫言を受け入れない
㐮公に文姜(ぶんきょう)という妹がいた、魯国(ろ)の桓公に嫁いだ
ある時、桓公が妻となった文姜を伴って、斉国へやって来た
ところが嫁いで容貌が極めて美しくなった文姜を見た㐮公は桓公に嫉妬し、彼を殺そうと企んだ。
㐮公は桓公を狩りに誘い、息子の彭生(ほうせい)に命じて射殺させた。
㐮公は喜び、文姜を斉にとどめ置き、ついには人の道にはずれ妹を妾にしてしまった。
その後、悪事の暴かれるのを恐れて、息子の彭生までも殺した。
斉の諸侯は口には出さぬが、息子を殺し、妹を姦する㐮公から心は離れていった
斉には管仲、鮑叔牙(ほうしゅくが)と言う二人の忠臣がいた
二人は話し「これは亡国の始まりである、いまのうちに太公望の末裔である
我が国を㐮公の無道の振る舞いで断絶させてはなるまい」と一致した。
㐮公には二人の息子いた、兄は糾、弟を小白と言う、二人とも幼く、鮑は糾を、管仲は小白を連れていずこかへ去った。
その後も桓公の暴走は止まらず、ついに一族の公孫無知によって殺され、国を奪われた。
この時、小白は他国にあり成長した、小白は管仲と共に斉に戻り、ついには斉を取りもどした。