武田家には代々に渡って仕えた家臣が数多あった
その中でも山縣河内守虎清、馬場伊豆守虎貞、工藤下総守虎豊、内藤相模守虎資の四名は四臣と呼ばれて家中の長、いずれも性格は忠義に溢れまっすぐであった。
ある時、四人は集まって「われらは代々長臣として重き御恩を賜って来た、しかし御屋形の悪行は日ごとに度を増している、われらはこれを見て見ぬふりをしているが、諫言を致さぬのもまた不忠というものではないか、臣の道を外してはならない。 しかしこのような暴悪な主人であるから、われらの諫言などおそらく聞き入れはしないだろう、だが聞かないとからといっても死をもって諫言するのは臣たるものの職分である
だが四人が揃って共に死ぬのは国の大事の時だけである、この度はくじを引いて「先」の文字をひいた二人が諫言して死を賜ろうではないか、「後」を引いた二人は「先」の諫言が通らぬ時、頃合いを見て再び死をもって諫言することとしよう」そのように取り決めてから身を清め信虎の先代、信綱の墓に参って蝋燭、線香を立ててお参りをしたのち、くじを引いたところ、山縣と馬場が「先」であった。
互いに、これからの行く末を示し合わせて名残を惜しむ宴を行い諫言の時を待った。
ある日、信虎がまたしても妊婦を捕えてきて庭先に縛り付けたところに、馬場と山縣が信虎の前に進み出て頭を下げて言った
「近頃の御屋形のご行跡は人の道、人の法に背いておられます、それを御諫めするのは忠臣の道ではないかと思い、もろもろの神や、代々の御尊霊に祈り続けていましたが、その甲斐なくいまや仕方なく御面前にて諫言仕ります。
民は赤子で、主君は主母であります、民を慈しむことこそ主の務めであるのに、このような残虐非道の行いで民を恐れさせれば、民はこの国を捨てて去っていきます、民を失った国家は没落するしかありません
近頃は妊婦の腹を割き、民を虐殺するなどの悪行で民はみな恐れおののいて一人として安眠できぬ有様です、上下みな恨みをもち、特に木曽、小笠原、村上のごとき大敵を周囲に抱えて、庶民が国を見限ればこれらの敵に内通して内外からの攻撃をうけることになり、はなはだ危ういと言えましょう。
このままでは名家武田家が滅ぶのも時間の問題となりましょう、なにとぞお聴き入れ下さりますよ伏してお願い申し上げる次第でございます」
そう言って馬場は懐中より諫書を取り出して、うやうやしく信虎に手渡した。
信虎受け取った諫書を一瞥すると、そこには数十か条にわたる信虎の悪行が書き連ねてあった
信虎は、さらさらと目を通しただけでも既に顔面には怒りを含ませていた
そして、たちまちその書を寸々に引き破って
「汝ら、身分もわきまえず下が上に非を諫言するなど言語道断の仕方である、たかだか五人や十人の妊婦を慰みのために殺めたとて何ほどのことがあろうか」と睨みつけた
虎貞は、これを聞いて「人民を殺したことを慰みと申すはいかなる道理でありますか、そもそも慰みというものにも品格がある
まず諸侯の慰みは鷹狩、鹿狩りである、それすら春夏秋には狩りをしない、それは民の農業を妨げぬためであります、それなのに御屋形が領民を無残な殺し方をするのは、殷の紂王の悪逆に等しい振る舞いでございますぞ」と涙を流して諌めた。
信虎は、それに対して一言も発さず、その座から立ち上がると膝元の大脇差を抜き放して飛び掛かり、虎貞の右手の肩口から乳下まで一刀で切り下げた。