神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

リース作りにチャレンジ

2024年02月25日 10時39分24秒 | 趣味
 暇を持て余しているところにお誘いがあり、何をするかも知らず出かけて行ったら「リース作り」とのこと。
当残ながら、どんな材料で、どんな風に作るのか、完成形さえわからないので、ここは先生がおっしゃるとおり素直に聞いて作業を始めた。
参加者は5名で、二人一組で作るが、私は一人で作ることになった
材料は先生が揃えてくれたので、あとは接着作業だけ、それでも完成するのに3時間近くかかった。
先生が作ったもの、私たちが作ったもの、色とりどりで面白かった
あまり面白いので、来月もう一度、やることに決まった、一心不乱に集中していると時間もあっという間にたつ、指先の作業だからボケ防止にもなる
楽しかった。










材料






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 22

2024年02月24日 20時04分34秒 | 甲越軍記
 勘助は一息入れてから話を続けて
「申生のこと、これこそ父に仕えて背かぬ例の鏡であります、今、甲斐において信虎公、勝千代君を憎み、二郎丸様に家督を譲ろうとも、父の心に任せ背かぬことは、死して孝をなした申生に比べれば、いかほどの事でありましょうか
もし二郎丸さまが家督を受け継ぐとも、父君が亡くなった後で勝千代君に家督を返上するやもしれません、斉の小白が他国へ逃げたのはまだ幼く、自分では判断できなかったからです、申生は年長であったがゆえに孝の本分を成し遂げて死を受け入れた、勝千代君もすでに13歳、その上聡明であられる、俗人と同じように他国にあって、祖国の滅ぶを待つなど愚かしき事であります
武田家には名将の子孫多く、数代歴々の諸侯、忠良の臣下数多おります
信虎さまが、今のままを続けていれば、いずれ忠臣が現れて信虎さまを押し込めるでありましょう
勝千代君は国に戻って、そのような臣を取り立て、若き有能な士を養い育てなさいませ、されば遠くとも5,、6年うちに家督をえること疑い在りますまい
必ずや本国に立ち戻り、不孝の名を公になさらぬよう」
と説いたのであった。
これらの予言は果たして後に板垣、小山田のごとき忠臣によって信虎を今川家に押し込めて、勝千代を取り立てたこと勘助がいまだ仕官する前に言い当てたのは諸葛武公の如し。

理路整然とした勘助の言葉に、勝千代丸も小幡日浄も感服して勘助の勧めに従うことに決めた
「これより本国に帰り、運命を天に任せて、いかなる運命も受け入れることとしよう」勝千代はそう言ってから
「もし天命により儂が家督を継いだ暁には山本殿は、儂のもとに来て、わしの足らざるところを補佐してくれるか?」と問えば、勘助は
「某、今まで数多の家中から仕官の使者がやってまいりましたが、「良禽は樹を見て住まい、良臣は君を選んで仕えるなり」と申します。
いままで諸国の使者に「主君に仕える気持ちはさらさらござらぬ、と申して断ってきましたが、実をもうせばそうではありませぬ、某の望む通りの主君あれば仕える気持ちでありました、そして今、勝千代君にこうして拝謁してみて、その聡明さに心、志、動き、初めて君を得たことを実感しました、家督継承の知らせを聞いた暁には必ずやはせ参じて臣下となりましょう」


人生相談

2024年02月24日 08時17分51秒 | 心 思い
 昨日久しぶりに体重計に乗って見たら2㎏弱減っていた
食事改善を始めて10日余りで効果が出て来た、理想体重65㎏まで、あとひと頑張りだ。
ヨーグルト、牛乳、納豆、オリゴ糖は毎日摂っている、夕食後は牛乳、ヨーグルト以外は口にしない
アルコール摂取は一か月に1~2回になった、それもコップ一杯程度、これも効果があるのではないだろうか。 毎日2~3合飲んでいたのだから、ずいぶんさっぱりと減らしたもんだ、そう言えば1日50本吸っていたタバコも、突然やめたから(30歳の時)わりと切り替えが早いのかもしれない。

友だちとの飲み会は月2回前後で、飲み物も大好きな日本酒やビールはやめて焼酎のお湯割り一本だ。 焼酎はこの時ばかりは5~7杯くらい飲む。

歳を取ると、いろいろな欲望、欲求が薄れてくることがわかった
私はどちらかというと煩悩にさいなまれて、かなりの歳まで欲しいものが多かったが、70過ぎてようやく人並みになりつつあるようだ。
こうしてブログを書いたりして多くの時間を割く、あるいはドライブをしたり、ボランティア仲間といろいろやったりしているのが良くなってきた
去っていく者は去って行って、本当にお互いを必要とする友だけが残った感じだ。

ラジオの全国放送で「テレフォン人生相談」と云うのを時々聴くでもなく聴いてしまうことがある。
今日の回答者は名前は忘れたが、元気の良い、はきはきした物言いをする女性だった、以前も聞いたことがあるが、歯切れの良い語り口でズバズバとズバリ直球どまんなかのストライクを取りに来る。

今日の相談は、35歳の娘が自分から一目ぼれしてつき合っていた人に2か月くらいで振られて、自己嫌悪に落ち込んでいる、そして落ち込むと必ず言う言葉が「私はダメなお父さんに似たから、こんなダメな女になってしまった」
お父さんと言うのは、相談者が30年前に離婚した元夫のこと、離婚してからずっと娘に、夫がいかにダメな人間だったかを腹立ちまぎれに言い続けて来たそうで、それが娘に悪影響を与えてしまったと、母親もまた娘に対して自己嫌悪に落ち込んでしまっている。

元夫は今はまじめに働いているらしいので、娘を合わせて真面目な元夫の姿を見せたら娘の気持ちが変わるのではないか、いかがでしょうか?というもの
娘が振られた原因は、彼氏が遠くに移住したいから一緒に行ってくれるか?と聞かれた時、娘は仕事のことを考えたりして決心がつかず答えに躊躇したら、「おまえと付き合わなければ良かった、そんな女だとは知らなかった」と言われ、仲直りしようとしても、もう全然受け付けてくれないで終わってしまったという。

回答者の答えは、彼氏の気持ちが離れたのはタイミングと組み合わせが良くなかったから起きたことで、娘さんの性格にはなんの関係もない
第一彼の求めに即答しなかったこと自体、本気で好きだったかどうかわからない、本当に死ぬほど好きなら何もかも捨ててついて行くはず、即答できなかったと言うことはそれほどでもなかったということ
彼氏は、それに気づいて離れていったので当然の事なんです。

子供は母親にべったりで離れないが、隣の子供も自分の親よりもあなたを大好きでべったりと言うことはないでしょ、だから人と人が好きだと言うのは組み合わせ以外の何者でもない
それから、あなたが夫の嫌いなところ、彼氏が娘さんの嫌いなところ、それぞれあるけれど夫や娘さんの全てを嫌ったわけではない
あなたが別れた夫を思い出せばわかること、別れたいくらいの嫌な部分があったけど、結婚したくらいだから、好きな部分だってたくさんあったはずです
それを書き出して娘さんに伝えなさい、「若い時の私が若気の至りで嫌いになったけど、すべてを嫌いだったわけではない、好きな所もたくさんあった」って伝えなさい、彼氏があなたと別れたのもあなたの全てを否定したわけではない、たまたまタイミングが悪かった、組み合わせが悪かったと言うだけだから、落ち込むことはないと伝えなさい。

あなたは夫が怠け者のだらしない男だから嫌になったと言いましたが、私が好きな男性のタイプは情けない甲斐性なしの優柔不断男です
わたしの友達で一番驚いたのは「病弱な人が好き」と言ったこと、自分も体が弱くて、一生懸命働いても「もっと頑張りなさい」と言われるのがつらかった
だから病弱の人なら私の気持ちがわかるから、そんな彼氏と出会って結婚したいと言いました
こんな風に人にはさまざまな形の組み合わせがあるのです、それをおかあさんも娘さんも知るべきです。

私も回答を考えてみたが、さすがに全国放送で人生相談を承る人は視点が違うと感心した次第です。
今さらだが、私の理想の女性像ってどうだったんだろうか?







「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 21

2024年02月23日 21時28分48秒 | 甲越軍記
勘助は垂れていた頭をあげて、こう言った
「古語に『君、君足らずといえども、臣以て臣たらずんば有るべからず、父、父足らずとも、子以て子たらずんば有るべからず』(君主が君主の役目を果たさずとも臣下は臣下の役目を果たさねばならない、父と子もそれに同じ)」

続けて「古き昔話だが、頭の片隅に置いておく話ではある
昔。周の代に晋の獻(けん)公と云う人がいた。 この人、大国晋の国主で勢い強大であった
その夫人に二人の子があり、兄を申生、弟を重耳(ちょうじ)と云う
婦人は重耳を産んで間もなく亡くなったので、獻公は驪姫(りき)という後妻を娶った。 そして奚生(けいせい)という男子を産んだ。
驪姫は獻公の歳老いたるを見て、この人を欺いて讒言によって先妻の二人の王子を亡き者にしてわが子を国王にしよう考えた。
その頃、獻公は国外に二つの城を築いて、新城というところには長男申生を、蒲子城には二男の重耳を入れて守らせた。
驪姫は二人の王子が遠くにいることを良いことに謀を巡らして獻公に『申生が謀反を企て獻公を亡き者にして自分が、晋を奪うつもりです』と自らも言い、取り巻きにも言わせたが、獻公はこれを信じなかった。

獻公が狩りに出て6日間帰らなかったが、その間に申生は自分の母の法要を執り行い、祭るところの酒を獻公に贈った
獻公が留守で酒は驪姫が受け取り、一計を案じて酒に毒を仕込んだ
獻公が戻ると、驪姫は『この酒は申生殿が法要の時に王に送って来た神酒です』と言って用意した。
公が飲もうとしたとき、驪姫は『お待ちください、神酒も日を過ぎれば食するなかれと申しますから、ここはまず家臣に毒見をさせるが宜しいのでは』と言うので、近習に飲ませてみると、たちまち血を吐いて死んだ。
獻公は驚いて、その酒を庭に巻くとたちまち火となって燃えた、驪姫は『これは鴆(ちん)の毒の特徴です』と言うと獻公は大いに怒り
『申生に謀反の噂ありと聞いてはいたが真であった、まずは申生の籠り役であった杜が申生に知らせぬように殺してしまえ』と命じて杜を殺した。
そして『申生を殺せ』と兵を新城へ向かわせた。
これを知ったある人が新城に追っ手より早くかけ込み、危急をしらせ『驪姫の謀により追手が参ります、追手が来る前に急いで城からお逃げください、さもなくば都に戻り、獻公に潔白を申し開きなさりませ』と言った。

申生はそれを聞いて少しも慌てず
『我が、父上に身の潔白を話せば、父は驪姫の浅知恵を見抜いて死を賜るだろう、だが老境に入って父上は驪姫を寵愛して片時も傍から離さないと聞く
もし驪姫を失えば、父上は自らの張り合いも失うことになって、魂が抜けたも同然となるであろう、そのような親不孝はできぬ
また、他国へ逃げだせば、天下の人は、嫡子でありながら国と親に背いて逃げたと言い、我を受け容れてくれる国は無いであろう、わが死をもって親に孝行できるならば歓んで死を受け入れるまで』そう言って新城において申生は死を遂げた」





ちょっと遠出で、おいしいお買い物

2024年02月23日 14時01分36秒 | ドライブ
 曇りなのか雪なのかわからないけど三連休初日、出かけてみた
国道8号を北上して行く、雪はほとんどないが小雨が降っている、車の混雑具合もそれほどではない。
もっともドライブ日和とは言い難い、それでも県外ナンバーがいくらか走っている。 上越市からは県道に入って行ったが、その後国道18号に合流、一面の雪景色が広がり、妙高高原あたりからは雪国に


いつも黒部、新湊あたりで海の幸を買うので、今日は長野県の幸を食べたくなって5点買ってきた。

お漬物は好きです、そして漬物と言えば信州です
「柿の皮のたくあん」ってどういうこと? どんな味なのか楽しみ

定番「野沢菜」今回は加工品に目が行ってしまい、本当は加工なしで「菜飯」にするのが好きなのだけど、心がゆれてこっちにした。

「なめたけ茶漬け」キノコ類は大好物&ネバネバ系も大好物

ブルーベリーも信州の特産物、紅茶だとどんな味?

最後は、おにぎりの友、いつも海苔かとろろ昆布だから、これ青のり?
信州には関係ないけど、美味しそうだったから

今日は「小布施」まで行こうと思ったけど、寒いし、天気も悪いので牟礼で引き返してきた、連休明けで空いたときに行って来よう。
梅にメジロを見たいんだよね、一度も見たことが無いから。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 20

2024年02月22日 19時47分33秒 | 甲越軍記
勘助が柴の戸を開いて中に入ると、外に立つ二人は旅装を整えてから、腰を折りしきりに礼を尽くしている。
勘助も腰を折りこれに礼で返した。 入道が口を開き「某は甲州武田家の士、小幡日浄と申す者、こちらの少年は某の主人、武田勝千代君であります」
すると勘助は驚き深々と礼をすると庵の中に招き入れ、塵を払ってから上座に君、臣を招き入れて「甲州館の公達が、このような山中のあばら家に訪ねてこられるとは、思いもかけぬ幸せでございます
護衛の武士も連れずに、ただ二人でこのような所に参るとは、いかなる故でありましょうや」と聞いた

日浄が「それは・・・」と言うのを勝千代が遮って自ら話し出した
「勘助の高名は諸方に鳴り響いておるので、なんとか折を見て対面し、師として軍法の奥義を学びたく思い、今朝ここにやって来たが、猟に出たと聞き、後を追い、郷民の末についてまいり、大猪を仕留めた働きを逐一見物して、槍術の錬磨に驚きいった次第である」

すると勘助は「今、世上の風聞を聞くに東山道、東海道に武田の右に出る豪傑はなく、武術錬磨の士、国中に溢れかえり特に異国伝来の鉄砲というもの用いて隣国はひれ伏し従うとのこと
いまや甲州は軍略、武術に秀でた士が星の数ほども溢れていると言うのに、他国の浪人に従い軍略を学ぶと申されるのか
また、某のような賤しい身分の者をお召くださるならば、まずは奴隷のような者を使いに参らせれば宜しいものを、金玉の御身自ら衛士の一人も引き連れず敵国の合間を忍び、山林、豪雪の中をお見えになるとは、よほどの事情があるとお見受け申しました、できれば詳細をお聞かせ願えれば」と問う。

日浄が引き継いで話した
「そなたが疑念を持つのはもっともなことである、このうえは幼主人に代わって主人の苦しい胸の内を吐いての密事を某がお話いたします」
一息ついてから「主人左京太夫信虎、武略においては隣国に肩を並べるものなく、当世の英雄だと誰もが認めております。
然れども生まれつき得た勇気がために、驕慢の心に満ちて忠臣の諫言を受け容れず、不仁の挙動も多く、子息数多あるうち、二男二郎丸を寵愛して家督を譲るため嫡子を疎み勝千代君を廃除の心であり、家中に忠義の者が在って諫言しても定まった心は覆ることなく、むしろ諫言の忠臣を幾人も殺す暴挙を繰り返し、そうでなければ遠ざけられて相手にされなくなるので、いまや全ての家臣が口を塞いでしまった。
かくいう某も、その一人であるが武田家の滅亡を見るに堪えず、斉の管仲、鮑叔牙の故事の如く若君に勧めて他国へ逃れてきたのであります。
二郎丸は幼い上に、とうてい勝千代君に才覚遠く及ばず、甲斐の国が他国に滅ぼされた時には、あるいは何事もなく信虎死した後、二郎丸に代わり、勝千代君を押し立てて帰国するつもりであります。
某の申すことに納得いただけるならば勝千代君をお預けいたし、五年、七年難を逃れ軍法、兵術を教授いただければ非凡の才ある故、軍法の奥義を悟り、国を取り戻すでありましょう。 いかがでありましょうや、ご決断をお願いいたします」
日浄の願いを聞いてから、勘助はしばし目を閉じて考えていたが、やがて口を開いた。




七年の法事(話好きな住職)

2024年02月22日 08時24分09秒 | yottin日記
 数日、春の温かさが続いて幸せ気分を味わっていたら、昨日から急激に寒くなり、くしゃみ鼻水がとまりません。
こうも激しい乱高下は体によくありませんね、でも私にとっては少雪の冬でありがたかったです、とはいえスキー場は逆に大変だったようです。

 父母が半年の間に92歳、93歳で相次いで亡くなってから、もう六年が過ぎて昨日、七年の読経をあげていただいた。
法要はしないで、住職を頼んで家で読経していただき、妹夫婦とわが夫婦の4人だけでお参りした。
お経をあげていただいただけで、近年の例にもれず我が家もお斎もしないで平服のままでの法事だから、読経も20分ほどで終了

読経が終わった後、住職はいつもお茶を飲んで、小一時間くつろいでいかれるが、夜には通夜の仕事があると言うのに、今日は1時間半もゆっくりと世間話を楽しんでいかれたので、ちょっと驚いた
それはそれで居心地が良かったのだろうと喜ばしい。
女房殿が作ったカカオとケーキ用マーガリンを使ったケーキをお茶菓子に出したら、ことのほか喜んでくれて「この次は大好物のアップルパイをお願いします」とリクエストして行かれた。

信州松本生まれで年齢は私より一回り以上若いが、話が合う
寺では勉強会をやっているので、yottinさんも是非来てくださいと言ったが、
80代が多いと言うから、「80歳になってから考えます」と言っておいた。
今度の地震では寺も痛み、墓地の被害が酷かったと嘆いていた。
ともあれ七年を終えてまずは一息。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 19

2024年02月21日 19時55分01秒 | 甲越軍記
山本勘助の事

山本勘助という者がいる、その祖の地を訪ねれば、山本九郎義経の末裔で、代々尾張国に住み、後に三河国に移り住み、勘助まで五代が牛窪に住んだ。
勘助は幼き頃から剣術を好み、諸師に習ってその奥義を得て、眼流という剣術を深く尊び、諸国の豪傑と何度も試合をして負けることが無かった。

そのため方々で恨みを買い、旅にあれば道々で待ち伏せして槍刀で襲い掛かり、また闇夜に歩けば徒党を組んで襲い掛かってくる。
それを早業で幾度となく切り抜けたが、負うた傷は多くあり、今や左の手の指3本欠け、右目は突きつぶされ、脚は薙ぎられて片足短く歩くも不自由である

その後はひたすら軍法に心を寄せて師を求め、築城の縄張りを工夫し、孫呉の妙術を熟学して隊伍練兵の道を自ら発明した。
しかし仕官をする気は見えず、国々の諸侯がその名声を聞いて出仕を促すけれど頑として断り続けた。
一日中、農業に明け暮れて、誰にも会わず、隠者のような暮らしをして年月をすごした。

天文二年も暮れまじかになり、大雪によって庵への道も雪に埋もれてただ白銀の広野となった。
霜月17日に近郷の在民どもが来て「今年は滅多にない大雪だで山道の雪に難儀する鹿、猪猟を共にするべ」との誘いに乗り「気分転換によかろう」と不自由な足ながら猪槍をもって雪の道を上っていった。
剛健な郷民だけが脚絆に雪靴を履き、山中に分け入り、谷間を渡り、木陰を探り雪の中を突いて鹿や猪を突いた
やがて枯れたツツジの中から一匹の大猪あらわれ歳を経た六足物を狩りだした

大猪といえ、その姿は牛のようで鼻嵐にて大雪を吹き払い。牙を鳴らして走り回って郷民を威嚇する
みな怖気づいて誰一人、大猪に立ち向かう者がいない、その時、勘助は尻込みする郷民の間から猪槍を左手三本足りぬ指、親指と小指二本で槍の柄を支え、右手で操って、繰り出す
大猪もさすがのもので牙をふるい隙あらば刺し殺そうと鼻息も荒い
勘助は深い雪をものともせず、大猪の首元、怒れる剛毛の隙を狙って突き刺そうと近づいては離れ、離れては近づく
大猪の周りを神業の如く走り回ること数度、とても足の不自由な人間とは思えぬ早業。ついには大声を発して大猪の首筋に一槍の痛撃を与えた。
大猪、ますます怒り槍の柄を折らんと騒ぎ立てたが、それに構わず抜いては指して弱った頃合いを見ると、一気に投げ飛ばした。
そこへ今まで近づくこともできなかった郷民が一斉に襲い掛かり、さしもの大猪も血潮に染まって息絶えた。
「これで越冬の糧を得た」と郷民は喜び、家路についた。途中より皆と別れて庵に向かう勘助、後より人の気配を感じて振り向けば、そこには15.6の童と50ばかりの老入道が居た、旅姿なれども品格の良さが際立っている。




藤原氏の始まりを調べてみた

2024年02月21日 08時31分36秒 | 日本史
 平安時代については、おぼろげなイメージしかなく、いったいいつからいつまでで、どんな権力者が居たかも知らず、天皇が絶対的な権力を行使していると思っていた。
そして時代は年代の通り「平安な時代」と捕らえていたが、たぶん平安京からとったのではないだろうか。

学校で習ったのは「奈良をなくして(794)平安遷都」だったが最近聞いたのは「泣くよ(794)ウグイス平安京」だった。
でも奈良(平城京)を無くして平安京の方が筋道は通っている。

平安京を意識するまでは江戸時代(約260年)が一番長い平和な時代と思っていたが、実際は平安時代で約390年続いた。
だが藤原氏の繁栄は更に遡り奈良時代の平城京、更に飛鳥時代までさかのぼる
奈良時代を加えれば約470年、藤原鎌足から数えれば540年ほど天皇と貴族が栄えた時代が続いたことになり、これは朝鮮李王朝の520年よりも長い。

藤原氏の絶頂期平安時代は摂政関白、大臣同士の権力争いはあったがほとんどが主流の藤原四家の藤原家同士の争いであり、それは裏工作の連続で、内戦状態まで発展することはほとんどなかった、朝鮮王朝の権力争いに似ていて、その様子は「光る君へ」によく描かれている。
今週の回でも右大臣藤原兼家が道長に「人殺しはいかんぞ、あれは身分賤しき者たちがすることだ」と言ったように、彼らは武士ではなく貴族だったからである。 藤原氏は武士に似て武士でない、平安時代以前には武士はなく、平安時代に入って荘園制が取り入れられて初めて、武士の原型が主に東国で芽生えてくる。

以下の多くは古事記、日本書紀参照

藤原氏の始まりを説明するには、三十三代推古天皇から始めるのが良い
592年に即位された女性初の天皇である、
第三十代敏達天皇の後添えの皇后であった(結婚前は額田部皇女)
その頃は大臣蘇我馬子が権力を握っていて、もう一方の権力者、物部守屋と互いに皇子を頂いての戦になった
蘇我氏は聖徳太子らを旗印に守屋を破って絶対権力を握り、崇峻天皇と対立して天皇を殺害した

推古天皇は父が二十九代欽明天皇で、三十一代用明天皇の妹、崇峻天皇の異母姉、大臣の蘇我稲目の姪というサラブレッド皇女であった。
推古天皇の御代では聖徳太子がその才能と手腕を発揮して天皇を助けた。
また蘇我馬子も太子同様に働いたにちがいない。
この時代は朝鮮半島や大陸との往来が盛んで、朝鮮半島の南端には日本の拠点ともいえる任那があり、ここを巡って新羅と何度も戦を行った
また小野妹子を団長とした遣隋使も送っていた。
聖徳太子、蘇我馬子と朝廷を担う巨頭二人が相次いで亡くなると、推古天皇も後継者を決めずに崩御されたため、天皇の継承者は定まらず大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)にゆだねられた、そして田村皇子を即位させて舒明天皇が誕生したが、政治は蘇我馬子、蘇我入鹿の父子によって独占された。
舒明天皇は宝皇女を皇后として、葛城皇子(中大兄皇子)、大海人皇子を産み、蘇我馬子の娘との間にも古人大兄皇子が生まれた。
いずれも皇位継承権を持つ皇子であるので、朝廷内での継承争いがおこるのは必死であった。

舒明天皇が崩御されると、以前から考えていたのか皇子たちの争いを避けるためなのか皇后は自ら皇極天皇となって即位した。
女性として二人目の天皇である。
三年の後、政治をわがものとしてふるまう蘇我入鹿とその父蝦夷を、中大兄皇子、中臣鎌足が主導して討った、蝦夷の甥にあたる古人大兄皇子も出家して吉野に赴いた
皇極天皇は退位して中大兄皇子を即位させようとしたが、皇子は天皇の弟である軽皇子を推薦して、盟友の中臣鎌足と共に新天皇を支えることとなった。
軽皇子は三十六代孝謙天皇となった
この功労により中臣鎌足は「藤原」の姓を賜り、藤原鎌足となり内大臣に任命された。 ここが藤原の始まりである。
ここまでが平安初期の荒々しい権力争いと藤原氏が誕生するまでの流れである。
「光る君へ」の雅なる平安の黄金時代は、ここから300年後である、ゆえに藤原氏も300年以上栄えたのである。