時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

ほどける

2024-07-07 | essay

ほどけゆく
蓮の花びら
ぎゅ〜っと堅いつぼみも
時期がくれば
ゆるやかにほどけてゆく

花もヒトも同じねぇ。






キモチを飛ばす

2024-07-05 | essay

夕やけのはじまりがすきだ。

義父母に夕食を運んだ後、思い立って30分の夕やけウォーキングへ。
「夕焼けが見たい」と思って自分の足で出向いて行けることが既にありがたい。

空の高いところで
小さな飛行機が
オレンジ色に染まって飛ぶのを見た。
地上のここからは太陽はもうビルの向こうへ落ちていて見えないが
あの上空の機内からは黄金色に染まる雲がずっと向こうまで見えることだろう。

空を往くあんなに小さく見える飛行機でも
あの中にはヒトが何百人も座っているのだ…と想像すると改めて途轍もなくフシギな気持ちになる。

そしてあの位置から見える夕やけ雲を想像してみる。

昔、夕方離陸した便の窓からどこまでもどこまでも続く夕焼け雲を見ていた光景を思い出す。

地べたから夕空を見上げているジブン。
今空の上で飛行機の窓から夕焼けを眺めているであろうヒトビト。

遠くにいても、それでも同じ時を刻んでいる。。。

オレンジに光る飛行機に
束の間キモチを持っていかれた夕散歩でありました。


今日も既に猛烈な暑さ!
熱中症対策は万全に!


伝えるたのしさ、伝わるうれしさ

2024-07-03 | essay

預かり保育の現場でおしごとをしていると
実に多様な…というよりも
ひとりひとりが正に唯一無二の存在なのだと実感する。

子どもは毎日変化を遂げて進化する。
幼虫がサナギになり羽化して羽ばたいていくのを目の当たりにしているよう。

入園以来ずっと園ではことばを発せないとあるひとりの男の子。
あっという間に年長さん。
預かり保育にはほんのたまに顔をみせる。
最初の頃は固まったまま笑顔を見せることもなかった彼。。。

でも成長と共に最近表情がとても豊かになってきて、話しかけると目を見て伝えようとする仕草をするようになった。
先日、子どもの人数が少なくなった夕方、床でごろごろしていた彼にわたしが指で蟻の真似をして「アリさんがチョコチョコチョコ〜〇くんに登ってくよー」とくすぐろうとすると
クククッと笑って違う違うと手を振る仕草。
小さな親指と人差し指をぎゅ〜っとくっつけて『もっとちいさい』というようなジェスチャーをして服の上を這わす。
「ん?アリより小さいの?なんだろなあ?」と聞くけれど、コトバでは伝えられない彼。
でも伝えたい気持ちがじりじりと伝わってくる。

そこでハタと思いついて
あいうえおの絵本を出してきて
「〇くん!これこれ!これで指さしてみて!せんせい知りたい!」
と言ってみると…
いつの間にか字を覚えていた〇くん、ゆっくりと指さした文字は「た」。
「た」とわたしが読むと手を振り指で濁点の仕草。
「だ!だね?」と言うとうなづき、次の文字は「に」。

おお〜やった!
「わあー!ダニかー??」と
言うとうんうんとにこにこ顔。
いやはや〜うれしいなあ。
たかが2文字されど2文字!

アリさんより小さい「ダニ」と言いたかったんだねえ。

伝わるってうれしいね〇くん。わたしもうれしい。

後日、折り紙で何か折ってわたしに見せてきたので
「あ!またひらがな指して教えて〜!」と言うと、手を振って紙に書く仕草を。

「え?もう書けるの?」と聞くとうなづく。
お家で家族となら会話が出来る彼。いつの間にかもう字も書けるようになっていたんだね。

紙とわたしの魔法のにじいろえんぴつを渡すと「コウもり」とゆっくり一生懸命書いてくれた。

伝えるたのしさ
伝わるうれしさ。
ひとつひとつの経験が今、その子を形作っていく。

毎日成長していく彼らのたいせつな子ども時代の時間。
たくさんの時間の中、「預かり保育」というほんの数時間の繋がりだけれど、彼らのココロに伴走する時間はかけがえがない。
今日を生きる彼らが「たのしかった〜!」と無事に家に帰れるよう今日もわたしはわたしに出来る最善を尽くす!(オーバーだけど〜!)

いろんなうれしい気持ちを共有させてくれてありがとうね




ふわりと。

2024-06-27 | essay

あ、トンボ!と見上げた途端
フワリとわたしの日傘にとまった。

立派なオニヤンマだ。
この辺りでみるのは珍しい。
道端に立ち止まり暫し眺めてから、そうっとスマホを出して1枚パチリ。
すてきなモデルさん。

昔から蝶やトンボなどが近づいてきてくれると何だかとてもウレシイ。
そしていつも
ダレカナ?と想う。

アチラにいってしまったわたしを知る誰かなのかもしれない。なぁんて想う。

以前奄美を旅した時、不思議と何度も蝶がふわりと近くに来てくれた。
奄美では蝶はヒトの霊(たましい)なのだと云われていると聞いた。

以来特に自ら近づいてきてくれる蝶やとんぼには何だかとても親近感が涌くのだ。

1周忌を過ぎてもうすぐ誕生日が近づくオヤジさんかな〜?
お寺の蓮ももうすぐ咲きそうです。





可愛いすぎてビックリ

2024-06-24 | essay

え?あなた誰?
と二度見!
庭の片隅に何とも可憐な小さなお花を発見。

よく見たら見慣れた多肉植物からニョッキリ伸びて咲いているのだった。
義父が趣味で育てているいろんな植木鉢が庭に無造作に置かれているので、洗濯物を干しながら時に可愛い花にビックリさせられるのだ。
植物はナゾと驚異に満ちている。

雨粒をまとってうつくしいなぁ。君は葉が既に花だよね。
よくよく見たら、葉の先のピンクとお花のピンクはお揃いなのね。
DNAってすごいなあ。




六月の球体

2024-06-21 | essay
ひとには幾つもの顔がある。
それはウラとかオモテとかではなく、どれもそのひとなのである。

ひとのココロは多面体ではなく
球体なのだ。

というわたしなりの持論。
我が身に於いても。

今日は母の命日。
いつも亡くなった時刻に覚醒してしまう。
出来れば泥のように眠ったまま過ぎてしまいたいのに。

そしてまだ生きていた母の
ココロを想う。
母もまたわたしの知らない顔をたくさん持つひとりのヒトだったのだ。
わたしの「母」である以外のヒトとしての彼女。

わたしが「ただのアタシ」でありたいと時に思うように
母もまたわたしの知らない「ただのアタシ」を持っていたはずなのだから。

母のすきだった蒼い紫陽花。
あちらにも紫陽花は咲いているのだろうか。
それとももう別の姿になって此の世で今年の紫陽花をみているのだろうか。

19回目の命日
間もなく午前4時。
道路に響く新聞配達のバイクの音。。。

そして今
早起きのイソヒヨドリが
高らかに鳴いた。

まだ空は暗いのにね。

もうひとねむりしなくちゃ。




スターに変身!

2024-06-19 | essay
木の花って豪快だ。
想いもよらないカタチの花を突然咲かす。
何度も通った道でいつも素通りしていた街路樹がにわかにスターに変身だ。
モシャモシャのふわふわのお花をつけておしゃれしているのはネムノキ。

ネムノキってこんなフシギなお花をつけるのねぇ。

以前から思っていたけれど、ネムノキとオジギソウって葉っぱのカタチがよく似ている。親戚なのかな。ネーミングも何だか同じにおいがする。

一度認識すると、途端に目に飛び込んできやすくなるもの。
たまに通リかかる公園のこの木もふわふわのおしゃれさんに束の間へ〜んしん!




引き寄せられる場所

2024-06-17 | 展覧会・アート のこと

またまた都会のジャングルに吸い込まれて来ました。
ここは近年とてもお気に入りの場所、南青山にある「岡本太郎記念館」

先日乃木坂駅近くのギャラリーに行った後、あまりの良い天気青い空にわたしの脳裏に浮かんできたのは緑の大きな葉の繁る南国のようなあの庭。

歩こうと思えば歩けそうな距離ではあるけれど方向音痴のわたしには辿り着けそうにないので潔く一駅電車に乗っていつもの表参道下車。

思えば初めて訪れたのも丁度この時期。バショウのバナナみたいな実の成る季節に久しぶりに会ったトモダチと訪れたのでした。
この庭には太郎氏の立体作品が所狭しと置かれていて、時間とともに草に覆われているのがまたいい感じなのだ。

太陽の塔に親しんで育った大阪のコドモだったわたし。
太郎さんの作品は平面より立体やタイルの作品が好み。
油絵はちょっと強すぎるものが多く怖いんだな〜。
(時々かわいい)
そして、作家のアトリエってのはなんとも興味深くてすきだ。
もっと近寄ってじっくり見たいくらい。

今回気づいたのだけれど
アトリエの中二階みたいなところに本棚がずらり。
太郎氏はどんな本を読んでいらしたのだろう。
太郎氏の愛読書を読んでみたい。

食べたものでカラダが作られるように
読んだものでココロも彩られるように思うから。

岡本太郎記念館。
きっとまたエネルギーをもらいに訪れたくなることだろう。

惹かれるものには素直に吸い込まれてしまおう。





ひととひと、つながる時間

2024-06-16 | essay
ものづくりの活動を拡げていくなかで出逢ったひとびとがこの10年余りでたくさんいる。

それぞれに魅力的な作家さんたち。
わたしがすきになるひとは
皆自分の分野で日々切瑳琢磨し、向上心がありながら謙虚さを忘れないひとたち。
そして何よりものづくりがスキで作家活動をたのしんでいることが皆の共通点だ。

この日は丁度同じ方面に
3人それぞれの作家さんの展示が重なっていたので
お昼前から夕方まで三件ハシゴしてきた。

一件はカフェ展示だったため美味しいものをいただきながらおしゃべりは尽きず、その場でまた輪が広がっていく。
コロナ禍を越えてこうしてまた普通に集うことが出来るようになったことを改めて実感する。
こうして他愛のないおしゃべりができるってしあわせなことだ。

コロナ禍の数年、正に「不要不急」の代表格だったアートの世界。先の見えない時代に悶々としながらもものづくりへの情熱は枯れることはない。

これからも何が起きるかわからないけれど、
こうしてつながりをたいせつに慈しみながら
ものづくりに関わるすべてをたのしんでいけたらしあわせだなぁ。。。

暑い一日。夕やけも夏色でした。



夜の子ども部屋

2024-06-11 | essay
真夜中に目覚めてしまい
眠ろうとしているのに
勝手に思考が彷徨う

子どもの頃
夜更けに母が戸締まりを確認しにそっと子ども部屋に入ってくる光景を何故かふいに想い出す。

母は毎夜窓の鍵を確かめカーテンをきちっと閉めてから
ベッドで寝ているわたしたちのふとんを掛け直してくれた。
近づく母の気配。ふとんを掛け直してくれた時の手の重み。ドアを出ていく逆光の後ろ姿のシルエット…

あたたかな
しあわせな
こどもの頃の想い出

思春期くらいになってからも
真夜中に母の気配を感じると小さいころみたいにふとんを掛け直してとんとんしてほしいな…と感じていたことも覚えている。

そう言えば子どもたちが小さいころ、絵本を何冊も読んだ後で寝かしつける時にわたしも同じようなことをしていたなぁ。
3人の子どもたちに順番に布団を首まで掛け直すと
みんな「ぎゅっぎゅってして」と嬉しそうに言っていたものだ。
わたしもぎゅっぎゅっと言いながらわざとお布団を子どものからだに巻きつけていたっけ。。。

一日の終わり…眠りにつく小さな体にかかるおふとんの重みそして母親の手の重みは、どうやらすこぶる安心感を与える格別な魔法を持っているようだ。

わたしがこうしてふと母を思い出すように
彼らもまた遠い先に
ぎゅっぎゅっとされた感覚を思い出してくれるといい。

子ども時代のささやかなしあわせな時間の記憶がちゃんとからだに沁み込んでいれば
何があってもなんとかなるという気持ちの土台となる。ような気がする。

幼少期の愛情は必須栄養素なんだな。
ヒトもけものもね。

空の上の母に感謝!です。







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