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世の終わりは本当に近いのか?
―あなたの死から復活までの時間は?―
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写真は大銀河系 M101 (ウイキペディアから借用)
ヨハネの福音書には妙な話が出てくる。
「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。・・・・』それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった。」(ヨハネ21章22-23節)
これは一体どういうことか?
「彼」とは明らかにこの福音書を書いた、イエスに最も愛された年若い使徒ヨハネその人なのだが・・・・。
イエスがヨハネを12人の弟子たちの中でも特別に愛していたことは、聖書に度々出てくる。イエスはそのヨハネが死を見ることに耐えられぬほど彼を溺愛し、彼が生きている間に急いで再臨する(つまりこの世に再び帰ってくる)ことを望んだということだろうか?
そう言えば、イエスは十字架の上の末期の息の下で、自分の亡き後の愛する母マリアをヨハネに託しもしたのだったが。(・・・・だが実際には、そのヨハネも自然の摂理のままに年老いて死んでいる。)
ユダヤ人もキリスト教徒も、そして、回教徒も、建前としてはみな復活を信じていることになっている。これは輪廻の思想と根本的に対立する全く別な歴史観だ。(というより、輪廻の世界には、はじめから本当の意味での歴史はあり得ない。)
この世界は神の無からの創造によって始まり、終末をもって終わり、終末にはキリストが再臨し、全ての死者は復活し、新しい天と地が始まり、その世界には終わりがないとキリスト教は教える。
「新しい天と地」の世界がどんなに素晴らしい世界かは、今の人間の想像をはるかに超えるものがあるが、一つだけはっきり分かっていることは、その世界もまた物質によって構成される物理的世界だということだろう。何故か?
それは「体の復活」の信仰からわかる。「体」とは他ならぬこの生身の人間の「肉体」のことであり、それは物質によって構成されたものだから、体が甦るということは、物質があると言わざるを得ないということだ。
キリストの復活体 ―したがってそれに与る私たちが復活の日に身にまとうであろう肉体― がどんなに輝かしく高められた素晴らしいものであるとしても、物質的「からだ」であることだけは絶対に変わりがない。そして、人間の体との関連性において物質的世界としての宇宙も高められ霊化されつつも存続するに違いない。
さて、先に引用した聖書の言葉、「私が来る時」とは、世の終わり、つまり終末の時を指す。死んで復活してこの世から一旦姿を消したキリストは、世の終わりに「復活体」を身に帯びた生身の人間として再臨すると弟子たちは ―従って、キリストの弟子であることを自認するすべてのキリスト者も― 信じているからだ。
上の福音書の記述から、ナザレのイエス自身が、自分の受難と死を前にして、世の終わりがごくま近に差し迫っていると「錯覚」していたとまでは敢えて言わないが、弟子たちの中にはそのような考えがあったらしいことが推察される。
若い学生の頃、聖アウグスチヌスの古典的名著「告白」や「神の国」を読んだとき、彼が司教をしていた北アフリカのヒッポの街がゲルマンの蛮族に滅ぼされようとしたのを見て、彼も「世の終り」が到来した思ったらしいことを読んだような記憶がある。
中世以後のカトリックの聖人たちの多くも、戦乱や、ペストや、飢饉や、道徳の退廃を見て、「世の終わり」は近いと思った例は多いようだ。聖書にそれらが世の終わりの印だと書いてあるのを知っていたからだろうか。そして、それは末法思想として世界に共通の現象と言える。
現代でも、プロテスタント教会の末端に連なるセクトの中には、「何年何月何日に終末(世の終わり)が来るから急いで悔い改めて回心せよ!」、の類の警鐘を鳴らす例がある一方で、キリスト教とは関係ないが、ノストロ・アダムスのようないわゆる「予言者」の言葉として、同じようなことを吹聴する例が後を絶たない。
しかし、キリストの弟子たちにはじまって、多くの聖人たちも、巷の偽預言者たちも、今までのところ全員が思い違いをし、預言は外れ、この世界は今日も悠々と未来に向かって時を刻み続けているのはどういうことか。
私は聖人でも預言者でもないただの罪深き「リアリスト」だから、聖人たちや霊感の持ち主たちがどうして歴史から学ぶことをしないで、相も変わらず同じ錯誤を繰り返して、性懲りもなく「世の終わり」はま近に迫っているという誤った想念に囚われるのか、不思議でならない。私は、「世の終わり」―したがって、キリストの再臨―は、気の遠くなるほど悠久の未来までは決して来ないと確信している。その根拠は何か。
天地万物の創造主なる神は、旧約聖書の冒頭、創世記の第13章16節で、ユダヤ人の太祖アブラハムに「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」と言い、15章5節では、神はアブラハムを外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」と。
地球の人口は今日現在71億人に迫ろうとしている。人間は浅はかにも、このまま人口爆発が続けば、地球は狭くなって住めなくなり、食糧不足で死滅する。だから赤ん坊(胎児)を殺してでも人口抑制しなければ、と危機感をあおっている。愚かな近視眼だ。
神が言うのなら、試しに星の数を数えてみよう。人間の科学の目は今のところ140億光年の彼方までしか見えないが、その範囲だけでも100兆(10の14乗)個の星を持つ大きな銀河系が3500億個、数十億(10の9乗)個の星を持つ矮小銀河が7兆個あるそうだ。そして、その各星が太陽のように数個ずつの惑星を持つとすれば、事実上無限個の惑星があるということになる。
ノーベル賞級の頭脳をもってしても永久に極めつくせない秩序を秘めた宇宙の星々は、単に詩人が夜空を眺めてロマンチックになるためだけにあるのではないだろう。
旧約聖書の創造主なる神は、人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・すべてを支配せよ。」(創世記1章28節)と命じたとき、その「地」はこのちっぽけな地球だけを指したのではないことは子供にもわかるだろう。「すべてを支配せよ」の「すべて」の中には、上の実質上無限個の星々、無限個に近い惑星をも指しているに違いない。
近い将来、人類が愚かにも地球規模の全面核戦争を始めて、この美しい青い星が放射能汚染で住めなくなったとしても、それが世の終わりではあるまい。今から43年も前にアポロ11号が月面に着陸して初めて人が月の大地に降り立って以来、10回も人を月に送り込み、月面ドライブまでやった人類のことだから、必ず大金持ちと科学者のチームが地球を脱出してひとまず月に避難するだろう。
そんなことにならなくても、人類は必ず近い将来、経済的採算のめどが立ち次第、宇宙に拡散するに違いない。その時、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。・・・すべてを支配せよ。」と言う神のことばは現実味を帯びてくる。そして、人の子の種はあらゆる困難を克服して、必ずや宇宙に拡散していくだろう。
しかし、人類は光の速さより遅い速度でしか旅することができないとすれば、しかも宇宙は今後も膨張し続けるとすれば、140億年以上の時間をかけても宇宙の果ての星にまでは到達できまい。
では、「世の終わり」は永久に来ないだろうか。いや、そうでもあるまい。世の終わりは、結局、神が「もうそろそろいいだろう」と判断されたときに突然やってくるのではないだろうか。しかし、それは50年とか100年とか先の近未来ではなく、何億年、何十億年先のことと考えた方が理にかなっている。
と言うことは、あなたが、そして私が、死んでから、世の終わりに、つまり、キリストの再臨と新しい天と地の始まりの時に、復活するまでには、同じように何億年、何十億年の時の流れを待たなければならないのだろうか。
私は実はそうは思っていない。だが、それは次回に詳しく解明するとしよう。
(つづく)
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