:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ガリラヤの風薫る丘で-1

2011-05-05 15:42:25 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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ガリラヤの風薫る丘で-1

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私が復活祭明けにイスラエルに行ったことを知った人たちから、ツイッターで、是非その時の様子をブログに、と言う要望が集まった。それで、2-3回に分けてその時の様子をお伝えしようと思います。 

ネプチューンの教会で主の復活の徹夜祭を無事に終え、日曜の昼にローマの神学校に戻り、一休みする間もなく、先週の月曜の早朝にローマのフィウミチーノ空港からイスラエルのテルアビブ空港に飛んだ。待っていたバスに乗ってガリレア湖のほとりのドームス・ガリレアに着くと、若者たちの一団が歌と音楽で歓迎してくれた。

この若者たちがいかなる素姓のものかは後に触れるとしよう

若い国際金融マンだったころのイスラエル旅行を別にすれば、神父になってからガリレア湖を訪れるのはこれで4度目になる。

一回目は西暦2000年の節目の年の夏頃だったと思うが、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの建物のすぐ下からキリストの山上の垂訓の教会のあたりまで広がる緩やかで広大な斜面で開いた世界青年大会の時だった。全世界から20万人余りの若者が結集し、私も東京からの善男善女のグループに高松からの母娘を加えた敬虔な一団を引率して参加した。

当時、このドームスはまだ建設中で、教皇はようやく間にあった入口のホールのあたりと図書館の部分落成式を執り行われた。

   

                      正面玄関                  玄関の扉の上のガラスにはドームスガリレエの文字が   

  

   モダンな図書館 上の壁にはヘブライ語の文字がぎっしり

2回目は同じ年の12月末に「第二千年紀の最後の夕陽をガリレア湖の上で見送る会」と言う長ったらしい名前の会に招かれてやってきた。せっかくだから、ちょっと脱線してその時のことに触れようと思う。

 

夕陽のガリレア湖 手前はドームスの一部

手前の丘の地平線の森が山上の垂訓の教会の森 

左遠方はシリアのゴラン高原 右手がティベリアデの町のあたり

 

主催者は O.B.L.氏(この世界、インターネットで実名を出すと何処でどういう支障があるか分からないのでイニシャルだけでごめんなさい)と名乗るニューヨークベースの(多分)ユダヤ人で、本職は裏社会での債権取り立て業と理解している。本質的にはシェークスピアのヴェニスの商人のように、血も涙もない男で、通常の手段では到底回収の見込みのない不良債権をただ同然の安値で買い取り、鋼鉄の手に絹の手袋をはめてじわじわと債務者を締め上げ、金をむしり取るのが彼の商売だと私は今でも思っている。その結果、誰かが自分のこめかみをピストルで撃ち抜こうが、森の木の枝に首をくくってぶら下がろうが、一切お構いなしなのだろう。業界では彼のような男を「ローン・シャーク」とも呼ぶ。貸金業界の「人食い鮫」の意味だろう。

しかし、彼の一見した印象では、内実とは裏腹に、優しく、繊細で、趣味が良く、世界中に沢山の善い友人を持っていた。

O.B.L.が用意したティベリアデの町の眺望のいいホテルに集合した紳士・淑女たちは、いずれも謎に包まれた雰囲気で、パリから、リオから、ベイルートから、東欧から、もちろんニューヨークから、総勢30人に満たなかったように記憶する。


ドームスから眺めたティベリアデの夜景 街の明かりがほとんど見えなくて残念

 

2000年12月31日になった。快晴の空に太陽が少し西に傾いた昼下がり、彼は寸暇を縫ってナザレの近くのカナの町へ病気の親友を見舞いに行ってくるからと姿を消した。夕方の乗船前には必ず間に合って帰ってくる約束だった。行く先から相手はアラブ人だと察せられた。

時間になったので、私たちは揃って彼が手配した船に乗り、帰りを待った。彼と共にガリレア湖の沖に出て、シャンパンを抜いて乾杯して、豪華なビュッフェと上等のワインに舌鼓を打ちながら、2000年紀最後の日没を見送る手筈になっていたからだ。

アクシデントはその時起こった。

船の上でO.B.L.が戻るのを待ちわびていたところに、船頭の携帯が鳴った。

話し込んでいるうちにうっかり時が過ぎ、金曜の夕方から安息日に入る回教徒の運転手が仕事を拒んだというのだ。急遽、土曜日が安息日のユダヤ人の運転手を手配中だが、少し遅れるから構わず先に船を出して予定通りパーティーを始めていてくれ、必ず合流するからと言うことだった。

こうして、船は桟橋を離れ、彼抜きのパーティーは進み、無事太陽も沈み、夕闇が湖面を覆い、みんなに酒がまわり始めた。

再び、船頭の携帯が鳴った。

やっとガリレア湖に着いた。船からサーチライトを点滅させて場所を教えてくれ。最寄りの浜辺に車を止め、車のライトを点滅させるから、船を出来るだけ岸に寄せろ。など、一連の交信があった。

慎重に岸に近づいた船頭は、軽くスクリューを逆回転させて停船した。大ぶりの船体は遠浅の湖底に触れてそれ以上先へは進めなかったのだ。闇夜の岸までは、まだ200メートル以上はあろうかと思われた。船にも岸にも小舟はなかった。一体どうするつもりだろう?と思っていると、突然彼はパーティー用のスーツも、財布も、クレジットカードも、靴も岸辺に残して、下着のパンツ1枚になって、冬のガリレア湖の冷たい水に飛び込んだ。

しばらくして、船からのライトの中に彼の頭が見えてきた。水から上がった彼は、髪からしずくを垂らしつつバスタオルに身を包み、皆の拍手を浴びながら、優雅にシャンパングラスを飲み干した。何とも屈託のない彼の無邪気な笑顔に座はたちまちくつろいでいった。

当時私は高松教区に神学校の建物を建てるために資金集めをしていた。O.B.L.がそれに協力してくれるということで、世界中の富豪を紹介してもらった。その富豪たちを順次訪ねて募金への協力求めるのは、当時神学院の院長だったスペイン人のM.S.神父の仕事だった。しかし、どこでも話は空振りだった。やっと、ある富豪が親切に話を聞いてくれて、別れ際に長方形の紙包みの入った手提袋を渡してくれた。それを大切に胸に抱いて、タクシーでニューヨークの場末の安宿に戻った彼は、部屋の鍵を内から閉めて、震える手でその包みを開けようとしていた。彼は、中身は100ドル紙幣の厚い束だと信じて疑わなかった。しかし、実際はブランド物のチョコレートだった。

O.B.L.に振り回された後には、院長の世界1周の飛行機代だけがそっくり赤字として残り、その分だけ貧者の一灯の寄付残高を減らすことになった。

頭に来た私はO.B.L.に言った。金持ちを紹介してくれるのもいいが、まず君が善意の証しをしてくれたらどうか、と。私の率直な意見に、彼は(渋々?)-多分2000ドルだったかと思うが-1枚の小切手を送って寄こした。「せめてもう一つゼロを付けやがれ、このドケチ野郎!」と心の中では口汚く罵りながら、かつてはいささかの小金持ちだった自分のことを振り返りながら、表向きは最大限の謝意をこめた手紙を書いて、彼との関係はこのガリレアの船の上まで�壓がったのだった。彼とはその後も2-3度メールのやり取りがあったが、今は音信不通になってもうずいぶん時間が経過した。彼はまだどこかで生きているだろうか。

3度目のドームスへの旅は2005年、教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなった年の12月から次の年の1月にかけてだった。

その時はうまく車を手に入れて、一人でのんびり聖地をくまなく巡礼して歩いたのだが、その時のことは私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)(http://t.co/pALhrPL)に詳しく書いたので、ここでは触れないことにする。

 

ようやくこの度の4回目のドームスへの旅にたどり着いたのだが、思いがけず前置きが長くなってしまったので、ここで一区切りつけることにする。

信仰の目から見た聖地での霊的体験記を期待された向きには、とんだ肩透かしを喰らわせる羽目になったが、次回はそのご期待にしっかりお答えするつもりなので、ここはひとまずお赦しをいただきたい。


コメント
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