晴信の殿軍も速やかに撤退して味方に合流すべく雪道を急いだ
しかし方円の陣形を保っての進軍は滑稽にも見えて、心無い兵は「もはや敵の追っ手も無いと言うのに仰々しい構えである、何とも小心なことよ」と嘲った。
晴信は「まだ薄暮の内は、敵の追っ手いつ来るやもしれぬ、抜かりなく備えるのが万全である」と陣構えを崩さなかった。
そして敵地から3~4里来た頃に闇が周囲を覆いつくした
晴信は部隊の行進の停止を命じた、焚火を起してしばしここで休息をとる、皆のもの軍装を解いてしばし横になるがよい」と命じた。
その時、軍監の板垣信形が様子を見に来て驚いた
「この時に休息とは如何されたのじゃ、御本陣は既に8里も先に進んでおる、急ぎ後を追いなされよ」
晴信も軍装を解きながら「殿軍の緊張で皆疲れておる、もはや敵も追うてはくるまいゆえしばし暖を取っての休憩じゃ」
板垣は「何を申されるか、いつまた敵が追うて来るやもしれぬと言うのに」
「なあに勝ち戦に乗じて追うてくるのが定石であるのに、今こうして夜を迎える頃になっても来ない、昼間に来ぬ者が夜になって、のこのことやってくることはない」と取り合わない。
板垣は顔を真っ赤にして「なんと情けないお言葉じゃ、とても一方の大将の言葉とは思えませぬ、疲れたなどとひ弱なことを申されるとは、お屋形様が若き頃には三日三晩甲冑を解かずにいたこと度々ありましたぞ
お屋形様が『晴信はたわけた臆病者じゃ』と時々口にされたが、今このとき某も納得いたしました、おすきなようになさるが宜しい」
そう言うと陣幕から去っていった。
晴信は兜を枕にして体を横たえてしばし休息した。
しばらくの時が過ぎると、晴信は起き上がり軍装を整えると、具足びつに腰かけて威厳を見せ左右の者に「今井市郎、教来石民部を急ぎ呼びよせよ」と命じた
二人がやってくると「ただちに配下の物頭全員ここに集合させるように」と言った。
全ての物頭が揃うと、その後方には板垣も何事かと来て、晴信を見て、その凛々しい大将ぶりに驚いた、黒糸の胴丸具足に金の耳副輪の黒の陣笠、腰には四半に大菱の腰指。
晴信は「これより我らは海野口に取って返す、そして我らを嘲った平賀源心を討ち取る
我は本国を出る時より、容易には落城しまいと思っていた、もし雪が降り、道を覆ったならば半途より軍を引き返し攻め寄せるつもりであった、その為に殿軍を申し出たのである、予の初陣の功名はじめとして平賀入道を討ち取って槍の穂先にその法師首を突き刺して本国に立ち返ろうではないか
それゆえに近習に申し付けて白紙の旗を300本作らせたのである」
教来石が長櫃の中から紙旗を300ほど取り出した
「教来石、今井市郎が若手は先陣を切ってその勢150を以て城の大手より攻めかかれ、板垣駿河守、小幡尾張守は遥か後方で50人を率いて雪の中に白旗を立てて、金太鼓を打ち鳴らして偽兵の計で大軍を装うようにせよ。
儂は100を率いて搦め手より忍び寄り、大手に敵兵が集中したころ合いを見て石垣を上って攻め入り城中に火をかける
敵は恐らく間者を放って本陣が8~9里先を行き、殿軍の我らが3~4里の先にいることは承知であろう、われらのような小勢が戻り攻め寄せるなど夢にも思わうまい
今日囲みが解けたので数日の疲労一同に起こり、前後不覚の眠りに落ちるのは明白である、我らが不意に攻め寄せれば、敵は大混乱に陥り、明け方までには落城するのは必死である」
これを聞いた板垣信形は涙を流して「先にはあきれ果てて過言申し上げましたが、ただいま君の計略いちいち理にかなったこと承り、某の心魂に徹し恐れ入り奉りました、四十年来戦場を駆け巡りましたが、このような神機妙算の謀は初めて聞きました、己の愚かな考えで名君を罵ったこと天罰に値します」と腰を折って詫びるのを見た晴信は
「汝の先ほどの忠諫は的を得たものであった、君を君と思えばこその諫言である、これこそが忠臣である、それよりもことは急ぐ、敵にもれる前に急ぎ兵を引き返そう」