2008-04-15 10:06:26
エルサレムの神殿の丘に立つ回教のモスク
★ 回教徒、ついに世界一?
先日、神奈川県のS養老院のボランティア総会にたまたま居合わせました。
一つの養老院に約400人ものボランティアがかかわっているなんて、ついぞ聞いたことがなく、あらためて驚きました。その秘密は、誰でも自由に自分の得意とする分野、好きな分野で、のびのびと奉仕することが出来る、おおらかな雰囲気の賜物だと思いました。
たいていの施設は、ボランティアを募集し受け入れはするが、これは職員にお任せください、あれはしてはいけませんと、とかく制約が多く、ボランティアを単なる都合のいい補助労働力ぐらいにしか考えていないところが多いのではないかと思いました。それが、ここでは、皆が楽しげに、伸び伸び、生き生きと、自分たちの創意と工夫で、自由に、主体的に活動できる余地が広く認められているためなのだろう、と納得しました。ひとえに、院長の器の大きさのなせる業なのかもしれません。
昼下がり、ボランティアの編成するバンドの演奏をBGMに、中庭の椅子に陣取って、ワイングラスを片手に、ボランティアの手作りの豪華な料理に舌鼓を打っていると、遠く北海道からやってきた若いご婦人が、目ざとく私を見つけてそばに座られました。彼女はクリスチャンではないが、私は、彼女の母上に病床の洗礼を授けました。それから数ヶ月して、そのご夫人が帰天されると、戸塚でのお通夜も、ご葬儀も、函館でのお別れの会までも、その司式を全て任されることになったご縁の人でした。
色々なお話の中で、彼女は、「回教徒の人口が、最近世界一になったそうですね。なんだか嫌だわ」と言われました。知らなかったけれど、彼女がどこかで読んだか、テレビで見たかの情報は、多分間違いではないだろうと直感しました。
ずっと長い間、多分中世以来、世界の宗教勢力地図では、カトリックが単独で世界のトップの座を維持してきたはずです。今でも、一口に10億というのが大掴みな数字として通り相場でした。今回、念のためにインターネットで確認すると、現在の世界の主な宗教の勢力地図は以下の通りでした。
ローマカトリック 9億人
プロテスタント 4億人
ギリシャ正教 1.6億人
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(キリスト教合計) (14.6億人)
イスラム教 9億人
ヒンズー教 7億人
仏教 3.3億人
ユダヤ教 0.2億人
若い奥さんの話は、カトリック9億人と、イスラム9億人、という丸い数字の下の端数において、イスラムがついにカトリックを上回ったと言うニュースだったのだろう、と察せられました。これは、回教圏の一家庭あたりの子供の数と、カトリック信者の家庭の平均の子供の数との目だった格差から、当然予想された事態でした。
私の抱いている獏とした印象では、回教、イスラム教は、かなり不寛容な宗教のようです。どこへでも進出していくが、一旦回教一色になった地域・社会では、他の宗教の進出に対して極めて厳しい対応をするのが普通のようです。例えば、教皇のお膝元のローマに大きなモスクの建設が計画されると、ローマ市民の間にはもちろん反対運動も起きましたが、行政が介入して不許可にしたり、弾圧したりすることはありませんでした。
それに対して、回教圏でキリスト教の教会を立てるとなると、これは大変です。不可能でないとしても、それこそ命がけの冒険です。
新訳でカラマーゾフの兄弟を読んでいて、気付いたのですが、ドストエフスキーは、大審問官の話の中で、宗教が平和の妨げになる理由を見事に描き切っているのに舌を巻きました。その限りにおいて、大教団カトリックも、既成世界宗教の一つとして、歴史の現実の例外ではありませんでした。
ところが、今注目しているアメリカのアーミッシュ(これについては近いうちにまとめて書きたいと思っています)の精神によれば、赦すこと、争わないことは、彼らの信じるキリスト教の根本的な土台になっています。本当のキリスト者の特徴は、悪に逆らわないこと、敵を愛すること、無条件に何度でも赦すこと、などであったはずです。そして、もし全てのキリスト者がこの教えに忠実であったら、キリスト教だけは平和の妨げではなく、平和をもたらしうる唯一の宗教になり得たはずでした。
この「赦すこと」の意味内容に関して、ナザレのイエスが教えた「主の祈り」の解釈において、アーミッシュが他のキリスト教と微妙に異なっていることに注目したいと思います。
例えば、日本のカトリックが現在採用している日本語訳では、
「私たちの罪をお赦しください。
私たちも、ひとを赦します。」
となっています。
ところが、古い訳では、
「われらが人に赦すごとく、
われらの罪を赦したまえ」
となっていました。この『人を赦すごとく』の『ごとく』がくせ者です。
イタリア語の主の祈りは、日本語の古い文語訳とニュアンスが同じです。聖書にはなんとあったか、イエスはどう教えたかは、ギリシャ語やアラマイ語を自由に読みこなせない私にはなんとももどかしい限りですが、例えば、アーミッシュの人たちは、何の疑いも無く、神様は「我々がひとを赦す」その同じ「赦し方」でわれわれをお許しになる。だから、神様から赦しを頂きたいその形で、まず先に我々がひとを赦さなければならない、と信じています。
日本のカトリック教会の新しい口語訳では、神は憐み深く、当然のこととして許す神であることを示唆しています。そして、人もなるべく赦すようにすべきものではあるが、神の赦しと、人の赦しの間には、相関関係、乃至は因果関係があるとは考えていないように見えます。まして、人が他者を赦すその赦しの度合いによって、神のその人への赦しの内容が決定付けられるなどとは、夢にも考えていないかのようです。
この問題について、示唆に富んでいるのが、マタイ伝の「仲間を赦さない家来のたとえ話」(マタイ18:23-35)です。
現代風に翻案すると:
抜き打ち監査で、3億円の横領が発覚した経理の係長が社長に呼ばれた。ギャンブルや女遊びにつぎ込んだ、よくある話だった。当然、即時解雇、刑事告発の場面だった。
しかし、必死になって、回心して真面目に働いて必ず全額返済するから、と哀願する係長を哀れに思った仏のような社長は、解雇も告発も思いとどまった。その上、返済もどうせ出来ないだろうからと、それも免除してやった。心を入れ替えて、自分に忠誠を尽くして定年まで真面目に働いてくれたら、それでよしとしたのだった。(現実にはほとんど有り得ない話えすが。)
ところが、赦されたばかりの彼は、社長室を出て乗ったエレベーターの中で、たまたま彼に30万円のマージャンの貸しのある部下を見ると、即刻返せと迫った。必ず返すから、ちょっとだけ待ってくれと哀願する彼を赦さず、腕をヒッ掴んで通りに引きずり出し、彼を殴って脅し、そのまま駅前のサラ金に連行して、有無を言わせず借金をさせ、現金をむしり取った。
そのやり方のあまりの無慈悲さを見かねた別の同僚が、ことの顛末を社長に告げた。
すると、怒った社長は悪い係長を呼びつけ、私がお前にしてやったとおり、お前も同僚にすべきではなかったのか、と言って、前の寛大な措置を全て取り消し、直ちに解雇し、刑事告発した。もちろん、横領罪で実刑、収監と相成った。その上、娘の結婚話は破談になり、妻からは署名捺印したあの独特のピラピラ紙の離婚届けが郵送されてきた。
いささかドギツイ翻案解釈ですが、お許し下さい。しかし聖書の意味には忠実なつもりです。
アーミッシュは、この聖書の物語を真に受け、文字通り自分の生活に当てはめる。謙遜な彼らは、自分がもし今、急に神に召され、審判を受けたら、正義の神の前には申し開きの出来ない罪人だという自覚を持っている。
しかし、彼らは、哀れみ深い神様は、そんな彼らの全ての罪を赦してくださると信じている。ただし、あの無慈悲な男のような態度を取らなければの話であるが・・・・。
アーミッシュは、彼らが隣人に哀れみ深くある限り、哀れみ深い天の御父も彼らの罪を寛大に赦してくださる、と考える。
だから、主の祈りの箇所も、
「見てください、私は隣人の罪をこのように寛大にゆるしました。ですから、私が隣人の罪を赦したのと同じように、どうか私の罪を赦してください」と読み込む。
自分がひとを裁いたのと同じ物差しで、神は私を裁かれる。だから、もっとも寛大な方法で、大急ぎで人を赦す。神が急いで私を赦してくださるために・・・。
全てのキリスト者がアーミッシュと同じモラルを身につけていたら、キリスト教だけは平和をもたらす宗教、戦争の種をばら撒かない宗教になれるはずだった。だが、現実は・・・・?
(大いに書き足りないのですが、一回分のブログにはもう十分長いので、一息入れて別の機会に結論めいたことを書きたいと思います)