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教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式
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復活祭明けから1週間は、聖地イスラエルに行って、一昨日の夜にローマに帰ってきました。一夜あけて昨日の日曜日は、故ヨハネ・パウロ2世教皇が福者(聖人になる前の称号)に挙げられる記念すべき日でした。世界中から100万人以上の人が集まり、若者たちはローマ時代のチルコ・マッシモの競技場で前夜祭を開いて盛り上がっていました。
この朝早く、聖ペトロ広場からテベレ川の川岸の天使城までを50万人以上が埋め尽くし、近づけなかった人たちは、ローマ市内の各広場で巨大スクリーンを見守るか、ホテルやローマ市民の家庭のテレビの前に陣取ったのでした。テレビ組を加えれば、ローマ市内だけで300万人以上が式の一部始終を見守ったものと思われます。
私も、神学生や司祭達の多くが朝早くから出掛けたにも関わらず、イスラエルの旅の疲れを理由に、怠けてテレビの前に陣取ったのでした。9時にテレビの前に行ったらもう中継は始まっていました。皆さんには、テレビの画面を自分のカメラで撮ったものから実況中継をしたいと思います。下は聖ペトロ広場の上空から。
10時ごろ教皇ベネディクト16世が待ちかねた広場の群衆の中にジープの上に立って現れると大きな歓声が上がりました。ジープはベンツの特別仕様。教皇はドイツ人ですから。
私が以前から拘っているセキュリティーの男たちは、この写真で切り取った範囲だけで14~15人、実はその前にも後にも数名ずつが付き、まさに物々しい警備振りでした。
そうかと思うと、天使の声のような高い澄んだ歌声を生み出す少年合唱団の姿もテレビ画面にちらりと映し出されました。
その歌声のあと、ローマ教区の教皇代理司教のバリーニ枢機卿が、教皇に向かって、列福されるべき前教皇の出生から教皇に選ばれるまでの生い立ち、経歴、教皇としての資質と業績など、やがて福者から聖人の位に挙げられるに相応しい人物であることを告げ、教皇の決断を求めました。教皇はそれを受けて、教皇の椅子に座ったまま、荘厳に故ヨハネ・パウロ2世教皇を福者として宣言しました。この、「教皇の椅子に座って」と言うところに深い意味があります。カトリック教会は、教皇が一定の形式のもとに、信仰と道徳に関わる事柄について公に宣言する時は、神の護りによって間違えることがない、と教義で定めているからです。その形式の部分として、この教皇の椅子に座って、つまり「聖座」から宣言することが不謬性の条件になるからです。
聖座から不謬権のもとに列福の宣言をする教皇 教皇に列福される前に教皇の生涯を述べる枢機卿
そして、その宣言が終わるやいなや、オーケストラと大コーラスの響きの中、聖ペトロ大聖堂の正面の幕が除かれ、教皇ヨハネ・パウロ2世の写真が現れました。
私は、自分の本「バンカー、そして神父」の中で、自分の生涯に3人の生きている聖人と握手し言葉を交わした、と書きましたが、一人目はカルカッタ(コルコタ)のマザー・テレサ、そして二人目がこのパパ・ボイティワでした。(3人目はまだ存命中なので名を伏せましょう。)
前教皇が列福されるためには、少なくとも一つの奇跡が必要でした。その奇跡の人がこの白い修道服のシスターです。彼女は最先端の現代医学が不治として見放した重篤な病から、ヨハネ・パウロ2世の執り成しで、瞬時に完全に回復したのだそうです。それは真面目な医学的検証と慎重な神学的考察の結果、超自然的な力の介入抜きにしては説明がつかないと結論づけられたものです。黒い修道服のシスターは、私の見間違えでなければ、前教皇の身辺を最後までお世話したシスターのはずです。そして、二人が運んでいるのは、今後聖遺物として崇敬を集める福者パパ・ボイティワの体から採取された血液をおさめた器です。
この後、教皇ベネチクト16世司式の荘厳ミサが、数10人の枢機卿、数100人の司教、そして数えきれない数の司祭達の共同司式で行われ、祭壇の奉仕のために、ローマのレデンプトーリスマーテル神学院から二人の助祭と、日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院(私が直接関与)からはベトナム人のヨーゼフ助祭が晴れの祭壇に仕えましました。尚、ヨーゼフ君は、先の田中裕人司祭とイタリア人のサムエル司祭のあとを受けて、元高松のレデンプトーリスマーテル神学院がローマに移転して以来3人目の司祭叙階をこの6月16日に受けることが決まっています。日本に派遣される宣教師が、こうしてローマで確実に増えていきつつあります。
なお、この列福式の参列者の中には、各国の代表や、イタリアのベルルスコーニ首相、前教皇の秘書だったスタニスラオ枢機卿、ポーランドの連帯労組のワレサ議長もすっかり白髪頭になって参列しているのがテレビに映っていました。ミサは12時半過ぎに無事に終わりましたが、その後晩遅くまで、聖ペトロ大聖堂の中では、この列福式に合わせて同聖堂の地下の土中に埋葬されていたパパ・ボイティワの棺が掘り出され、一般の崇敬を受けるために聖ペトロの墓に最も近い床に静かに安置されていました。今日午後だけで数10万人の巡礼者たちがその傍を祈りと執り成しを求めて静かに巡って行ったのでした。
教皇のものとしては、何とも質素な棺 引きも切らさぬ長蛇の列
スイス兵に守られて静かに眠る前教皇 7年ほどの時の流れで隅の木組みが緩んでいるのが分かる
2005年4月2日午後9時37分に、敗血性ショックにより死去したヨハネ・パウロ2世の最後の言葉はポーランド語で「父なる神のもとに行きたい」だったと報道されています。4月8日の葬儀の時棺を見送ったのが、当時のラッツィンガ-枢機卿(今の教皇ベネディクト16世)でした。下の右の写真は、史上空前の人出で埋め尽くされたその日の聖ペトロ広場周辺の景色。
今回はただ写真を並べるだけになってしまいました。パパ・ボイティワが史上稀な如何に偉大な人物であったか。彼の暗殺未遂事件の考察もまだ最後まで行っていません。近いうちにそれらのことをブログに書きたいと思っています。また、その前に、この度のイスラエルの旅の報告もいたしましょう。夜が更けました。では今夜はこの辺で・・・