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友への手紙
ー インドの旅から ー
第17信 クリスマラ・アシュラム(十字架の丘の僧団)
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聖体大会の終わった後、エローラとアジャンタの巨大な石窟僧院を見に行った。これらは、仏教のほかヒンズー教やジャイナ教をも含む古代インドの修道者たちが、雨期に共同生活を営んだところである。
アジャンタの石窟壁画
それから船でゴアへ下った。ゴアに来ると、人はインド洋と暗黒の大陸を越えて、遠い彼方のポルトガルに運び去られたような気がする。
今は亡きネルー首相が、生涯にただ一度兵を進めたのはこのゴアに対してであったが、ポルトガルの植民地からインドに帰属した後も、そこは相変わらず全く異質な雰囲気を保っている。
オールドゴアの中心にある古い聖堂では、聖フランシスコ・ザビエルの遺骸が教皇の訪印に合わせてか、巡礼のために開帳されていた。時期的に少し遅かったせいか、大聖堂の中はガランとして人気が少なかった。
ザビエルの遺骸のあるボム・ジェズス教会
奇跡で名高い右腕を切り取られたままの聖人の体は、銀細工に縁どられたガラスの箱の中に横たわっていた。あちこちの博物館で見慣れたミイラにくらべれば、確かに非常に保存状態がいいと言わなければならない。しかし、ぼくはただこれが本物だと言う思いの外は、少しも感情の波立ちを覚えなかった。自分はたぶん、人並み外れて信心の薄い冷淡な人間なのかもしれない。
4、5日ゴアの若い家族のもとで体を休めさせてもらい、椰子の浜辺で水泳を楽しんだのち、空路マンガロールへ下り、さらに汽車でコーチンへ向かった。コーチンはこの旅で唯一二度訪れた場所だ。
今回も、バスを3つも乗り継いで、丸一日かけて、ゾウやトラの棲む原始林を通った。客を乗せたままでは重すぎて渡れぬ木の橋へさしかかると、みんな降りてバナナをかじりながらのんびり歩いて渡った。
バスを降りて橋を渡る
高原のを過ぎると、やがて急峻な山岳地帯に入る。よくもまあこんなところに道を、と思うような固い岩の断崖に、背筋の寒くなるような道が一本刻まれている。さすがはインドは大国だ。とんでもないところで意味を解しかねるような大工事に惜しげもなく金を注ぎ込んでいる。
やがて、ヒマラヤ以南では一番高い山々の峰近くにたどり着く。そこには低い石の柱が二本ポツンと立っていて、クリスマラ・アシュラムと書いてあった。十字架の丘の僧団と言う意味である。
丸坊主に真っ白の髭をのばし、黄衣の肩からズタ袋を下げた隠修士が一人、同じバスを降りた。クリゾストムというジャコバイ(ヤコブ教会ともいう古代教会以来の一宗派)に改宗し、この僧団に加わった人である。
クリゾストム修道士
二人は夕暮れの丘をゆっくりと登って行った。灯がポツンと見える。老修士は其方へ道を外れて行った。僕もそれに従う。
竹組みの上に椰子の葉を編んで置いただけの粗末な小屋と、そのそばには建築中のしゃれた山小屋風のものがあった。灯はその掘っ立て小屋の隙間から漏れていた。
表からのぞき込むと、額の高いやせた紳士が現れた。英国人の牧師さんである。そして医者でインド人の夫人に2人の可愛いい子供たち。奥には牧師さんの老いた母親もいた。
手作りのパンとジャムとしぼりたてのミルクで夕食を共にさせてもらった。
老修士と牧師さんは親しげに話し合っている。一家は中印国境紛争の難をのがれて、ヒマラヤからここへ医療伝道の拠点を移してきたばかりであった。話のあいだ中、混血の姉弟がとても可愛く仲が良かった。
楽しいひと時を終えて別れると、二人は道を急いだ。僧院ではちょうど聖務の晩の祈りが歌われていた。シリア的な神秘な美しいメロディーが僕の心をたちまちにして捕えた。
次の日、朝霧が晴れてゆくと、広い僧院の全景が浮かび上がってきた。浅い谷ひとつへだてて青黒い岩山が高くそびえる。これがクリスマラ(十字架の丘)である。ずっと昔からこの山は霊山として土地の古いキリスト教徒をはじめ、ヒンズー教徒や回教徒にまでも巡礼の対象とされてきた。クリスマラの名の由来は、大昔、インドにやってきた無名の僧侶が、人跡まれなこの山の頂に、大きな十字架を押し立てて行ったことによるらしい。
クリスマラアシュラムのスケッチ
数年前にローマ教皇の特別の赦しを得てここに全く新しいタイプの僧院が建てられたとき、修道士たちは自分たちを十字架の丘の僧団(クリスマラアシュラム)と呼んだ。元ベネディクト会系だった二人のヨーロッパ人の修道士が指導するこの僧院は、クリゾストム修士をはじめ何人ものインド人修道士と共に、ヴェーダ時代以来の古い隠遁者たちの生活を実践している。黄衣をまとい、床に座して瞑想し、精進もの以外を食せず、シリアの典礼に従い、きびしい修行に励んでいる。彼らは、インドの伝統的精神文化にキリスト教的生命を受肉させようとしているのである。彼らは、こうしたキリスト教の土着化の努力を通じて教会全体に独自の貢献をしようとしている。
彼らはこの清らかな大自然の中で、荒野を開墾し、耕作し、牛を追い、そして神への賛美を歌い上げるかたわら、教会一致のためにも働いている。
1世紀ごろから布教が始まり、孤立して次第に分離していった教会が、ラテン臭の強いローマに対して反発を感じるのは無理もない。このような新しい僧団の果実が、無用の抵抗なしに教会の一致融合を可能にする。
典礼に関しても彼らはカトリックとして、東方典礼の価値を実践的に再評価している。
唯一の隣家である牧師さん一家が、ほかならぬこの場所に引き付けられてきたのも、実は偶然ではなかったのである。
やがてクリスマスの日がやってきた。夜中の3時、星空のもと、神秘な静けさのうちに主の降誕の祝いが始まった。いつの間にか、そしてどこからともなく、たくさんの貧しい山の住民たちが集まっていた。そのなかの多くは、普段は牧師夫人のところへ薬をもらいに来る人々に違いない。やがて、彼らは長い詩編を土地の言葉で美しく交唱しはじめた。
降誕の物語を歌い終わると、みなは聖堂を出て、星を宿した夜露を踏んで、ひんやりとした大気の中へ行列を繰り出す。司祭のささげ持つ十字架の前後に、修道士や土地の男女がつき従う。
聖堂裏手の草原に集めた薪に火が入ると、輪を描いて立つ人々の顔が明るく浮かび上がる。牧師さん一家の顔も見える。
やがて、みんなして火のまわりを廻りはじめる。十字架をかざした司祭がまわり、黄衣の修道士たちと会衆全体がまわる。みんな手に手に香の粒をもらい、それを火に投げ入れながら踊るようにしてまわる。影絵を見る思いがした。不思議な沈黙が、聖夜の清らかな空気に縁どられた夢の動きを一層神秘的にした。
聖堂にもどって典礼が続けられる。アポロンの賛歌や、真言の声明(しょうみょう)と妙に通じるところのあるインド化されたシリアのメロディーは、即興的な装飾音に彩られてとても美しい。それは、ローマ的な合理的聖歌よりずっと親しく懐かしい響きであった。
こうして、いつしか東の空が白み、クリスマスの夜は明けた。
十字架の丘の僧団。それは最も伝統的、古典的で、しかもまた、最も現代的である。
インドには、このほかにもいろいろな修道会が創立されている。中でも、バンガロール市に修練院を持つカルメル会の一派は、創立以来長い潜伏期を経て、今爆発的発展を遂げている。バンガロールでは修練者の数だけで200人を数え、聖体大会中、叙階された司祭の多くはこの会に属するものであった。マザーテレサの会をはじめ、女子の会もまた多く創立された。そしてこうした雰囲気の中から、多くの隠れた聖人が生まれ、人々の心に懐かしく記憶されていくのである。
日本の教会は、プロテスタントを合わせても、100万に満たない。これではインドにおけるように民族的霊性の結晶としての新しい修道運動を醸成するには、母胎として不十分であるかもしれない。
しかし、もし日本の教会がキリストの神秘体の全体に対して、真に個性的な貢献をしようとすれば、当然、その精神的運動の中核として、新しい理念に導かれた修道会も生まれてくるに違いない。僕たちは、今からその来るべき日のために道を整えておかねばならないのではあるまいか。
伝承によれば、キリスト教のインドへの伝道は1世紀、キリストの12使徒の一人聖トマに遡る。聖トマはインドの南西のマドラス(今のチェンナイ)で殉教している。私はその殉教の丘の教会にも詣でた。それに比べたら、日本の教会なんと歴史の浅い新しいものだろう。
あと2-3回でこのインドの旅もおしまいです。