:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 世の終わりは近いのか(その-4) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-18 17:53:26 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

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世の終わりは近いのか(その-4)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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先のブログのアクセス状況はそれほど悪くなかったようです。予想外にコメントが相次ぎました。これは一部の人には興味を持って読まれた印でしょうか。その中の二つをここに採録します。最初のコメントは:

     じっくり、じっくり、読ませていただきました。
     躓きかけています(涙)
     はやく続きを投稿してくださいね!

次のコメントは:

     こんにちは

     興味を持って文面を追っています。
     生死観については、少なからず興味をいだいて、
     色々な本を読んだ時期がありました。
     私のイメージは、
     見守っている家族が医師より死の宣告を受けいよいよとなった、
     臨終の際は、自分の魂が部屋の天井に浮き、
     横たわっている自分の肉体と、悲しんでいる家族を
     第3者の立場から見られ、
     自分がここにいるのに声を出しても、誰にも届かず、
     やっと自分が死んだと気づく。
     目の前にきれいなお花畑があり、
     過去に逝った身近な人が迎えてくれたり、
     死の瞬間、自分の一生の生い立ちが、フラシュバックして蘇ってくる。
     仏教、キリスト教も、生前の善悪で地獄に行くか、天国に行かれるか、
     はたまたエジプトの絵にも描かれているように・・・。
     然し最近思う事は、
     一旦は死刑の判決が出て、最高裁で無実になった人もいれば、
     無実なのに死刑にあった人も、世界にはきっと沢山あった事でしょう。
     真実は神のみぞ知るですが、結局は、
     死んでからの神のお裁きに委ねるほかないということでしょうか・・・。

     続きを早くね、  
     文中に子持ちの綺麗な女性が登場、どきどきですよ。
     神父は体調がよくなかったんですか?
                               (T. A.)

 1番目のは、全くの匿名ですが、きっと真剣に神を求めるまじめなカトリック信者のご婦人でしょう。これまでの信仰の土台を揺さぶられて、悲痛な叫びを上げられたのではないかと察します。責任を感じます。でも、このあとの本文をお読みにならば、きっと少しは落ち着かれるだろうと思います。

2番目のは、私にメールで届いたものを、ご本人の了承のもとにブログのコメント欄に貼り付けたものです。
T. A. さんとは、グループ旅行でローマに来られた時に知り合いました。教養のあるご婦人で、クリスチャンではありませんが、私とは話がよく合います。

 では、さっそく今回の本文に入りますが、今回も長文になることをお許しください。前回、一番目のコメントのご婦人を、泣き出さんばかりに躓かせてしまった責任もあって、取り敢えず結論に届くまで筆を止めることができなかったのです。疲れたら途中の薔薇の花のところで小休止。続きは次の日にでも読み進んで下さい。

さて、ここでひとまず前回の結論を復唱しましょう。

 もしも死と言うものが、全身麻酔で五感が完全に封じられた時に人が経験するように、意識が完全に消滅し、自分の存在も時間の経過も全く知覚しないブラックアウト状態に陥ったのと同じだとすれば、しかも麻酔が一時的なものであるのに対して、肉体の崩壊に伴ってその状態から覚醒する可能性が永久に失われることであるとすれば、それは私が死によって実質的に無に帰ったのと同じで、それ自体、恐ろしくも苦しくもなんともない、実にアッケラカンとしたものだ、と言うことです。

 そこには、ぶっきらぼうなむき出しの「無」あるのみで、死んだ私はその「無」さえも意識しない、私はこの世に生まれる前に全く存在していなかったように、死と共に生まれる前と同じ全く存在しない状態に戻るということでしょう。

 私の友人がいう、言い知れぬ「淋しさ」、「寂寥」はその虚無的な期待しか持てないことから来ます。オギャーと生まれてから、愛し、憎み、悩み、苦しみ、喜び、笑い、不安におののき、良心の呵責に耐えた日々も、こだわり、執着していた全てのことと共に空しく消え去るということです。

 旧約聖書の「ダビデの子、コヘレトの言葉」に曰く。

     何と言う空しさ
     何と言う空しさ
     全ては空しい。

     私の心が熱心に求めて知ったことは、
     結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだった。
     私はこうつぶやいた。

     「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
     見よ、それすらも空しかった。

     人が労苦してみたところで何になろう。
     神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物に過ぎないということを見極めさせるためだ、と。

       これも死に、あれも 死ぬ。

     人間は動物に何らまさるところはない。
     全ては空しく、全ては塵からなった。すべては塵に返る。
     死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。

 お通夜のときのような沈鬱な顔で「コヘレトの言葉」を抜粋引用しているうちに、不謹慎にも思わずクスッと笑ったところがあったので、息抜きに紹介しましょう。

     一つ一つ調べて見いだした結論。
     私の魂はなお尋ね求めて見いださなかった。
     千人に一人という男はいたが
     千人に一人として、よい女は見出さなかった。(コヘレトの言葉7章27-28節)

 (ここで私は、ハハン、コヘレトお前も男だな、とつぶやきました。)

 そのあとも、まだまだ悲観的な言葉が延々と続きますが、この辺でやめておきましょう。これがキリスト教の聖典の言葉かと目を疑いたくなるような、実に痛快なまでのペシミズムの極致でした。


 私は20歳台の学生の頃、京都は鷹が峰の安泰寺と言う破れ寺に、座禅をしに通ったことがあります。澤木興道と言う師匠についていました。その老師がいかに偉い高僧であったかは、年をとってから知りました。カトリックの若者と知った上で可愛がっていただいたことを有り難く、懐かしく想い出します。

 あの頃初めて習った般若心経の中の「色即是空」と言う言葉の「空」の字の教学的意味をどれだけ理解しているか、全く自信は有りませんが、私が死と共に思う、数学的ゼロのような、物理的暗黒のような、全く取りつく島もない無機質な「無」の空虚さに比べれば、はるかにニュアンスと救いのある暖かい概念のように思われてなりません。

 しかし、あらゆる宗教が説く現世の御利益も、来世の救いも、私の理解した「死」「死後の世界」の前には全くの幻想、まやかしにすぎません。そこで支配するものは、絶対的「無」「虚無」「空」しかないはずなのです。

 お布施をすればご利益が得られると言われて信じてお金を出したのに、なんの御利益もなかったと不平を言えば、まだお布施が足りないからだと言われて、それならと出しても、出しても、まだまだと言われ、気が付いたら丸裸になっていて、それでも結局元のままという話は、聖書のイエスについての話の中にも、形を変えて「悪徳医者の例」として短く巧みに描かれています。まして、来世の幸せを約束する空手形で金を巻き上げるなんて、それこそ最悪の詐欺もいいところ、人の弱みに付け込んだ卑劣な犯罪行為でなくてなんでしょうか。

 死んだら、体が煙と灰になって失われ、憐れな魂は肉体から引き離され、5感が封じられた途端に自我も世界も時間も空間も知覚できない「無」の中に放り出されるのが人間の永遠の定めなら、宗教ほどひどい嘘はどこを探しても見つからないというものです。


 私はイタリア人の真面目なカトリック信者と会話していて、「臨死体験」に話が及んだことがありました。すると、彼らは俄かに活気づいて、あの本、このジャーナリストを引き合いに出しながら、盛んにその多彩なレポートの内容を展開してくれました。

 冒頭で引用したT. A. さんのコメントではありませんが、内容はおおむね世界共通のようです。日本でも司馬遼太郎賞に輝く立花隆氏の著書「臨死体験」(上)やNHKスペシャルなどを第一に思い出しますが、人々が、イタリア人のクリスチャンも含めて、そのような話題に夢中になるのは、そこに死後の世界の報告が見付かるのではないかと言う、期待と好奇心をくすぐる何らかの錯覚が潜んでいるからだと私は思います。

 しかし、臨死体験なるものは、英語のNDE (Near Death Experience) に明らかなとおり、死に限りなく近づいた「生の側の体験」であって、死の境の向こう側に行って戻ってきた人たちの「死後の世界」の体験報告では断固あり得ません。

 我々の周りに死後の世界に踏み込んだのち、再び生者の世界に生還した人は一人もいません。誰一人としていない。死んだ人は、心肺が停止し、脳波が平坦になり、瞳孔が開き、体温が低下し始め、医者が時計をチラリとみて臨終を告げたその前後のいずれかの時点で、すでに永久に二度と戻れない無の世界に呑み込まれてしまったのです。だから、死後の世界はこうだったああだったと言わんばかりの紛らわしい作り話は、興味本位であれ、金儲けのためであれ、厳に慎んでいただきたいものだと思います。


 聖書に私の説の最後の保証を求めましょう。

 死者の運命について一番詳しく書かれているのは、聖パウロのコリントの信徒への手紙ではないかと思います。私の考えをはっきり伝えるために、意味を変えないように注意しながら、言葉を一部置き換えて書きました。

 死者の肉体が崩壊するとともに、意識の中に蘇生するチャンスが永久に失われるのだとすれば、「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(コリント15章14節)また、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」(コリント15章18節)もしそうだとすれば「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と言うことになります。(コリント15章32節参照)

 聖書さえそうはっきり言っているのならば、なぜ谷口神父は宗教家のなりをして、人に宣教し、信仰を勧め、好き放題の放縦を戒め、人に見られていなくても損をしてでも心正しく生きるように説いているのでしょうか。それこそ偽善ではないですか、いかさまではないでしょうか。

 人は魂と肉体の二つの側面を持つ一つの人格と理解されますが、それぞれに自立した二つの部分が便宜的に合体したものではありません。それらは不可分に融合していて、肉体が死んでも魂は悠々と生き続けるというようなものではありません。人間が死ぬのであって、肉体が滅びれば魂も死ぬ(聖書的表現によれば「眠りにつく」)のです。しかもその眠りは深く、全身麻酔にかかった人の消えた意識のように、完全に無に還元されたのと全く変わりのない状態でしょう。もしそれが死後永久に続くのであれば、実質上その人は死と共に滅んだ、亡くなった、死滅したのも同然で、もう命ある者として生きてはいないということす。どの宗教にとってもこの現実は変わりません。


 ようやく結論に近づきました。

 では、宗教は何の役に立つ?キリスト教を含めて、宗教団体の本音は、本当の狙いは何?やっぱり人をたぶらかして金を集めること?行い澄ました、有徳の士を装って有り難い説法をする宗教家は、一皮剥いたらその正体はお金の亡者なのでしょうか?私もその片割れなのでしょうか?

 どっこい、そうではありません。たとえ大概の宗教がみなそうであっても、キリスト教だけは例外だと言わせてください。
 2000年余り前のクリスマスの夜、粗末な馬小屋で処女マリアから産まれた幼子イエスは、長じて十字架の苦しみの中で非業の死を遂げましたが、3日目に死者の中から復活したと聖書にあります。

 数万年前からこの美しい宇宙船地球号に生まれ死んでいった無数の人間の中で初めて―後にも先にもただ彼一人だけ―死者の中から甦ったという話です。

 本当だろうか?

 彼は私が2時間後に麻酔から醒めたように、足掛け3日目に(実質的には死後30時間余り後に)死者の中から復活しました。それも、臨死体験者のように死に限りなく近づいた生の側をうろうろした後にこちら側の世界で覚醒したのではなく、人類で最初でただ一人、生と死を分かつ境界線を越えて死後の世界に踏み入り、一旦本当に死んだ後、復活体と言う新しい肉体を身にまとって、この世の彼方にあるもう一つの世界へ、彼岸の世界に復活したのです。

 マリアの子、人間キリストは、創造主なる神の権能と威光を身にまとって、人類を支配していた死の呪いを打ち砕いて、まず自分自身が死者の中から復活し、全ての人類を死の軛から解放して、神が定めた世の終わりの日に、一人一人の眠れる魂に復活の肉体を新たに創造して纏わせ、蘇らせるというのが、キリスト教の教えです。

 これは、人類古今東西のあらゆる宗教の中で唯一キリスト教だけが説く特徴的な教えで、その素晴らしいニュースを伝えるのがキリスト教の使命です。

 すべての宗教を信じて死んだ人が、私の言う無の中に滅んで、そこに永遠にとどまる運命にある時に、キリスト教だけは、専売特許のように復活の喜びを高らかに宣言するのです。

 キリスト教によれば、イエスは無の中に消え失せて何も残らなくなるはずの死の滅びの運命に力づくで介入し、人が長い眠りに入っても、世の終わりの復活の日には必ず肉体を取り戻して復活し、もはや死ぬことのない新しい命を勝ち取ることに成功しました。

 たとえ世の終わりまでの時間が何億年、何十億年であっても、その間、目を見張るような人類の進化の過程をフォローすることもなく深い眠りに入っていたとしても、本人にとっては、死の瞬間と重なる同じ瞬間に復活の体をもって甦ることになるのです。

 ある瞬間、唐突に優しい看護婦さんに「谷口さん、気が付きましたか?」と呼び掛けられるときのように、優しさと威厳を備えたイエス・キリストに、「さあ、起きなさい、目覚めなさい!」と声をかけられて、この世の生を終えたと思った次の瞬間に肉体を返してもらってあの世で復活のいのちの中に蘇るのだとすれば、そして、それを教えるのがキリスト教の使命だとすれば、そしてそれが事実であり真実であるならば、私は決して詐欺師でも、いかさま野郎でもありません。私の名誉は回復されて、真っ当で実直な宗教者として、臆せず人前に立つことが許されるのではないでしょうか。

 神様は、時空の中で気の遠くなるような長い進化の過程を経て歴史を刻む宇宙に人間を置いて、しかも、そのすべての人間を全く同じ条件で平等に扱うことのできる絶妙な仕組みを考え出されました。すべての人は、オギャーと生まれてから、長短様々な個人の歴史を歩み終えた後は、死の瞬間の次の瞬間に復活の命の中に抱き上げられるように計画されたのです。たとえ、一点に重なって見える死と復活の二つの瞬間の間に、ある人は30億年、ある人には100万年、ある人には1000年時が経過していようとも、またある人はたまたまこの世の生を享受している最中に、突然世の終わりの日に遭遇し、文字通り死んで眠りにつくとすぐに復活の命に移行するとしても、すべての人にとって、生まれて、この世の生を生きて、死んですぐ復活するというパターンとメカニズムは全く同じで、平等であるわけです。

 一人一人、この進化する宇宙の中に登場する場面は違っても、一人分の人生を全うした後は、死と共に「長い無の眠り」の中に待機して、世の終わりの日に全員一斉に同時に喜びの歓呼の声を上げて復活するわけです。

 めでたし、めでたし!

 何か狐につままれたような気分になりましたか?ごもっともです。

 まだ説明を要する無数の付帯的疑問が渦巻いていませんか?無理もありません。

 そのために、次回の付録のブログが用意されています。あらかじめ言っておきますが、私はカトリック教会が伝統的に維持してきた信仰の根幹にかかわる教え、例えば、神の審判、天国、地獄、死者のための祈りの価値、etc. を何一つ否定したり変更したりするものではありません。ただ、教会の中でしか通用しない古いおとぎ話的で幼稚な解釈や理解に対して、現代人の知性の批判に耐えられるより実際に適った表現を模索するにすぎません。

 あと数日で、十字架によって復活の命に道を開かれた宇宙の王さま、幼子イエスの誕生日、クリスマスの祝い日が来ます。共に祝いましょう。

メリークリスマス!

なんだかコメントがたて続いているようですね!         

コメント (4)
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