時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

ストーブテーブルとコーヒーの香り

2023-12-10 | essay

旧友3人、数年振りの再会。
何年会わなくともなんの違和感もないのが旧友たるもの。
すてきな隠れ家的な店で美味しいランチとおしゃべり。

良いお天気の午後。
ランチの後、近くで開催しているというアンティークマーケットを
ぶらぶらそぞろ歩いて見ていたら
とても懐かしい物に出会った。
丸いストーブの外側に置くテーブル。
これを目にするのは、たぶん50年くらいぶりのこと。

どんどん記憶が遡っていく。

だいすきだった伯母の居た風景。。。

伊丹の釣り池を営んでいた伯父と伯母の店に家族で同居していた頃にわたしは生まれた。
三歳まで暮らした大きな池の上に建つその家がわたしの原点。
サラリーマンだった父は週末に釣り池を手伝い、母はわたしたちの子育てをしながら釣り客の接客をしていた。

三歳で家族が奈良に引っ越したあとも、ほぼ毎週末泊まり掛けで訪れていた、どこよりもすきな場所だった。
だいすきなちゃこのおばちゃんの釣り池の家。
それもわたしが八歳までのことであるのだが。。。
49歳の若さで伯母が他界するとともに伯父は釣り池の店を畳んだ。

釣り池に流れた時間。
当時、お店は軽食も出していたので、テーブル席が点在していて、お客さんの少ない時間はわたしたち子どもにはそこは広いリビングのようなものだった。

そこに置かれていたのが丸い石油ストーブとこのストーブテーブルだった。
ふたつくらい置かれていたような…?
そして青じゃなくて赤だったような。

このテーブルを囲んでいつもコーヒーを飲んでいたおとなたち。その側でわたしはホットミルクを飲みながらおとなたちの話を黙って聞いていたように思う。
きっとそうしているのがすきだったのだろう。
心地よさだけが記憶に残っている。
伯父はとてもコーヒーがすきで、母は伯父からコーヒーの美味しさを教わったのだと推測する。
数年経って奈良から大阪へ越した頃には母はサイフォンでコーヒーを淹れて飲むようになっていたから。

あの頃ストーブはとても大きく見えて、このテーブルももっと円が大きかった記憶。
自分の目線の高さがテーブルに近かったんだな。
それでも、コーヒーカップひとつ分くらいの幅だったことは覚えているから正にこのサイズだったのだろう。

モノが連れて来る記憶の波。。。
普段浮上してこないだけでたくさんの記憶が脳内のどこかに収納されている…って思うとなんだか頼もしい。
そしてうれしい。

記憶映像が脳内だけでなくスクリーンとか機器に転写できたらオモシロイのになぁ。と、いつも思う。
他の人にも見せて説明できるし。
このテーブルを見て懐かしい!と一瞬にして沸くわたし。
見たことがない、という友人ら。
丸いストーブの説明からするが彼女らには馴染のない光景に全然脳内再生されている様子がない。
わたしの説明下手も大いに災いしてる。

家に帰ってこのテーブル画像をみながらモノを想う。
このストーブテーブルを囲んでいたわたしのすきなひとたちは、もうみんなあちら側だ。
今こうして地上で彼らを想い出している者がいるということがあちらにいるみんなに伝わるといい。

想い出させてくれたあのストーブテーブルに感謝。

物は黙って語る。
それぞれの上にも記憶と歴史、時間が積もっているのだ。






最新の画像もっと見る