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ガリラヤの風薫る丘で-2
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前回は俗っぽい話に脱線してとんだ失礼を致しました。 今回は回心して大真面目です。
復活祭明けの信仰の高揚したこの時、聖地に繰りこんだ私たち一行の上に、これから一体何が起ころうとしていたのだろうか。
ドームス・ガリレエを示す道標 上から見たドームスは背後の丘の斜面に沿って下へ下へと広く展開する
まず、どんな顔ぶれの集まりだったのか、その一端をご紹介するところから始めましょう。
ドームスの集いの会場 (もちろんキコの設計による)
まず、この会を呼びかけたのは、「新求道期間の道」と言う、聞きなれぬ名前でその実態を正しく把握するのがやや困難な集団の創始者、キコ・アルゲリオという一人の信徒である。司祭でも、ましてや司教でもない、一介のカトリック信者(非聖職者)である彼は、私と同じ1939年生まれ。「天は二物を与えない」と人は言うが、あれは真っ赤な嘘っぱちで、神様はこの男には二物どころか、八物、も十二物も、それ以上もの才能とカリスマをふんだんに与えられた。彼にはルネッサンス期の総合的巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをもしのぐような一面があると私は評価している。
ワイヤレスマイクを持って話すキコのシルエット
今回の会場「ドームス」の全体構想から、細部の設計・デザイン、内部を飾る壁画、彫刻まで全て彼のアイディアによる作品で埋まっている。何百の歌を作曲し、それを自ら歌い、ギターを弾かせればプロのフラメンコギターリストもびっくりの腕前。最近では、モーツアルトやブラームスでも数か月を要するかと思われるフルオーケストラの交響曲の作曲を手掛け(本人は楽譜の読み書きすら出来ないと言うのに)プロの演奏家集団を使って正味数日で仕上げるという、その才能の輝きはまさに際限を知らぬ男だ。
そもそもこのドームスの存在自体が奇跡的だ。イスラエル政府は、十字軍の時代からキリスト教徒が死守してきた点の保持には手を出さないが、新しいキリスト教拠点の開設は原則として認めない。ところが、キコの尽力もあって、山上の垂訓の丘の背後に当たるこの場所で、2000年の記念すべき年に、教皇ヨハネ・パウロ2世を迎えて世界青年大会を開催することが許され、それに先だってこのドームスの建設許可が下りた。ドームスの部分的落成が教皇自身の手でなされた事はすでに触れたとおりである。そして、外見上は十字架が一つも見えぬこの建物は、内部にヘブライ語があふれ、ユダヤ教徒の見学者の数はすでに10数万人に上り、いわばキリスト教とユダヤ教の出会いのメッカのような様相を呈している。
彼の呼びかけに応えて今回は二人の枢機卿、即ち、バチカンの信徒評議会議長のリルコ枢機卿と、オーストリアのウイーンの大司教シェーンボルン枢機卿が参加した。それに加えて、世界中に78校の姉妹校を展開するレデンプトーリスマーテル国際宣教神学院の開設者、78人の司教・大司教らの内の30人余りが加わり、それに、当然のことながら、78人の神学院院長と関係する信徒の旅人たち、総勢では200数十人だろうか。私は、元高松にあった世界第7番目の姉妹校(今は事情があってローマに一時移転中)の院長平山司教の秘書と言うことで参加している。
左:シェーンボルン枢機卿 右:リルコ枢機卿 左:リオデジャネイロの補佐司教 右:平山司教
今回は、この一連の姉妹校の原型であるローマのレデンプトーリスマーテル神学院が前教皇の手で設立されてから25年を経過したのを機会に、世界に展開している神学校の関係者が一堂に会するのが目的だった。
次々と出席者を紹介するキコ
二日目には、ガリレア湖のほとりで野外ミサが行われた。
2000年ほど前、キリストはエルサレムの城外で金曜日の午後十字架に架けられて死んだ。三日目の-つまり日曜の-朝、婦人たちがキリストの墓に行くと、墓の入口をふさいでいた石は除かれていて、墓の中は空だった。一位の天使が、「あの方はここにはおられない。あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と言った。(マタイ28章1-7節参照)
それで、今年の復活祭のあと、私も、枢機卿や、司教や、司祭や、旅人信徒のこの300人近い集団もガリラヤ湖のほとりにやってきたわけだ。
ガリラヤ湖の静かな岸辺
白鷺に似た大きな水鳥は シャッター音に敏感に反応して飛び去った
ところが、不思議なことに、同じマタイの福音書は、そのあとガリラヤ湖のほとりで弟子たちが復活したイエスと出会った場面について全く何も記していない。慌てて、マルコの福音書を開いたが、そこにもガリラヤで逢えたという話は記されていない。それは大変とばかりに、ルカの福音書に期待したが、これまたガリラヤの「ガ」の字も記されていないではないか。???と言う感じで、最後のヨハネの福音書を開くと、あった。やっとあった。しかし、それにしてもちょっと様子がおかしい。
ガリラヤ湖のほとりでキリストに召し出され、キリストの弟子としてイエスと3年間寝食を共にした漁師たちは、この人こそ待望のメシアに違いないと期待して付き従ったが、その先生が犯罪人として捕らえられ、殺されて葬られ、挙句の果てにその遺骸まで消えうせた(ビン・ラーディンのように水中にでも捨てられたか?)。
メシア運動が大失敗に終わったため、彼らは意気消沈して故郷のガリラヤ湖の湖畔に戻り、何事もなかったかのように元の漁師生活を始めていた。
そんなある日、シモン・ペトロが「私は漁に行く」と言うと、彼と共にキリストに付き従っていた数人の弟子たちは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。すでに夜が明けたころ、見知らぬ人が岸に立っていた。その人が「何か食べるものがあるか」と言うと、かれらは、「ありません」と答えた。すると言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、最早網を引き上げることが出来なかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると知っていたからである。(ヨハネ21章1-12節参照)
この話は非常に興味深い。メシアだと信じて付き従ったあの魅惑的な青年イエスは、その事業半ばで挫折して、敵対者の手にかかって十字架の上であっけなく果てた。がっかり失望して故郷に戻り、元の漁師の生活を始めていたペトロ以下の弟子たちは、ガリラヤの岸辺で、見知らぬ人に出会った。生前のイエスとは、背丈も年齢も容貌も全く違う別人だった。現代風に言えば、DNA鑑定ではイエスとは別の個体であることは疑う余地がなかった。しかし、その人に接していて、弟子たちは目の前のその別人の中に霊的に復活したキリストが現存して居ることに気付き、イエスとともにいることを信じて疑うことが出来なくなった。だから「あなたはどなたですか」と敢えて野暮な質問はしなかったのだ。
ヨハネの福音書は、-プロテスタント教会では異論もあるようだが-カトリックでは12使徒のひとり、一番年若く、特にキリストに愛されていたヨハネが、1世紀の終わり頃に書いたものとされている。いわば、長寿を全うした使徒ヨハネ(今の私ぐらいの年頃か?)が、キリストの死の直後の自分たちの霊的体験を、晩年の信仰告白として吐露したものだろう。その頃のヨハネは、DNAを異にする他の個体の人間の中に、愛するイエスの現存を信仰の目で確信することが出来たとはっきりと証言しているのである。
私は罪深く信仰薄きものであるにもかかわらず、この日ミサを司式するウイーンのシェーンボルン枢機卿の中に、その傍にいる信徒評議会議長のリルコ枢機卿の中に、そして平山司教やキコの中に、復活したキリスト自身の現存を、或いはキリストの使徒たちの現存を、はっきりと見ることが出来た。その人たちの姿を借りて、2000年前にこの地に30年余りの生涯を生きた歴史上の人物ナザレのイエスが死者の中から復活して生きて現存していた。これは、脳みその知的・神学的遊戯の産物ではない。人間が自分の力で思弁的に到達しうる境地でもない。まさに、からし種ほどの小さな信仰のかけらに一方的に上から注ぎこまれた神様からの恵みの問題だろうと思う。
奇跡の大漁の記念の岸辺でミサを指揮するシェーンボルン枢機卿 それを見守るリルコ枢機卿と平山司教
言葉が足りなくてなかなか的確に表現できないでいるが、一言で言えば、2000年前のガリラヤ湖の漁師だった弟子たちと、今ガリラヤ湖のほとりにやってきた自分達との間に本質的な時間的距離の隔たりはな無いと確信する。
パン(キリストの体)と葡萄酒(キリストの御血)の奉献、その傍らでギターを奏で歌うキコ(フルートも、ヴァイオリンも、チューバも、チャランゴも、ボンギも・・・ありったけの楽器を集めて)
それだけではない。何も復活祭明けの日程を選んで、飛行機代を払って、わざわざガリレア湖のほとりまで来なくても、からし種ほどの信仰があって、上からの恵みを豊かに注がれれば、東京や大阪の大都会の雑踏の中で、過疎の村で、また被災地の瓦礫の中でボランティアーをしながら、見知らぬ隣人の中に復活したキリストと出会うことが何時でも何処でも可能なのだと思う。それは、私の場合は、今ようやく観念的可能性の問題としてではなく、日々の現実的体験、ほとんど皮膚感覚となってしまったのである。キリストはまことに復活された。そして今私とともにいる。