神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


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空想歴史小説 貧乏太閤記34 半兵衛が家臣に

2022年10月14日 17時52分26秒 | 貧乏太閤記
都では大事件が起きた、将軍足利義輝が三好の一派に暗殺されたのである。
越後の上杉政虎は、それを聞くと越後を捨ててでも仇を討つと言って出陣を命じたが家臣たちが諌めてあきらめた
信濃の武田、関東の北条、加えて伊達にそそのかされて反乱を企む、越後阿賀野川の北の土豪集団「揚北衆(あがきたしゅう)」
とても越後を空けるわけにはいかない事情があった。
武田信玄を書いたから、上杉政虎についても一言
政虎の父は長尾為景(ためかげ)と言って越後の守護代だったから、信長の父、信秀よりワンステップ上位だ。
越後の守護は関東の上杉家であったが、越後には来ないで為景に任せていた
為景は織田信秀同様に勇猛で主に越中(富山)へ進行して領土拡大に励んだ、しかし越後(新潟県)は今もそうだが、越中の3倍もある大きな国だから、豪族も多くて守護や守護代の言うことを聞かない者も多かった
守護代である以上、そういった者を従わせるか成敗しなければならないから安らぐ暇はない
そして守護の上杉氏とも戦い殺して、自ら守護を自認した、だが越後は荒れるばかり、そのさなかに病死した。
残された晴景、景虎(かげとら=政虎)ら兄弟は反逆者の攻撃にさらされた、僧修行をしていた虎千代(景虎=政虎)も還俗して兄を助けた。
兄は病弱なので戦上手な政虎が長尾家を継いだ、そして越後をまとめ、越中勢と戦っていたが、信濃や上野(群馬県)から助けを求める豪族が次々とやってきた
信濃は武田信玄が敵、上野は北条氏康が敵であったが、ひるむことなく政虎は戦いを挑んだ、特に有名なのは信玄との11年にわたる川中島合戦、北条を小田原城に閉じ込めた関東遠征が有名である
関東管領上杉憲政から管領職と上杉の姓を譲られて、上杉政虎となった、その後、足利将軍足利義輝から名を貰い、上杉輝虎とも名乗った、そして最後は入道して、上杉謙信となる。
そして加賀(石川県)の手取川で織田信長軍を打ち破って、信長に改めて謙信の戦上手を印象付けた。
しかし生涯、越後国内の裏切りに翻弄された正義の武将であった。
信玄が死んで数年後に追うように謙信も49年の人生を終えた、馬上でも大盃で酒を飲むほどの酒豪であったらしい、卒中で亡くなったと言われる。
領土拡大の野心も持たないから、いつもただ働き、生涯妻を持たず、妾もなく、男色の気もなかったというから、義の戦と、信仰と天皇、将軍へ奉公が生きがいだったのだろう。

織田家に戻す
秀吉が書写山に籠っている竹中半兵衛を訪ねて、断られても断られても、雨が降ろうが槍が降ろうが通い詰めて、ついに半兵衛も根負けして従ったことは
中国「三国志」の中で、三国の中で一番力がない蜀の王「劉備玄徳(りゅうびげんとく)」が策士「諸葛良孔明(しょかつりょうこうめい)」を自分の軍師になってほしいと「三顧の礼」を尽くして、ついに口説き落とした話を引用したものである。
実際は、どのように半兵衛が秀吉の家臣になったのだろうか。

半兵衛は書写山の庵に謹慎したけれど、屈辱を受けた粘着気質の斎藤竜興の怒りは鎮まらず秘密裏に刺客を送った。
危険に気づいた半兵衛は早々に山を下りて尾張を目指して発った
木曽川に沿って山道を隠れ隠れしていくと墨俣城が見えてきた
(話には聞いていたが、これが墨俣の城か、城と言うよりは砦の親分と言った方が良い)
興味を持った半兵衛は足場の良いところを探しながら、城の探索を始めた
斎藤家を出奔したにもかかわらず、折あらばこの城を攻め落としてくれようという軍師魂が燃え上がってきたのだ。
ところが足を滑らせた、物音に「誰だ! おっ怪しい奴がいるぞ」
蜂須賀の手の者がすぐに追いついて半兵衛を縛り上げて、城内に連れて来た
「殿に知らせよ、吟味してもらう」
秀吉がやってきた、詮議がはじまった
「主(ぬし)は誰じゃ、美濃の間者か、なんともドジな男よのう、土手から落ちて捕まるとは間の抜けた間者じゃ」
「・・・」
「なんとかゆうて見よ、名前はなんじゃ」、
「・・・」
「ふふ~ん 口だけは堅そうじゃ、仕方ない三蔵、若くて気の毒だがこいつの首を刎ねて川に流してしまえ」
半兵衛は「これまでよ」と観念した、生死に執着しない自分を発見して半兵衛は苦笑した(儂も案外肝がすわっていたか)
「さあ覚悟しろ、そこが土壇場じゃ、首を亀のように伸ばすのだ、下手に首をすくめれば頭蓋骨を砕いて痛い目に遭うぞよ」
そして引き据えられたところに小六がやってきた
「なんじゃ、なんじゃ」
「美濃の間者を始末するところなのだ、小六殿も見物するがいいわさ」秀吉が笑いながら言った。
「ふーむ、どの面じゃ? 美濃の侍なら儂も多少は知っておる、ちょっと顔を持ち上げて見せて見よ」
子分が半兵衛の顔を持ち上げて小六に見せた
「やや! なんと!」
「おお! 蜂須賀の小六殿ではないか」半兵衛も驚いた
「半兵衛さま」小六も驚いて
「馬鹿者!すぐに縄を解け、このお方は稲葉山城を乗っ取った竹中半兵衛重治様じゃ」
今度は秀吉が驚いた「なに!竹中半兵衛じゃと、急げ急げ、城内にお連れしろ」

それから小六を交えて3人で一刻も語り合い、その夜はささやかな宴も開いた
半兵衛もこうした時間を過ごすうちに「天才は天才を知る」ですっかり意気投合してしまった。
「なんと幸運が自ら転がり込んできたわ、探す手間も三顧の礼もせぬうちに儂の手に入るとは儂は福長者じゃ」
早速、清州の信長に使者を送った「半兵衛殿、明日は儂とともにお屋形様にあっていただく」
「仕方ありませぬ、一度死んだ命これも定めと言うもの、従いまする」

翌日の午後、信長は半兵衛に会った
「なんとあの稲葉山城を乗っ取ったというから、いかなる豪のものかと思えばこれはまた色白の優男ではないか」
信長は少しがっかりした、想像と全く違っていたからだ、柴田勝家のような猛々しい男を想像していたのだ。
「どうじゃ、儂に仕えぬか」ととりあえず言ってみたが、すでに玩具に飽きた子供のような心境になっている
「お仕えしましょう、だがお願いがありまする」
「なんじゃ言ってみよ」
「許されるならば、木下さまの家中としてお仕えしたいのです」
「そんなことか、よし許す、これ藤吉郎、半兵衛をそなたの家臣として使うがよい」
信長はホッとした、どうも竹中半兵衛タイプは苦手だと思った、なぜか一目でそう思った、秀吉に仕えたいと言ったのはもっけの幸いである。
逆に秀吉は喉から手が出るほど半兵衛が欲しかったから、こちらはこちらで棚ボタだったのだ 「ははぁ」土下座しても笑顔がこぼれてしまう秀吉であった
飽きっぽい信長のおかげで秀吉は得難い軍師を得た、これによって秀吉の才に半兵衛の智謀が加わり、さらに小六の武で怒涛の出世物語が始まる








砂の表情

2022年10月14日 08時28分59秒 | 散歩道
浜辺の砂浜と言うけれど、砂にも表情がある
砂粒にも個性がある 波と砂 風と砂 流木と砂 捨てられたごみと砂
砂は植物を育て 鳥を育てる
砂浜歩きは面白い















風が聞こえる 風紋

砂に埋もれても逞しく生きる

砂浜の藪の中にはコケも住んでいる








空想歴史小説 貧乏太閤記33 稲葉山城乗っ取り

2022年10月13日 18時40分07秒 | 貧乏太閤記
同じ年に稲葉山城内で反乱がおきた、美濃国主斎藤竜興は異常な性癖があり、家臣や美濃の土豪の中には眉をひそめるものが多かった
しかし怖いので誰もそれを指摘しない
竹中半兵衛という家臣がいる歳22、1万石の城主である、知略に長けていたが凡庸な竜興にその価値はわからず重用しなかった
それどころか愚にもつかぬ悪ふざけで半兵衛を辱めたりした
半兵衛の弟は病弱だったが人質として稲葉山城内にいた、半兵衛は弟に連絡をつけて仮病を使わせた
そして家来数人だけ連れて病気見舞いを理由に登城した
見舞いを終えると弟の着替えと称した長持ちの中から武器を取り出して直ちに竜興を襲った、警護の武士を切り捨て竜興をねじ伏せるとその髷を切り落とした「命はいただきませぬ、これに懲りてわが身を改めて反省なさい」
そして半兵衛の家来が合図すると城の周りに潜んでいた武装した300人の家来たちが城内に入り大手門を閉じた
竜興は城内に在った竜興の家来と共に追い出され、同調する者は仲間に加わった
しかも半兵衛の舅である西美濃の大物、安藤伊賀守も武装した家臣を引き連れ半兵衛の後詰となって威圧した。
竜興は重臣や土豪に半兵衛を討って城を取り返せと命じたが、その前に半兵衛から皆に、この度の趣意書が渡っていた
それによると「この度のことは謀反ではなく、ただただ竜興さまの素行よろしからずを戒めるために行ったものである。
その証拠に数日中に私は城を出ていくので、以後は竜興さまにお返しする、いかに竜興さまでもこのようなことが起これば、家臣に不満があることを知ったであろうから、皆々様にも今後は竜興さまの至らぬところは戒めていただきますようお願い申し上げる
拙者は禄を離れて山中にて隠居いたします。」
そのため誰一人、半兵衛を討とうというものはなく近しい重臣稲葉は逆に竜興を諌めた「半兵衛こそ忠臣と申す、国の宝なり。 それを害すれば国内では一斉に反乱がおきるでしょう」
竜興も半兵衛を見逃すしかなかった、半兵衛は弟に家督を譲り、自分は約束通り人里離れた書写山に籠って勉学にいそしんだ。

「聞いたか半兵衛がこと」信長が主だった家臣の前で言った
織田家も少しは大きな集団になりつつあるから家臣団の原型が出来上がってきた
家族親族の織田一門衆があり、家臣団は老臣クラスに佐久間信盛、柴田勝家の二大巨頭
その下に前田利家、池田恒興、佐々成政など信秀時代からの名門の御曹司がいる
秀吉は城持ちとはいえ墨俣城は砦に毛が生えた程度のものである、家柄もないのでまだ司令官クラスには入れない、だが会議の末席に加わることは許された
「竹中半兵衛、家臣にしたいものである。
だれぞ説得する自信があるものはいないか」
「お言葉でありますが竹中半兵衛という御仁はそうとうな変人とのこと、
頑固一徹で無口で謀反のあと美濃の重臣たちも入れ代わり立ち代わりで帰参を求めて通いましたが断られるばかりで
今やだれも行かないとのこと、まして織田家は敵国であり尚更言うことは聞きますまい。
まだ20そこそことのこと、噂通りの器とは思えません、たぶんに尾ひれがついているのではありますまいか」
誰も返事ができないので佐久間信盛が言った
「よお申した佐久間、さすがはその方じゃ できぬでできぬの信盛か、立派なことである」
信長のこめかみがぴくぴくしている、信長は癇癪持ちである、そして極端に気質が代わりやすい転換気質である、そのくせいつまでも恨みを忘れない粘着気質も持っている
すなわち家臣泣かせの難しい主君なのである。
「できぬ話を聞いているのではない、できる話を聞いておる!」
さすがに重臣の筆頭の佐久間に恥をかかせるわけにはならぬと信長なりに必死に感情を鎮めようとしている
すると末席にいる秀吉の顔が目に入った
「木下藤吉郎、うぬなら半兵衛の説得できるか」
秀吉はいきなりの指名に「ハッ」と顔を挙げた考える間もなく
「ご指名とあらば、やってみまする」
信長は屈託のない秀吉の顔を見て急に晴れやかになった
「たわけ、誰がやってみろと申した、できるかと聞いたのじゃ」
「ははぁ~~できまするぅ~~」平伏した
「よし、申しつけた、竹中半兵衛を清州に連れてまいれ」信長の目が笑っている。



波の表情

2022年10月13日 09時51分29秒 | 散歩道
昨日は平日だけど海に行った、いつもは歩かない砂浜と草むらの境をゆっくり歩いた
海を見た、波を撮ってみようと思って、波打ち際近くまで行った
一昨日の大波は鎮まったが、まだ荒れ気味の海
面白い波のペイント、流れるペンキが面白い
エコライザーの音楽の波のように踊っている















空想歴史小説 貧乏太閤記32 墨俣功績 秀吉になる

2022年10月12日 18時40分12秒 | 貧乏太閤記
1560年頃の力関係は武田、上杉がライオンであれば、織田はまだ狼程度、家康はヤマネコ程度だっただろう、ゆえに信長が今川義元も首を取ったのは
狼が陸に上がったワニを不意打ちで殺したようなものだ。
いずれにしろ織田信長から今川の脅威が一時的にしろ消えた、しかも今川領との間には同盟した松平家康の三河が防波堤となったから後背の憂いなく美濃の斎藤竜興を攻めることができる。

「天が味方してくれた、熱田の五神さまのご加護があったからだ
儂は今川との勝ち負けは考えずにひたすら駆けた、
あのとき、儂が駆けたのではない、導かれたのじゃ、みちびかれるままに駆けただけだった、そこに義元の首が待っていた」
織田家中が居並ぶ前で信長は思い出すように語った
「さて、邪魔な今川は鳴りを潜めた、あとは徳川家康に任せて、われらは因縁の敵、美濃の斎藤を攻める
竜興は先代義龍と違い凡庸で、今は尾張を攻めるゆとりはなく守りに入っている、今こそ攻めるときじゃ」

チャンスと見た信長は美濃に攻め込んだが、稲葉山城は320mの急峻金華山全体が堅城になっており、本丸天守は小ぶりだが険しい山頂尾根の終点に建っている
さらに長良川が天然の堀となっている
また稲葉山を中心に稲葉、氏家、安藤の西美濃の有力土豪が堅い守りで織田軍を撃退した。
対外的になかなか信長の思い通りに進まないのに、国内では犬山城の織田信清が背いた。
「信清叔父まで背くのか」
3年前、岩倉城の上四郡守護代織田信賢との戦では、信長の姉婿の信清が味方してくれたおかげで勝ったのだが
その後、楽田城など信賢の領地の一部を信清に与えたが、まだ足りぬと不平不満を度々言ってきた、信長も適当にあしらっていたら反乱したのである

信長も手を打った、少しずつ信賢の出城を落城させていき、翌年には楽田城を見下ろす小牧山に城を築くとたちまち楽田城を攻め落とした
もう犬山城は目と鼻の先だ、信賢はそれから数か月持ちこたえたが、多勢の信長に圧倒されてついに城を捨てて逃げて行った
後に武田信玄の家臣になったという、信長の領土は犬山まで伸びたことで美濃攻略戦の東部最前線となった。
信長は小牧山城を拠点に移して、美濃を伺ったが信清の反乱に水を差された感は否めない。

父信秀が死んで18歳で家督を継いで11年、戦に明け暮れた毎日であった、そして特徴的なのは、敵のほとんどが織田姓なのだ。
兄弟、従兄弟、叔父、大叔父、それに系統が違う織田家、それほどまでに織田家は尾張の中に広がっている
信長は長男だが、それは正妻の長男であって、側室には信長より年長の兄もいる、わかっているだけでも男13人、女12人と言われる兄弟姉妹だ。
信長自身も最終的には12男12女を製造したとか。

しかし11年戦争しても領土たるや伊勢湾から犬山までの木曽川の内側、犬山から南下して現在の名古屋第二環状線に沿った外側10kmくらいの範囲しかない
愛知県の約7割5分、それが信長が勝ち取った領土だ。
他国を攻め取ることが富国強兵の手段だった時代、領土拡大は「天下統一」などというお題目とはかけ離れた切実な戦国武将の業だったのだ。

いかにして守り固い美濃を攻め落とすか信長の悩みはここである
まずは拠点の城が必要だ、美濃までは近いようで遠い、負けた時などみじめで追い打ちされて多くが尾張に逃げ帰るまでに討ち取られる
真ん中あたりに城があれば、そこに兵をおける、武器も置ける、敗れてもすぐに退避できるし、新手の増援もしやすい
しかし尾張西部は長良川、揖斐川、木曽川の主流がせめぎ合うように美濃まで続き、それぞれの支流は蜘蛛の巣のように細々と絡み合っている
それは所々に洲を作り、その地の者でなければどこが安全に渡れるかさえもわからない。
信長は、そんな長良川を上った大垣と稲葉山の中間「墨俣」(すのまた)に拠点を築こうとしたが、あまりにも敵地に入りすぎていて材木の搬入さえままならない
骨組みができればたちまち攻め込まれて破壊される、放火されるで柴田勝家さえ失敗したくらいだ
だが粘着質の信長はあきらめない、ついに藤吉郎に白羽の矢が立った
「藤吉郎できるか」内容も知らせないのに「できます」明快に答えた
信長は言い訳も固辞もしない藤吉郎にいつも快感を覚える
まことに気持ち良い、できるかどうかもわからないうちから「できる」と言う
そして必ずやり遂げてしまう、かえって信長の方が危ぶむほどなのだ
(いったい、この小男の頭の中には何が詰まっているのだ、貧しい百姓上がりでまともな学問も受けていない、それが名門の侍より遥かに知恵がある行動力も人脈もある)どう考えても天才信長でもわからない
「よし命じよう、うまく完成した暁には藤吉郎そのほうに、この城をやろう、城持ちになるのだ」
藤吉郎の目が輝いた「へへ~~ 身命を賭してやり遂げまする」
川の中の小さな洲に作る城など砦に毛が生えたようなものだが、それでも信長は城と言った
「城持ちか、このわしが」藤吉郎は悪い気がしない、ワクワクしている。

藤吉郎は小六を訪ねて相談した
結論はこうだ、斎藤家の見張りは常に川下の尾張側に集中している
ゆえに川下から藤吉郎の軍勢が騒ぎ立てて、川下から材木を運び上げるふりをする
斎藤勢が川下に気を取られているうちに、川上の森で蜂須賀党が材木を組み立て川上から墨俣に筏で下る
その間、川下から絶え間なく鉄砲などを斎藤方に撃ちかけて気を引き付ける
墨俣の周りに木々の多いところを選んで城を組み立てるが、さきに柵を周囲に張り巡らして防備を固める、その中で一日で外観を作ってしまえば敵は驚きいったん稲葉山に戻るだろうから、その間に内部を完成させてしまう
というものだ。
翌日小六が男を連れて来た、「木下殿、役に立つ男を紹介しよう、儂の義兄弟でござる」
いかつく鋭い目の男である「前野小右衛門長康と申す」
「実を言えば、桶狭間ですでに儂と共に働いておったのでござるよ
小右衛門は美濃あたりの土豪の出で浪人して岩倉に仕えたりしてのち、織田家の滝川様に仕えていたが気に入らぬらしくまた浪人に戻っていた」
小六が説明した
「小六とは若き時の友でありましたが、たまたま会って退屈しのぎにやってみただけでござる」
「木下殿、使ってみてくださるか」と小六
「小六殿の推薦とあらば間違いあるまい、ぜひとも力をお貸しくだされ」
「よおし、話は決まった、小右衛門の働き見せてやってくれ
墨俣は単純な川ではない、多くの支流が集まる洲のようになっておる、ゆえによほど詳しい者でなければ守り切れぬ、また攻め切れぬ
小右衛門は儂より墨俣近辺には詳しい男だ、木下殿の役に立つであろう」
小六が自信ありげに言った。

日取りを決めてから秀吉は信長に会った
「築城の前日より鉄砲隊50、偽装人夫100をお貸しください、戦は致しませんただ材木運び上げの真似と鉄砲で騒ぎ立てるだけです
足軽は拙者の兵を使いますので不要です」
当日、信長は佐々成政に鉄砲隊100と人夫100をつけて柵を巡らせてゆるゆると材木を運び、敵が見えると鉄砲をぱらぱら撃ちかけた
そのすきに上流から蜂須賀党が佐々隊の3kmほど上流に予定通り、二重の堅固な策を巡らせ、その外側には川から水を引いた簡単な堀も巡らせた
そして目隠しの木を切り倒すと(ほんとうは)外観だけ立派な城ができていた
藤吉郎の予定通り、敵は逃げ帰り報告した
その間により強固な城を見事に完成させたのである

信長は「やはりやりおったか、サルめ大ザルになりおった」
そして墨俣城を約束通り藤吉郎に与え、身分も1500貫を与えて従う武士50人を許された、さらに木下藤吉郎秀吉の名乗りも許された。
この日から木下秀吉と書くことにする。

秀吉は蜂須賀小六正勝、前野長康以下、蜂須賀党30名を家臣にすることを願い出て許された。
蜂須賀、前野は藤吉郎の右腕、左腕となって家来を率いた
この頃、前田利家も信清との戦などで手柄を立てたので2000貫の中堅武士になっていた、秀吉は利家に追いついたのである
もっとも秀吉の出世を一番喜んでくれたのは利家であった、また利家の妻まつと秀吉の妻ねねも姉妹のように仲が良い
互いに行き来してますます友情は深まった。













生活が変わって見る夢まで変わった

2022年10月12日 09時41分07秒 | ライフスタイル
昨日は朝6時半に起きて、朝食を作ったり、掃除をしたり、庭を見たり
食事をしたのは9時半だった


自分の部屋に戻り、なぜかベッドに横になったら、また寝てしまった
目が覚めたら、もう昼12時、あらら2時間も寝たのか
ずいぶん奇抜な面白いホビー的な夢だった、ある意味スティルバーグのトワイライトタイム的な作品だった
いくら何でも昼食には早すぎる、それで久しぶりの日差しだから毛布を干したり、小説を1時間半ほど書いて昼食は2時半
何食べたかなあ? 朝はつーくんにもらったスグリ菜とエノキと油揚げのスープ仕立て、ご飯と納豆それだけ
昼は冷凍ラーメン横浜豚骨しょうゆ味」っての、今どきの冷凍ラーメンは具も入っているし、味も結構いけてる、
値段は300円くらいだしラーメン1000円時代、ラーメン好きの節約生活には欠かせない
それと、ご飯が残っていたので卵とキャベツだけの雑炊
昼はこれでも食べすぎだから、しばらくしてからウィルソンピケッツのLPをかけて一人ダンスでスリム化を図る、「千里の道も一歩から」
そのあとはパソコンでチェックしたり、小説チェックしたり、メールを送ったりして4時過ぎから散歩に出た
今日は標高差40mほどの道を往復4kmほど歩いた、歩きながら写真を撮った
うっすら汗をかいたが、久しぶりに太ももやふくらはぎに良い刺激を与えた
怠けていたそれが硬くなっていくのは結構楽しい






夕食はおでんだった、おでんを食べながらウィスキーの水割り、少しごはんと思ってまた納豆で食べた。
納豆は健康にいいし、コロナウィルスにも少しは効果があるらしい
4回目の接種はちょっと考え中。

秋特有の帯状雲と、夕日の放射光がクロスして幻想的な光景を作り出した
下方には夕焼けが海面をオレンジに染めている

今朝のモーニングプレート
「食欲の秋」  でなくても食欲旺盛








空想歴史小説 貧乏太閤記31 (決戦 川中島)

2022年10月11日 18時37分42秒 | 貧乏太閤記
善光寺平周辺の土地を奪われた信濃豪族は越後の上杉政虎を頼ったので「弱きを助け、強きをくじく」がモットーの政虎は
無報酬、見返り不要の正義感だけで引き受けた
これまた戦に負けたことがないという越後軍団を率いて、ついに信州川中島で武田勢と睨み合った
さすがの武田信玄も上杉政虎が醸し出す神的なオーラと、無言無表情、一糸乱れぬ統一された越後神兵の前にうかつに動けなくなった。
戦国最強と自他ともに認める甲斐の武田軍団、だが初めて見る越後の上杉軍団には今までの敵とは全く違う怖さを感じる、不気味なのだ
信玄より10歳くらいは若いのか、信玄は初めて手ごたえがあるライバルを見て嬉しく思った。
あれほどイケイケの武田騎馬軍団が越後軍を前に一歩も前に進まない
そんな戦いが5年の間に三度あった、千曲川を挟んで睨み合っては互いに兵を引いた

ところが4回目の会戦は違った、決着をつけたい上杉政虎はなんと千曲川を渡って武田方の陣の奥深く入り三百数十mの妻女山に陣取ってしまった
今までは千曲川(犀川)を挟んで一か月も睨み合うだけだったが、今回は西の茶臼山に信玄本隊、東に武田の海津城、その真ん中を上杉軍は悠々と通って
自ら袋のネズミになったのだ、武田軍はあっけにとられた、こんな敵を見たことがない、よほど自信がなければできない芸当だ
「なにか政虎は企んでいる」疑心暗鬼になった。またしても武田軍は攻めることができなくなってしまった
信玄は茶臼山を下りて海津城に入った
しかし一か月もそんな状況が続いて逆に武田信玄が我慢できなくなった
政虎は悠々と琵琶などを弾いて詩吟をうなったりで動く気配がないという
これでは本国から遠く離れた甲州勢が不利だ、しびれを切らした信玄自ら千曲川を渡り、八幡原に本陣8000を移した、政虎を川中島におびき出すおとりになったのだ
政虎、信玄たがいに危地に自ら入ったこと自体、今度の会戦で雌雄を決しようという気持ちが表れている。
ついに霧の夜、数に勝る武田軍は(上杉12000、武田20000といわれている)動いた、海津城から12000の別動隊が裏山に入り妻女山の上杉軍を追い落として川中島の本隊8000と挟み撃ちにする作戦
しかし天才上杉政虎はその作戦を見破って先手を打った
武田別動隊が妻女山に着く前に深夜、霧に紛れて山を下り、早朝4時すぎ川中島にいる武田信玄の本隊に襲い掛かった
今度は上杉8000対武田8000の本隊同士の五分の戦いになった、しかし急襲した越後勢が断然有利で信玄本陣の前備えの各部隊は打ち破られ、陣形が破綻していった
武田信玄の弟、典厩(てんきゅう)信繁、軍師山本勘助、歴戦の大将諸角豊後、初鹿野伝右衛門が討ち取られた
信玄の嫡男義信も負傷した。 信玄本陣も危うくなった。 
信玄は本陣をじりじりと後退させて海津城を背に戦おうとしたが、上杉軍は先に広瀬の渡しを抑えて海津城との連絡を絶った
そして千曲川を背にして車懸かりの戦術で攻め立てたために、信玄旗本隊は北國街道に沿って雨宮の渡しへと南西に向かうしかなかった
ところが雨宮の渡しも上杉の甘粕近江守が信玄の別動隊に備えて抑えている

ついに茶臼山下の御幣川(篠ノ井)まで追い詰められて万事休すとなった
しかし妻女山に向かった別動隊12000がようやく戻ってきて
広瀬と雨宮の中間の浅瀬を探して渡り、背後から上杉軍に突入したから、
今度は上杉軍が背後からの新手、前には信玄本陣という挟み撃ちになってしまった
形勢は逆転した、上杉軍は混乱して北國街道を犀川の味方陣地まで逃げ帰ったが、途中で多くの兵が討ち死にした、信繁の首級も味方が取り返した

謙信は僅かな旗本を引き連れて正面の信玄の本陣に突っ込んだ、そして信玄らしき大将を認めると、馬上から三太刀振り下ろすと手ごたえがあった
しかし敵の長槍が一斉に繰り出されたので、急いでそこを離れ、再び八幡原の北を抜けて犀川へ逃れた
ここには上杉の予備隊5000が駐屯しているのでここまでくれば安全である
これが有名な第四次川中島の決戦である、双方合わせて1万人の死傷者が出た激しい戦いであった
勝敗は引き分けと言うことになっている、前半は上杉、後半は武田の勝ち
武田は上杉を追い返して川中島の占領を安定させたから勝ち、
上杉は武田信玄の弟はじめ大将を3人も討ち取ったから勝ちとしている。
相撲風に言えば上杉は「戦に勝って、勝負に負けた」といえよう。
互いに大損害を被ったが半年後にはどちらも回復してまた戦を始めているから、この二強こそが薩摩の島津を入れて当時の日本最強だと思える
だから最強の東西横綱同士の武田と上杉が11年間も田舎で戦争を繰り返していたことは織田や松平には幸いしたのである。
もともと上杉政虎は他国侵略の野望はなく、彼の戦争の大部分は頼ってきたものを助ける「聖戦」だったのだ。
一方、武田信玄の領土拡大欲は誰にでもわかるほど露骨である
そんな信玄を謙信は信濃の片田舎に11年も釘づけにしたのだから織田信長や秀吉、家康にとってはまさにありがたやの神様以上である。

もし信玄が政虎との決戦を避けて北信濃をあきらめ、松本平から木曽方面を目指せば10年早く三河に到達したかもしれない
そうすれば信長、秀吉、家康らの未来は、日本の歴史はかわり江戸時代もなかったかもしれない。



 







庭を生き返らせよう

2022年10月11日 07時27分15秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚
甘く良い匂いがすると居間を占領している女房殿が言うから、行ってみた
「金木犀じゃない?」
廊下からガラス越しに(雨だったから)覗いたら、たしかに黄色い花をつけて木がある
この家に来てまだ半年なので、庭に何があるのかよくわからない、しかも木花に疎いから尚更だ
我が家に金木犀があるとは感動ものだ、大きな木ではないが確かにあった
庭には紅葉、梅、ローリエ、牡丹、つつじ、百日紅、山椒、まだある
父が入院してから10年くらい放置されていたので枯れてしまったものも多い
庭の再生という仕事ができた、肥料など手入れをして再生させようと思う。
10坪ほどの庭は初心者の軽作業にちょうど良い

初めての土いじりでコスモスと菊とニンニクを植えてみた
5日前にコスモスが開花第一号、よりによって冷雨が続いた最中に開花で濡れて可哀そう、日曜は晴れそうだから陽を浴びてほしい
コスモスには爽やかな秋晴れが似合う 今日は久しぶりに晴れるのだろうか


今は3輪咲いただけだが、どんどん咲きそうだ



空想歴史小説 貧乏太閤記30 甲斐の武田

2022年10月10日 17時15分46秒 | 貧乏太閤記
「夢のようじゃ、儂が仕えた頃はお屋形様はまだ那古屋城と古渡の城を持つだけだった、それが今では尾張すべてを傘下に収められた」
「じゃが喜んでばかりもおられまい、地境が広がって敵も増えたわけじゃからな、しかも美濃、長島から伊勢、近江と大きな大名ばかりじゃ」
秀吉の話に小六が返した
「更に遠くには甲斐信濃の武田、関東の北条、越後、上野の上杉など尚更巨大な敵がいる」と前野長康
「それでも北近江の浅井さま、三河の徳川さまがお味方になられたのは助かる、いずれ美濃を攻めることになるから助けになるであろう」
「そうじゃ、御屋形様はいよいよ目の上のたんこぶ美濃の斎藤竜興を攻めるぞ、われらも腕の見せ所よ」

甲斐の武田を少し考えてみる
甲斐(山梨県)の国は豊かとはいえない
信濃(長野)から武州(埼玉)、駿河(静岡)、武蔵(東京)に囲まれ、甲斐を囲む国はそれぞれに広く豊かである
甲斐のみが狭い盆地にあり、しかも寒冷で作物が育つには厳しい、川は時折氾濫して水害を起こす、水害がおきれば疫病が蔓延し、食糧不足が起きる
だが牧畜には適した台地であるから馬の放牧がなされ、それをもとに武田軍は日本有数の騎馬軍団を持つことができた

騎馬は歩兵と違い機動力がある「速きこと風の如し」である、しかし機動力を生かすには道路の整備が必要だ
武田信玄は進行する信濃に向けて八ヶ岳山麓に何本かの棒道(ぼうみち)を作った、騎馬が並列して走れる山岳直線道路だ、今なら高速道路である
これを使って素早く行動するので「侵略すること火の如し」なのだ、たちまち信濃は武田信玄に侵された。
武田信玄は土木に長けていたのではと思う、反乱する河川の堤を築いて田畑と百姓を守った、それなのに堅固な城は築かない
躑躅が崎(つつじがさき)の館で暮らし、背後に山城がある、だが一度も攻め込まれたことはない。 信玄の戦はいつも他国で行っている、それだけ強いということだ。

武田もそうだが尾張は織田、美濃は斎藤、駿遠は今川、武蔵相模は北条、越後は上杉とカリスマが独裁しているのに対し
信濃と関東は中小豪族が割拠して小競り合いをしている、そのため武田信玄と言うカリスマに統一された軍団の前には太刀打ちできない
塩尻峠の戦いのように小豪族が団結して立ち向かってみたが、所詮は小さなおやまの大将の烏合の衆、たちまち打ち破られてしまった。
こんな信州の中でも深志(松本平)の小笠原、上田平(上田)の村上が頭一つ抜け出ていたが、それも善戦したが破れて信濃を追われた。

農業が振るわない甲州人は他国の実りを奪うことがもっとも手早く命をつなぐ方法だったのだ。
その点、同じく冷害に侵される高地民族の信州だがやはり広い、広いから米作は振るわなくても冷害に適した作物が大量に収穫できる
わずかな人口の甲斐の兵が食っていくには余りある、また占領地の民を足軽として利用できるし、真田のように早くから武田に臣従した土豪もいる。
信濃はまさに甲斐の豊かな牧場といえよう、信濃懐柔支配のためにあえて信玄は信濃名族の諏訪氏を従えて諏訪の姫に男子を産ませた
諏訪四郎(勝頼)と名付け、武田家の信州傀儡政権に仕立てようと考えたのだ。
戦闘と策略で佐久、諏訪を最初に奪い、深志(松本市)を占領するとそこを足掛かりに伊那(高遠、箕輪)、仁科(北安曇郡、大町)
千曲川を北上して善光寺平へ、佐久からは上田方面へと戦国最強の騎馬軍団を多方面に進めて行って占領した。
ついには今でいえば長野市、大町市、伊那市、上田市、佐久市のラインまでを占領地とした
さらに貪欲に木曽、上州、越後、飛騨まで狙っているらしい。








さんざんな一日

2022年10月10日 08時28分33秒 | ドライブ
昨日は「サンデービーチ」ではなく「サンデードライブ」
新潟県長岡市の国営丘陵公園へ行って花の写真をたっぷり撮って、周囲の林間を一周しようなんて考えながら出発
行きは年金暮らしゆえすべて国道を走った、途中で息切れして柏崎の海浜公園に寄って休憩、ここも地元の人たちが広い空間を楽しんでいた
やっぱり海は開放的でいいなあ。
途中の赤坂山公園(だっけ)も遠くへ行かない家族ずれがいっぱい来ていた
佐渡も大きくややうっすらと見える、右手には角田山、弥彦山がくっきり青く
手前には柏崎刈羽原発が

海によこたふ佐渡ケ島

原発 露出失敗

米山さん


長岡まで2時間半かけて丘陵公園のアクセス道路に入った
午後1時まわって、そろそろすくだろうなんて大きな間違いだった
取付道路から大渋滞、長蛇の列、おそらく駐車場まで2kmほどはこの状態
30分じゃ入れない、入っても足の置き場がないほどの混雑だろう
これは初老男には良くなさそう、「やめた」
近くの歴史博物館へ、ところがここも駐車場いっぱい、じゃあ悠久山公園、ナビじゃ25分だが国道入り口近くまでで45分
あ~~もうやめた、帰りは高速道でまっしぐら
ここから長岡インターまでまた30分「はあ~~」
やはり3連休はだめだ! 来月からじは平日に変えよう。
田舎と違って都市部は国道走っても信号だらけ、富山でも思うけど信号1回2分停まっても30回止まれば1時間のロス
田舎の国道は40kmノンストップで40分で来てしまうのに

昼はコンビニでと入ったら若者で超満員、焼きそばも、おにぎりも売り切れ
ホタテ飯一個だけ買って、これがうまかった。