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時間の流れに
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在りし日の聖イグナチオ教会
私の仕事場は四谷見附の麹町通りに面しています。数しれぬほどの自動車が、それぞれの警笛をならしながら、物すごいスピードで走っていきます。みな、どこかへ、そして一刻も早く行きつくところへいきたいのです。その自動車群のあいだをトラックがわれ遅れじと重いからだをひきずっていきます。すると地震のときのように私の小さな家はゆれるのです。大型バスが猟犬の群れさながらにあえぎながらかきわけて走っていきます。中には駆けている猟犬のしるしが横腹についているのさえあります。都電もまけてはいません。警告するように大きな音を出して自分の軌道にはいってくる自動車や人を追い払います。ときどき明るい子供たちの一団が、遠足にでかけるのです。かたまって横断していきますが、まるで夏の森にいる小鳥のようにそれほどにさえずりながら通ります。
先だって総選挙の時は、色とりどりの自動車から声をからして候補者の美徳をどなっていましたが、たしかにあの時は騒音がその極に達したときでした。私の友だちはこれは政治家のくだらぬ宣伝ですときめつけ、母親たちは子供がそのために怖がって困ると新聞にかいていました。それにくらべると筋向いにある消防署はもっと親しみがあります。義務とはいえ、防火週間中うっかりした人びとに「火の用心」をすすめています。むろん拡声器を使ってです。けれどもありがたいことに、うきうきするようなメロディーを聞かせていました。それに、私もときのたつのもわすれ、あらゆる騒音もゆるし、いつまでもこういう賑やかな波の中に生活したくなりました。そうです。こういう騒音は健康で気持ちがいいのです。世の営みは元気よく前進しつつあることを私に知らせてくれます。そうでなくてはなりません。怠けていることほど世の中の意味に反対するものはないからです。
麹町通のごった返す流れのそばに広い芝生があり、まん中にその騒ぎを知らぬ顔な、しゅろの樹の一群がじっと立っています。そして聖堂の前で番をしています。ときどき人は往来の流れを渡って、このしゅろの樹を見上げ、それから教会の静けさの中へはいります。すると、世のざわめきは遠くの方に聞こえるだけです。時間の波は永遠に向かって潮が引いて行くように消えていきます。
さて、私は照る日も曇る日も、通りに面したこの角の部屋で時間と永遠の間に坐っています。そして人びとに両方のことを説明する務めをもっています。つまり、時間だけのことを考えている人には永遠のことも考えなさいと、永遠のことだけを考えている人には時間のことも軽視してはいけませんと。幼い子供が来るときには苦労はしません。子供はおかあさんや代母のうでに抱かれて来ます。そして私は子供に「神の教会から何を望みますか」とたずねます。子供は大きな目で、まず私をそれから代母を眺めます。代母は「信仰を」と答えます。私はまた「信仰はあなたに何を与えますか」とたずねますと、代母が「永遠の命を」と答えます。子供たちが早くから永遠の命を知るように、私はこんどは少しの塩を口の中に入れてやります。「英知の塩をうけなさい、あなたが永遠の生命に入れるために役立つでしょう。」子供は塩を少し味わいます。めずらしい味がするので不思議に思い、口もとを歪めます。ときにはほおえむものいます。私がわざと意地悪く塩を入れたのではないと思うからでしょう。
子供が大きくなりますと、毎土曜日の午後、公教要理の勉強にきます。彼らは時間と永遠をたやすく理解します。私は「みんなで時間をつかまえましょう。それはほんとにそうできるでしょうか。」といって、「さあ、いま!」叫びます。いまはつかまったでしょうか。いや、もう私たちのうしろへ逃げていってしまいました。それはちょうど流れの岸に私たちが立っているようなものです。山から水が流れて来て、私たちのそばを通るときに「いまです」と叫ぶと、もうその水は谷のほうに下っていってしまったのです。しかし私たち自身もそれと同じです。決して時の流れのそばに静かに立っているのではありません。みなさんは今若くて元気いっぱいです。しかし聖書にも書いてあるように、人間は野辺に咲く花のようなものです。朝には咲き、真昼の太陽にしぼみ、夕べに地面に倒れるのです。そのようにみなさんも神の思し召しで長生きすれば、やがてお爺さんやお婆さんになるのです。——子供たちの瞳の輝きがにぶります。時間のうちにありながら、心は永遠に向かって身をととのえる準備をしています。
学生が私の角部屋へくるときには、真面目な顔で難しい問題をたずさえて来ます。彼らは時間のことがらを基礎の上に立てたいのです。すべてを新しく秩序づけて人間社会の真の幸福をうち立てたいのです。私が「人間の社会とは何ですか」とたずねますと、結局は人間が問題となるのです。私はつづけて「人間とは何ですか、人間の価値はどこにあるのですか」とたずねます。たいていだまってしまうか、あるいは「人間はまあ、やはり人間です」と答えます。もし人間に何の価値もないのなら、われわれのそばをざわめき流れるいとなみはどんな意味や価値を持っているのでしょう。そのことは人間にきいてもわかりません。神の教会にたずねてみなければなりません。教会は今なお昔の思想家の紡いだものを頭髪につけています。なかんずく、永遠からの音ずれをもっています(ゲルトルート・ル・フォール)。
人間の花は花嫁と花婿です。すべてのほかの花と同じようにやはり時間のうちに咲きでます。ゲーテがいったように、どの草花もどの樹花も一つの驚きです。なにか思いがけないものであります。根や幹や葉からではどんな種類の花が咲くのかあてることはできません。朝につぼみは割れて花が開きます。その形、色、陽の光をうけて澄んだ空気の中にゆれているそのさまは驚くばかり妙なるものがあります。詩人はみな春を、花を、若い心が互いに愛しあうふしぎさを歌によんでいます。ふしぎなのは時間と永遠のためなのです。どの詩人も「とわに緑に栄えよかし、若き愛のうるわしき時よ」(シラー)を念願しています。
若い二人が神のみ前に立ち、互いにかわらぬ愛の誓いを立てようとするとき、私は二人に彼らの心の「大切な時間Hochzeit (結婚)」の意義を説明しようと試みます。「あなたがたお二人は互いに贈り物として与えられたのです。今日から後はともに歩まねばなりません。それをあなたがたは望んでいます。神に向かってともに歩むのです。婚姻ミサの初めにはこう書いてあります。神よ、汝は選ばれしこれら両人をあわれみ給えり、彼らが汝をさらにもましてほめ讃えるようになし給え」花嫁と花婿には時間がいかに弱く、またどれほど粗いものであるかたやすくわかります。時間が花の若々しいつやをみなほろぼしてしまうからです。時間がこころのつやをほろぼしてしまうことが無ければよいのですのに!
ごくまれに、歩みつかれたひとが私の角部屋おとずれます。その生涯中にただ時間のみを考えて暮らしてきた人たちです。永遠などはありえないと思っていた人たちです。しかし今やその心の花が開いたのです。おそ咲きの秋のはなのように。老年に咲くその花を彼らは少しはずかしがっているようです。しかし、彼らは次第に上手に神に話しかけることができるようになり、あるいは、克己の業が神への愛ゆえにうまくできるようになると、彼らはまるで子供のようによろこびます。これらすべては、われわれの時間が永遠によってつつまれることのうつくしい保証であります。
ときの流れは毎日私の角部屋のそばを迅速に流れ去ります。本当をいえば、目の前のきまった目的に向かって走っていくこれらすべての人が、ちょっとここにとどまっていけばよい、そして四谷見附橋の交番ではなく、私の部屋へ来てすべての目的の目的についてたずねていけばよいと思うのです。
在りし日の聖イグナチオ教会内部
この一編の表題は、ホイヴェルス神父様の初期の単行本「時間(とき)の流れに」のタイトルとしても使われています。
この一冊には28編の小品が収められていて、それらは、
- Kreatur —— 生きもの
- Kind —— こども
- Mensch —— 人間
- Gott —— 神
- Theater des Lebens —— 人生の舞台
の5つのテーマに分かれています。
私はこのブログで今までに1.と2.のテーマから数編を選んで取り上げてきました。今回の「時間の流れに」は4.の「Gott —— 神」のテーマのもとに集められた8編の最初のもので、ホイヴェルス神父様の作品の中でも最も代表的な、内容の充実したものの一つ言えるでしょう。
60年以上前に書かれたこの一編をよりよく味わうためには、その舞台となった聖イグナチオ教会の主任司祭室の環境を知ることが助けになるかもしれません。教会は東京・四谷の見附橋のたもとにあって、新宿の大ガードから皇居の半蔵門に至る都電通りに面しています。当時のこの通りは今のちょうど半分ぐらいの道幅で、その名のとおり都電がゴロゴロと音を立てて走り、雑多な車の騒音と人々の活気にあふれていました。
師が初代主任司祭になられた時に建てられた教会は、正面の脇に一本の塔のある絵になる建物で、主任司祭の執務室は、米軍払い下げのカマボコ兵舎の端に小さな平屋を付け足した二部屋のちいさな建物にありました。そして、教会の前には、まん中にソテツの樹を配した広い芝生があって、そこは土曜学校の子供たちの遊び場になっていました。
塔の上には、技術者になったホイヴェルス神父様のお兄様が作って贈られた四つの鐘があり、カランコロンと地上の喧騒の上に明るい天上のメロディーを降り注がせるのでした。しかし、1964年の第1回東京オリンピックを境に様相は一変しました。都電は廃止され、道は2倍に拡幅され、道沿いの二階建ての古い町並みは大きなビルに建て替わり、人間の臭いのする喧騒も消え去りました。そして今では日曜のミサの開始を知らせたり、アンジェラスの祈りや、結婚式やお葬式を告げる柔らかい鐘の音も、ただの騒音として住民のクレームに押されて沈黙したままです。
師が日長いちにち座っておられた角部屋は、「時間」と「永遠」つまり、この世界と神とをつなぐ神聖は場所でした。
わたしたちはホイヴェルス神父様の跡を継いで、時間と永遠を繋ぐ大切なお仕事を継承するように招かれています。なぜなら、日本人の大部分は時間のことばかり考えて、永遠を忘れているからです。
一例をあげましょう。私より年若い畏友のT氏は、ビル・ゲーツとも面識のあるIT関係で一世を風靡した明晰な頭脳の持ち主でしたが、難病をわずらって仕事半ばに惜しくもこの世を去りました。晩年かれは私に、「死は少しも怖くない、自然の摂理で無に還るだけだから。しかし、自分が生きてきた証し、実現した価値までが、すべて虚しく消えてなくなるのかと思うと、限りなく寂しく思う。」と告白しました。彼は多くの理系の頭脳の人がそうであるように、神の存在も自分の体の復活も信じていません。だから、自分の存在の証しの永遠性を本能的に希求しているにもかかわらず、それが無慈悲にも無に飲み込まれて消えてしまう不条理の前に、無限の寂寥感を抱いても、それを癒すすべを知らないのです。
私は国際金融マンだった時代に、今の世の人々がいかに保険に依存しているかを興味深く見てきました。
車の任意保険や健康保険はまあ普通として、生命保険、火災保険、地震保険、ゴルフ保険、葬儀保険?ペット保険?・・・あらゆることが保険の対象になっています。
それなのに「あの世保険」だけは聞いたことがありません。これは、何か大きな片手落ちではないでしょうか。あの世の命なんてないに決まっているが、もしあった時にうろたえるリスクを回避することをどう担保すればいいのでしょう。
せっかく何十年も火災保険をかけて来たのに、まだ一度も火事に遭ったことがない。だから、多額の保険金を払って損をした、金返せ、という人はいません。むしろ、火事に遭わなくてよかったと喜ぶことでしょう。反対に、もし保険に入っていなくて火事に遭ったら、それこそ大変です。後悔しても、もう後の祭りです。
同じことは、あの世についても言えるのではないでしょうか。死んだら一巻の終わり、ただ無になるだけ、復活もない、あの世もない、神なんていないだろうと甘く見て、この世の幸せと安楽だけを追い求めてその日暮らしをしている大多数の日本人が、死んだ出会い頭にばったり神様と鉢合わせしたら、さぞ慌てふためくことでしょう。
自己過信して、保険を掛けないで火事に遭った人と同じように、死んだらどうせ無になるのだからと高をくくって、死後の命のために生前から保険として生活を整えておかなかった人は、死んでから慌てふためいてももう手遅れ、後の祭りでどうしようもありません。それで、十中八九ないとは思うが、もし万一死後の命があった時に備えて保険を掛けておかないと大変とだ思って、大手の保険会社に飛び込んでも、「あの世保険」などという保険商品を売っている保険会社はどこにもありません。
では何処に行けばよい?それは四谷見附の教会の質素な角部屋に坐っているホイヴェルス神父様の所へ行けばよいのです。
神様なんていないに決まっている、死んだら無に還るだけで何も残らない、復活なんてあるはずもないと人はふつう思うでしょうが、もしもの時のために一応保険だけは掛けておきたい、というのが保険好き人間の賢明な選択ではないでしょうか。
四谷見附のホイヴェルス事務所にいけば、神父様は忍耐強く懇切丁寧に「神様保険」、「あの世保険」の手続きをしてくださいます。
先日、久しぶりに銀行時代からの友達のS氏と昼食を共にしました。先にふれたT氏は彼の特別な親友でした。無論S氏も神様保険に入っていません。その彼、無二の親友のT氏に先立たれて、心のどこかに空洞ができて、何となくこころ寂しい日々を送っています。優秀な人ほど、また、現役時代は生き甲斐に満ちた充実した生活を満喫していた人ほど、定年後の天下りした先の仕事も終わると、上品な趣味で時間を満たそうと努めてはみるものの、そこはかとなく侘しい気分に襲われるのは避け難いようです。
思うところあって国際金融業界から早くに足を洗って、勉強し直して今は神父をしている私ですが、教養もプライドもある立派な紳士をつかまえて、不躾にあの世保険のセールストークも気が引けます。
そこへ行くと、あの根っからのベテラン宣教師ホイヴェルス神父様は、たぐいまれな人格的魅力の魔術で、さり気なく人の心を捉え、着実にあの世保険のセールスの成績を伸ばしていかれました。どれほど多くの日本人が、神父さまから信仰の手ほどきを受け洗礼に至ったか、神父に結婚式をあげてもらい、生きる意味を見失って懐疑と絶望の淵に立ったとき再び生きる希望を与えられ、また、犯した罪の重さに潰れそうになったとき、神との和解まで優しく手引きされたことでしょう。
今の平和ボケした日本に、生きることの意味、目的、死の彼方に何が待ち受けているかなどの、人生にとって最も重要な問いに対して何の答えも持っていない人間が多すぎるのは驚きです。魂の盲目、霊的無知の暗闇に住む人は驚くほど多いのです。
そんな世にあって。グッドニュース、「福音」の宣教は全てのキリスト者の使命です。
聖書には全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。あなたがたは「地の塩」、「世の光」である、と書かれています。私たちはみな、現代日本の偉大な宣教師だったホイヴェルス神父様から学んで、今の世代に福音を伝えるように招かれています。
具体的にどうすればいい?どこからどう手をつけたらいい?それを共に学ぶのが「ホイヴェルス師を偲ぶ会」の存在意義ではないでしょうか。
6月9日はもうすぐです。JR四谷駅の麹町口から徒歩1分。主婦会館3F「ソレイユ」の間で午後3時からです。詳細は2つ前、3つ前のブログに出ています。
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注を一つ:ホイヴェルス神父様の「時間の流れに」の中にHochzeit(結婚)という言葉が出てきます。ドイツ語で hoch は「高い」Zeit は「時」という意味です。合わせて Hochzeit = 結婚はドイツ語では人生の最も「高い時」を意味します。
ホイヴェルス随想選集「人生の秋に」春秋社 (1996) に「時間(とき)の流れに」があるので、読み直しました。「怠けていることほど世の中の意味に反するものはないからです。」が印象に残りました。土居健朗・森田明・編「ホイヴェルス神父ー信仰と思想」聖母文庫 (2003) に、神父に聞く(NHK テレビ「宗教の時間」1968 年)聞き手ー戸川敬一・土居健朗、があります。その最後に、ホイヴェルス「確かに時間と永遠は両方認めるべきものです。大ていの人達は半分半分です。時間ばかり考えている人には少し永遠の薬をつけ、また永遠の事ばかり考えている人は、病気になりまして、土居先生の方におくります(笑)。」とあります。今回このことばが上のことばと強く結びつきました。どこかユーモアのようなものも感じます。上の本の<会話から>に、「51 tierisch-ernst, ー「動物のような真面目さ」というドイツ語は日本語の「くそまじめ」にあたる。実際、動物はまじめである。視野が狭く、まわりを見ない。」は、大切な忠告であると感じました。
これからもホイヴェルス神父様の追悼ミサが続けられることと師のことばと流れのようなものが伝えられることを願います。
上記の本にある「神父に聞く(NHK テレビ「宗教の時間」1968 年)聞き手ー戸川敬一・土居健朗」、の中で、土居先生がホイヴェルス神父様は、「・・・、御自分の本当の使命である宣教師であるという事に徹して生きてこれらたわけです。・・・」と話しておられます。そして、「現代は神学者、哲学者はたくさんいますし、宗教家もいるわけですけれども、本当の宣教師が少ないような気がするんです」と話しておられます。
私のいる教区では、例えば聖書を原典で読む講座や、ギリシャ語で読む講座が開かれていることは知っています。素人の素朴な疑問ですが、そのような講座の他に、聖書やイエス様の教えに殆ど触れたことのない人のための会(集まり)は、洗礼のための講座以外あまりないような気がします。
上記の本の<会話から>の 93 から 104 は雨宮慧神父様による聞き書きであるそうです。この<会話から>は、ホイヴェルス神父様最晩年の昭和五十年前後のもののようなので、雨宮神父様が上智大学の学生の頃に聞いたことばかもしれないと思いました。
街中にある大きな教会におられる聖職者の方々が、一般の人と話す時間をもっともてたらよいように思います。聖職者の方が足りないので無理なことなのでしょうか?
ホイヴェルス神父様は何よりも先ず「宣教者」でした。「宣教者」であるホイヴェルス神父様は同時に詩人であり、劇作家であり、文学者、哲学者、etc.であったのです。
わたしたちは、司祭たちに「どうか宣教してください」と懇願するのではなく、私たち信者一人一人が宣教者であることを自覚し、私たち自身ができる範囲で宣教することが必要です。
そのためには、まず、これまで「宣教」とはこんなことと考えられてきたことを「本当に宣教とはそういうことか?」と問い直し、「本当の宣教とはどういうことか?」をあきらかにすること。そして、私たちにも出来る宣教を見つけ、それを果敢に実行することです。
わたしたちは、塩味のする「地の塩」であるか、燭台の上に掲げられた「世の光」として生きているか、の反省から始まります。
私は、それらのチェックをする学校を開きたいと言う衝動に駆られます。ブログもささやかながら、その方向に役立てたいと思います。
「宣教すること」についての助言を深く感謝いたします。以前にも神父様から宣教することについてのことばを頂きましたが、自分のことになっていませんでした。
わたしの考えですが、ユダヤ人は、先祖が全能の神から受け啓示を自分たちの間で徹底的に教え、律法を守ろうとする。
キリスト教の信者は、イエス様がこの地にご降誕されたこと、イエス様から受けた愛のおきてを守ろうとし、イエス様のなされた事とことば、イエス様の御受難と御復活、昇天される際に残された大切なことば、その後使徒たちにおこったこと、をこの地のすべての人に、救われることへの確信と喜びをもって伝えようとする。ミサを続けることも、使徒から受け継いだ大切なこと。
そのことにより、わたしにも福音が伝わったこと。もし福音が本当にわたしのことになっていれるのであれば、わたしは、福音をまわりの人に喜びをもって伝えようとするはずであること。
先入観を捨てて、よく考えます。大切なことばをありがとうございます。
‥返信が欲しいというより、単なるコメントです。スイマセン。
宗教って要するに利他主義を教えているのではないのか?
その上に何か良いものを付け加えることに、最後の晩餐や、贖い主として生まれてきただの、復活しただの、死後がどうの終末がどうのってドグマは役に立っているのか?
その疑問がアタマから離れません。
そして新求道共同体のミサに与ったら分かるとなると、理性でなく体で?感性で?理解せよということでしょうか‥。
理性は捨てられません。
今日の「聖母のみ心(聖心)」の記念日の「教会の祈り」の朝の祈りの短い読書で、II ペトロ 3・13-14 の前後を読みました。このことばは「永遠と時間」に関係していて、また、福音宣教とも関係しているように感じました。12 節に「・・・、それが(神の日)が来るのを早めるようにすべきです。」(新共同訳聖書 1987)とあります。これは、「主の日」はいつ来るかわからないが、突然くるかもしれない。そのため、福音宣教に努め、人々が悔い改めさせられ福音を信じるようにして、自分自身もできるだけ罪を犯さないように警戒して過ごし、神の国を待ち望みなさい、ということのように感じました。待降節の第一木曜日の「時課の典礼(教会の祈り)」の「結びの祈願」とも深く関係しているように感じます。この地での信仰生活が重く問われているように感じます。
M 様、人は心(魂、霊)と身体からなるのではないでしょうか?理性は必要だと思いますが、理性(説明すること)には限界があるように感じます。体の痛みは、まず自分の体を通して覚えていくように思います。心の痛みは自分自身を通して、また苦しんでいる人に出会って覚えていくように感じます。
ホイヴェルス神父ー信仰と思想土居健朗・森田明・編 聖母文庫 (2003)<公教要理から>
16 現在のキリスト教信者は自然によって神を賛美することを忘れてしまったといってよい。
17 存在の不思議についてー
物があれば絶対者があるはずである。物がない方が当然ではないか。
上記の本の<公教要理から>は、昭和二〇年代前期に行われたホイヴェルス神父様の講義の折に土居先生が書きとめておいたノートによるものだそうです。
山崎弁栄上人
如来光明礼拝儀 現代語訳
関谷上人訳
如来様のみこころのままに
どうぞ 天地の大生命がわたしのものとなりますように――。
天地の大生命を身とし心として生きてまします如来様よ。あなたが今ここにおいでになることを信じて、一心におうやまい申しあげます。如来様のみちからとみめぐみによって、わたしはきょうこうしていきいきと働かせてもらうことができます。
このすばらしい如来様のいのちを感じて、わたしのありだけの肉体と、精神を捧げつくして、あなたにおつかえいたします。
どうか、きょう一日、立派にわたしのつとめがはたせますように、お育てくださいませ。
あーコピペしてしまいました。文句言われたら消します。
読んでて、なんか良いなぁーこっちがピッタリくるかもと感じました。
わたしが上のことを書いてからまだ一年弱しかたっていないとは思いもしませんでした。また、ここに帰ってきました。
今日、若い人に瞬間(例えば極限、速度ベクトルのこと)は、本当にあるのでしょうか、と問いかけをしました。数学や理論物理学において、瞬間に幅があったら困りますよね、とも言いました。そして、二千年程前に、ギリシャ人が書いた、「原論」において、点とは、存在するが大きさを持たないもの、と規定され、そのような理想化をして現象を眺めるということがヨーロッパの文明に流れているのではないでしょうか、と話しました。わたしは無知ですから断言は一切しませんでした。上の点の話は、中学校の一年生のときに先生から教わり、いまだにそのことを覚えています。
本当に書きたいことは、先の戦争で、日蓮上人の「末法」の「思想」を自分流に組み立て直して、大陸での暴走をまねいたであろう、ある軍人の方のことです。ある論文で知り、大変驚きました。ただし、その論文によると、その方には迷いがあったそうで、敗戦後は、あっさり持論を撤回されたそうです。その論文だけではわからないことが多すぎるので、その論文の表題を書くことは控えます。知っている人はだれでも知っていることだと思います。ただただ、ホイヴェルス神父様のことばをおもうだけです。「永遠(天の国)」のことばかり観ていると、頭がおかしくなります。・・・。これは NHK の番組でのホイヴェルス神父様のことばです。ときには、Humor は大切だと思います。精神のバランスには。
今年の春にある病院で、長期に入院しておられるある学生の作品を見ました。いくつかの食べ物に関するダジャレがその食べ物の写真とともにありました。また、別の学生は、人参に関する地図(想像の世界の)をかわいらしく書いていました。観ていて、楽しい気持ちになりました。これからもわたしの心に残ると思います。
Deo Gratias.
わたし(新米信徒)が上に書いた、病院で見た作品のことをもう少しだけ書くことをお許しください。
実は、ある方が、ミレイの「オフィーリア (Hamlet の Ophelia)」の模写を油絵で見事に完成させていました。初めて見たときは、大変驚きました。しばらく観て、歩きながら考えました。わたしが以前読んだ本には、死の淵に立たされている人とオフィーリアを対比させて、オフィーリアは、まだ生きている、ということに希望を見出していました。そのことを思い出して、また絵の前に立って、絵を観ました。そして、日をあらためて、絵を観ました。絵のオフィーリアは、遠くをながめ、手を上にあげ、口を開いて、確かに、古い讃歌をうたっているように見えました。シェイクスピアの原文の讃歌の部分は、
Queen ...
"Her clothes spread wide
And, mermaid-like, a while they bore her up;
Which time she chanted snatches of old lauds," ...
わたしは、この「こと」を忘れないと思います。
願わくば、この絵を描かれた方が、希望の光に照らされていますように。もし、まだ御身を賛美できないのであれば、この地のことを賛美されますように。まだ病の中にあるのであれば、病が癒されますように。
Fiat, fiat!
わたしが書いた一連のことは、次の祈りにつながっているように感じます。
「今日という日
わたしの過去、
それがわたしを悩ますことは、もはやない
それはすでに 神の慈しみのうちにある
わたしの将来
それがわたしを悩ますことは、いまだない
それはまだ 神の摂理のうちにある
わたしが心がけねばならないのは、いま、ここ、今日という日
しかし、それも神の恵みのうちにあり
わたしが自分の良き意思を
お捧げすることにかかっている
聖フランシスコ・サレジオ
ドンボスコ社 祈りカード 35
以前、「年間 第 25 主日 A 年」の「使徒パウロのフィリピの教会への手紙 1・20c-24, 27a」を、ミサで、たまたま朗読することになりました。当日、朗読の依頼を受けました。わたしは、事前に朗読箇所を読んでみて、わたしのようなものがこのことばを朗読してよいのだろうか、と躊躇しました。"27a" はみえていませんでした。上の祈りカードの写真には、草原の中の長い道があります。朗読をして、ミサの帰りに、畑の中の道を歩きながら、わたしへの戒めだろうと感じました。そして、たまたま、古くからの信仰の友に出会いました。わたしは相手のことも考えずに、朗読箇所をみせて、また、Liturgia Horarum(教会の祈り)では、日ごとに、此の日のことをおもって唱えているとおもう、という、当時ようやく気付かされたことを相手に話しました。聖フランシスコ・サレジオは、ジュネーブで大変なことを多く経験したようですが、分け隔てなく相手になり、多くの人からの信頼を得ていったことをもう一度知りました。当時(いまもですが)、「愛し合う」ということがほとんどみえていませんでした。
Nova Vulgata
Io 15:12
"Hoc est praeceptum meum, ut diligatis invicem, sicut dilexi vos; "
の "praeceptum" は、カトリック教会での口語訳の聖書では、「掟」と訳されていると思いますが、プロテスタント教会のいくつかの聖書の訳では「戒め」と訳されていました。もしかすると、かなり隔たりがあるのかもしれません。古語では、命(めい)が自然なように思いました。掟、戒め、両方の感じがあるようです。ラゲ訳 (1911) は、「、是我命(これわがめい)なり。」です。わたしの相手をさせられた方には、大変申し訳ないことをしました。ただし、わたしも随分教えられ、少しは学びました。相手のことを知るということは、大切なことだとあらためて教えられました。長文を度々すみません。