神学校のテレビに映った聖ペトロ広場の群衆
ローマ法王、科学技術過信戒める -福島第1原発の事故を念頭に-
群衆に応える教皇
【ローマ共同】ローマ法王ベネディクト16世は17日、人類の進歩に触れる一方で「この数カ月間に起きた大災害で人々が被った苦しみに目を向けなければならない」と述べ、科学技術を過信することを戒めた。東日本大震災とその後の福島第1原発の事故を念頭に置いた 発言とみられる。バチカンのサンピエトロ広場で行われた復活祭(イースター)前の日曜日のミサで語った。
共同通信2011年4月17日(日)21時17分配信
私は17日の朝、イタリアのテレビニュースTG1で教皇の野外ミサの全中継を見ていました。TG1と言えば、NHKの総合テレビのニュース番組に相当します。それが一宗教の儀式の一部始終を中継するなど、日本では全く考えられないことです。その後、たまたま上の共同通信の記事を見たとき、私はすぐにこれをブログに取り上げようと思いました。
ようやくバチカンの機関紙にその説教の全文が出たので見たら、復活祭の1週間前、聖ペトロ広場で行われた教皇ミサの中で、教皇ベネディクト16世は「神の愛は人間を高みに引き上げる《引力》だ」という主題で説教をしたとありました。その中に、日本の地震、津波、原発事故を暗に示唆すると思われる個所があったので、関連する部分だけ抜粋してお伝えしたいと思います。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、親愛なる若者たち!
・・・(前略)・・・人類は昔から-そして今日ではかつてないほどに-「神のようになりたい」、神の高みに到達したい、と言う願望を抱いてきました。突き詰めて分析すると、人間精神の発明の全てに、存在の究極的高み、何ものにも依存せず、神のごとき完全な自由を獲得する高みに到達することが出来る「翼」を手に入れたいという願望が秘められています。沢山のことを人類は実現することができました。飛ぶことができます。世界の果てにいる人の姿を見ながら話し合うこともできるようになりました。しかしながら、私たちを下に引きずり下ろす重力もまた強烈です。私たちの能力の開発と共に育ったのは善だけではありませんでした。悪の可能性もまた増加し、恐ろしい嵐のように人類の歴史の上に襲いかかっています。人間には常に限界があります。それは、この1-2カ月の間に人類を襲い、なお襲い続けている破局のことを考えるだけでも十分でしょう。人間は二つの引力(重力)の場の真ん中におかれていると昔の知者は言いました。とくに、下方に引き下ろす重力―利己主義へ、虚偽へ、悪へと引っ張る力-神の高みから私たちを引きずり降ろそうとする重力があります。他方では、神の愛の引力もあります。神に愛され、それにわれわれの愛で応えることは、我々を高みへと引き上げます。人間はこの二重の引力の真ん中に置かれており、悪の重力の場から逃れ、われわれを真実にし、高め、真の自由を与える神の引力に引き寄せられるよう完全に身を委ねるか否かに全てはかかっています。・・・(中略)・・・
繰り返して言いますが、私たちはあまりにも無力で、自分の力だけでは心を神の高みにまで挙げることは出来ません。自力でそれが出来るという思い上がりそれ自体が、私たちを引きずり降ろし、神から遠ざけてしまいます。神ご自身によって私たちを引き上げていただく必要があります。そのことをキリストは十字架のうえで始められたのです。彼は人間をご自分の高み、生ける神の高みに引き上げるために、人間存在の最も低いところまで下られました。彼は謙遜なものとなりました。このような形でのみ私たちの尊大さは克服され得るのです。神の謙遜は神の愛の極限の表れであり、この謙遜な愛が私たちを高みへと引き上げるのです。
・・・(中略)・・・大切なのは、穢れのない手と、清い心と、偽りを拒む意思によって、神のみ顔を探すことです。科学技術の偉大な征服は、このような態度と結ばれていなければ、私たちの手が無垢で心が清くならなければ、私たちが真理を探究し、神を探し求め、神の愛に触れられることがないならば、私たちを自由にすることも、真の進歩をもたらすことも出来ないでしょう。私たちは高みに向かって引き上げていただかなければならないということを謙遜に認め、自分自身が神に取って代わりたいという思い上がりを捨てない限り、これら全ての上昇は目的を遂げることがないでしょう。私たちは神を必要としています。彼が私たちを引き上げてくれるのです。私たちは神のみ顔を探す謙遜さを必要とし、彼の愛の真実に身を委ねる必要があるのです。(後略)・・・
(©L'Osservatore Romano 18-19 aprile 2011)
ミサのクライマックスで敬礼するスイス衛兵
神が出てきたり、まして、キリストの名が出てくると、私のブログの読者の多くは引いてしまわれるかもしれません。それは私の意図するところではありませんが、致し方ありません。神の如くなりたい。神に代わって、完全な自由と独立を手に入れたい、という誘惑は、あまりにも強いのです。それを原罪とでも言うのでしょうか。
広場の若者たち