日本も寒いようだが、ローマも結構寒い。最近は、夜に0度を割ることがあるらしい
緯度は青森と札幌の間ほどだから、朝も遅い
雨が多いが、晴れた日の朝焼けは実にきれいだ
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世の終わりは近いのか(その-2)
-あなたの死から復活までの時間は?-
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寒いはずだ。部屋の窓から遠望できるアペニン山脈の峰は白く雪に覆われている。
さて、「世の終わり」 の話に戻ろう。
とは言っても、前回のブログに 「文字ばっかりで長い」 という意見があったので、
これからは短く少しずつ書くことにした。
兆とか京とか、さらにその10の何乗とかいう、日常の生活感覚からかけ離れた宇宙の星の数のことを思えば、今地上に住む人口の70億という数字など、コンマ以下の端数、ゴミみたいに思えてくるから不思議なものだ。そんなことで人間どもは、やれ人口爆発だ、食糧・エネルギー不足だ、と大騒ぎしているのが滑稽に見える。神様は愛する人の子が食べて残るほどの食料を常に用意してこられたではないか。それは未来永劫変わることがない。それなのに人が飢えるのは、金持ちの抱え込みと無駄に捨てる行為のせいに過ぎないのだ。
近くの銀河の3つ4つの惑星に数十億ずつの人類の子孫が住みつくまでだって、3000年や5000年の時間では足りないかもしれない。 如何に文明の進化が加速的に早まると仮定しても、今見える宇宙には140億光年の広がりがあるというのだから、人の子の種が宇宙にそこそこ拡散するまでには、今後数億年以上の時間を要するのではないかと思われる。
そんな遠い未来のある日、神様はようやく「時が満ちた」と判断して、突然この世界の終末を告げられるのだろうか。だとすれば、私が-そしてあなたが-死んでから復活するまでに、この世はまだ長い長い進化の道を辿ることになるだろう。
しかし、世界はそうであったとしても、私の寿命の残りがそう長くないのは疑いのない現実だ。私はこの15日に73歳の誕生日を迎える。この先長く生きるとしても、あと5年か10年がせいぜいの、明日知れぬ命と覚悟している。
今まで実に気ままに人生を歩いてきた。良いこともちょっとはしたかもしれないが、大半は如何わしい、怠惰な、罪深い日々だった。回心をして、心を入れ換えて、最後だけはまじめな清らかな日々を送らねばと頭では思うが、それも物憂く先送りしている間に、突然死神に追いつかれ、心ならずも浮世に「あばよ」を告げるのがせいぜいのような気がしてきた。
ままよ、その時はその時。死んでから冥土でゆっくりと復活の日に備えて反省し、神の前でする弁明、釈明、言い訳、お詫び、命乞い、の準備をすればいいではないか。どうせ、死んでから世の終わりが来るまでには、気の遠くなるような時間があるのだから。それに、この世の時間は結構気の紛れる忙しいものだったが、冥土の時間はきっと長く退屈なものに違いない・・・・。
それでも、この世に残してきた友人・知人が生きている間は、死に遠く隔てられて対話は叶わなくとも、少しは生者の世界のことが気になるかも知れないが、それもそのうち縁が薄くなり、やがて無関心になるに違いない。その後はただうたた寝をしながら世の終わり、復活の日を待つだけなのだろうか?
ところがどっこい、そうは問屋が卸さないらしいぞ!
と言うことに最近ハッと気が付いた。
どういうことか・・・。
それは次回のお楽しみ。
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ツイッターに、「最近急にブログ更新のピッチが速くなったね」、と言うコメントが届いた。
そうです、その通り。クリスマスまで翻訳業の他は、原稿の整理とか、会議・旅行とかの忙しい予定が今のところないのです。
二冊目の本の出版も近づいてきました。やや難産だったけど、最終「念校」の校正を終えて、先日バチカンポストのDHL国際宅急便で東京の出版社に送り返したばかりです。それが私の手を離れたのが、時間の余裕の生まれた最大の理由かもしれません。
はたして、同じ柳の下に泥鰌(どぜう)が二匹いるかどうか? 興味津津です。
(つづく)
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