:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」総集編 (9)田川批判ー2

2022-01-31 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~~

私の「インドの旅」総集編 

(9)田川批判-2

~~~~~~~~~~~~~~~~

 

あらためて田川建三先生を紹介します

 私は、田川建三という人が、日本の卓越した新約聖書学者者であり、宗教批判を通じて現代批判を試みた優れた著述家だと言うことを知った。

 新約聖書学者であるということは、新約聖書を、文献学的的方法や言語学、考古学等の人文科学的な方法を用いて、原初期の聖書とキリスト教に迫ろうとするものであろう。

 1935年東京生まれは私より4つ年上だから、今87才のはずだ。東京大学大学院西洋古典学科で学び、博士課程3年目の夏にストラスブール大学に留学。1965年に宗教学博士の学位を取得。以来、国際基督教大学で講師を勤めていたが、1970年4月に礼拝のとき講壇から「神は存在しない」「存在しない神に祈る」と説教したこともあってか、「造反教官」として追放されたと言われている。

 田川先生の履歴には、1972年から1974年にゲッティンゲン大学神学部専任講師をしていたとあったが、私もちょうどそのころ、ドイツの銀行に勤めながらゲッティンゲンの中世の古城に置かれたゲーテインスティテュートに住み込んで、ドイツ語の研鑽に励んでいた。東西ドイツの境界線に近い、あの美しい街で、若かった田川先生と、同じく若かった私が、同時に同じ空気を呼吸していた奇遇を思うと、不思議な親近感を覚える。

 20冊を超える膨大な著作の中には、代表作として『新約聖書 訳と註』(全7巻8冊)や『イエスという男 ――逆説的反抗者の生と死――』などがあるが、私は、現在古書マーケットでも手に入りにくい『宗教とは何か』(1984年大和書房)という先生49歳の頃の著作以外はまだ読んでいなかったので、先生について語る以上、せめてものアリバイにと、急いで「新約聖書(訳と注)の第1巻を、ネット通販で注文したのが、十日ほど前に届いた。

 読み進むうちに、その素晴らしさに圧倒された。カトリック神父を名乗る私は、これを全巻座右に置かねば嘘だ、とさえ思った。そして、聖書学の土俵の上では、田川先生を批判する資格など私には全くないこともあらためて深く納得した。

 しかし、「宗教とは何か」の中で遠藤周作批判にめぐり逢って共感し、田川建三という人物に興味を抱き、手探りしているうちに、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、『神とは人間がでっちあげた』ものなので、『神を信じないクリスチャン』こそが真のクリスチャンである」という言葉に接して、つい、ひと言申し述べてみたい思いに駆られた。

 それは、そんな言葉はカトリック信者の口からはまず聞けないだろうな、という素朴な思いとともに、世にこんなに興味深い人物がいたのかという驚きと感動を、まだ彼を知らない人に是非知ってもらいたいという思いもあったからだ。

 東京大学の博士課程から、ストラスブール大学に留学。ドイツの大学でも日本の複数の大学でも講壇に立ち、90才近い今もご健在のようだが、カトリックの遠藤周作のような、いい加減な、不勉強な、ふざけたイデオローグとは異なり、まじめな学究肌で、それだけに、一般社会では遠藤のように広く知られたマスコミの寵児ではないところが、また魅力だ。

 

最初の疑問

 では、よりにもよってその頭脳明晰で博学な新約聖書の超専門家が、なぜ、平凡で取り柄のない私から見ても、全くあり得ないような馬鹿馬鹿しいたわごと、すなわち、「神とは人間がでっちあげたもの」、とか、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」である、とか、本当の「クリスチャン」は「神を信じないクリスチャン」だ、などと言われるのだろうか。意味内容が混乱・矛盾していて、正常な理性にインプットすれば必ずエラー信号が出るようなフレーズを、平然と口から吐く田川先生は、どこかが狂っているのではないかとさえ思った。それは、もちろん、田川先生が言う「神」と私が信じている「神」が同じものを指している、と仮定してのことだが・・・。 

 田川さん、あなたは聖書学の博識を駆使して、遠藤周作のいかがわしさを完膚なきまでにこき下ろして、私を共感で満たした。そして、そのあなたは、遠藤のキリスト像を、「お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、『だめ』な自分は『だめ』なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない」と批判した。また、別のコンテクストでは、宗教学者エリアデを「怪しからんいい加減な学者」と呼び、「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると、勘違いしているのです。」と決めつけた。さらに、「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。」そしてまた、「学問的作業の恐ろしさは、出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」とも批判された。私も、まあ、それはそうだろうな、と同感する。(私はこういう独特の語り口に「田川節」という名を献じたい。)

 しかし、あなたの言っている意味不明のたわごとは、あなた自身の言葉を借りて言えば、「目くそが鼻くそを笑う類いでございまして」、あなたは実は遠藤やエリアデと同根の仲間のくせに、自分のことを棚に上げて「相手の悪口を言っているという構図になるわけです」と、つい私は噛みつきたくなる。 

 田川先生は「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると、勘違いしているのです。」といわれたが、その言葉は、そのまま先生ご自身の上に還ってこないでしょうか。世の宗教学者の先生方は、象徴にすぎない神々が、あたかも実在であるかのごとくに勘違いしているようだが、宗教現象をキリスト教も含めて「宗教」という抽象概念でひとくくりにして、一旦そういう前提を受け容れてしまえば、確かに話は全く違ってきます。 

 つまり、もしキリスト教の神も歴史の中に現れた象徴の一つにすぎないと考えれば、他の神々と同列に置かれても文句を言えないし、「神とは人間がでっちあげたもの」、とか、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」である、と言う主張は、文字通り全く正しいと言わざるを得なくなるからです。

 そのかわり、あなたが批判した遠藤やエリアデとともに、彼らを批判しているあなた自身も、三者三様に、書斎の中の観念の世界で宗教や神を論る、ずぶずぶの観念の亡者になってしまわないでしょうか。

 

悲しき雀 

 実は、この点をもう少し掘り下げるために、私は先に「インドの旅総集編(8)のホイヴェルス師の「悲しき雀」を書いておきました。

 ホイヴェルス神父様の可愛い小鳥ちゃんは、豆粒ほどの脳みそで鏡に映った自分の姿が虚像であることにたやすく気付き、象徴(鏡の中に移った小鳥)と実在(生きている鳥自身)の区別を見破ることができたのに、生物の中で最大の脳みそを誇る人間の、しかも頭脳明晰な哲学者が、存在とその象徴の違いをなかなか悟ろうとしないことを、ホイヴェルス師は、ちょっと皮肉を込めて指摘されたのでした。

 それは何も哲学者に限ったことではありません。文学者も、宗教学者も、聖書学者も、およそ学者先生と呼ばれる人種は、「実在」とその「象徴」、「実物」とその「映像」、「食える餅」と「絵に描いた餅」、の区別をつけることが出来ない存在論的音痴、認識論的色盲ではないかと疑わしいのです。

 ここまで考えを進めたとき、ふとパウロの書簡の一節を思い出しました。

 曰く:「私は知恵あるものの知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1コリント19―24)

 ここでパウロが言っている神は、勿論、書斎の観念論者の象徴としての「神」ではなく、生けるまことの神、自分の名は「わたしはある」である、とみずから名乗り出た天地万物の創造主、自然の中にはいない「超越神」のことです。

 田川先生は、失礼ながら、パウロが言った「学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」の「学者」「この世の論客」に該当し、カトリック神父の私はパウロの意味での神を信じ、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」としている田舎者だ、ということです。

 私の素朴な常識からすると、「神は存在しない」とか、「神とは人間がでっちあげたもの」とか、さらに「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」であるとかは、全くお話にならない馬鹿馬鹿しいたわごとに過ぎませんが、もし田川先生が仮象(シャイン)と実在(ザイン)を混同して、もっぱら「表象としての神」についてのみ語っているのだと考えれば、私はそれらの「妄言」を(同情をこめて)よく理解することができるのです。

 なぜなら、田川先生は私が「インドの旅」総集編(3)「自然宗教発生のメカニズム」で考察したことと全く同じことを言っておられるに過ぎないからです。つまり、自然宗教の神々は、まさしく「人間がでっちあげたもの」であり、でっちあげの「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」であり、本当の「クリスチャンはそのような神を信じないクリスチャン」だと言うことは、私自身がすでにわかりやすく説明しておいたことに他ならないからです。

 それに対して、「わたしはある」の神を宣べ伝える「宣教の立場」からすれば、田川先生のお説はやはり全くおかしい、完全に狂っている、馬鹿馬鹿しい妄言だ、と言わざるを得ません。

 聖パウロによれば、世は、――つまり学者も、先生も、従って、田川建三もエリアデも、だいぶ落ちるが遠藤周作も――もともと「自分の知恵で神を知ることができない」部類の人たちなのです。なぜなら、彼らが対象としている世界は、この被造物界、自然宗教の世界だけであり、しかも、それを抽象概念化して見るみるかぎりにおいてのことであって、全ては「絵に描いた餅」「ポスターに印刷された火の写真」の類いに過ぎず、「食える餅」でも、「タバコに火がつく燃える炎」でもないからです。

 それだけではない、「食える餅」も「絵に描いた餅」も「学者先生の脳みそ」も、すべて自然の一部を構成し、キリスト教も一緒くたにひとくくりにした「宗教」もその「神々」も、それらを論じている「宗教学者自身」も自然の中に含まれ、主客ともども一切合切が「自然というコップ」の中にあり、すべての議論はそも「コップの中の嵐」にすぎないのに対して、「わたしはある」と名乗る生ける神は、そのコップの中のどこを探しても見つからないもの、自然の総体であるコップの埒外に泰然と生きている神、つまり、「超自然の神」なのです。

 田川先生のような優れた宗教学の知性をもってしても、「わたしはある」を見出すのは、せいぜい聖書という書物の中に言語化された単なる「表象としての『わたしはある』」までであって、いくらそれを腑分けしても、その腑分け作業自体がガラスのコップの中のさざ波に過ぎず、パウロが言うように、自分の知恵では「コップの外にいる神」に触れることも知ることもできないのです。

 

問題の所在

 それでも、田川先生は、「啓示宗教」であり、「超自然宗教」であると自称するキリスト教も、所詮は同じ「宗教」のカテゴリーに含まれるものであって、結局はキリスト教の神を信じるのも、自然宗教を信じるのも「神を想像する偶像崇拝」にほかならない、と反論されるかもしれません。

 その点は確かに私のアキレス腱です。そう言われてしまうと、私には強く反論することが出来ない弱みがある。それは、キリスト教徒の圧倒的多数は自然宗教のメンタリティーで神を信じている、という紛れもない現実があるからです。そして、その面だけに注目すれば、田川先生の自然宗教否定、従って、神否定は、そのままキリスト教否定にもつながらざるを得ないような気がします。

 この問題は、今回の「インドの旅」総集編(5)《「超自然宗教」の「自然宗教化」》の中ですでに詳しく述べたので敢えて繰り返すつもりはないが、要約すれば、次のような話です。

 今日のキリスト教諸派の共通のルーツである初代教会は、4世紀初頭までは、「わたしはある」と名乗る生ける超自然の神を信じ、回心して福音の原初の教えに忠実であろうと務めていました。ところが、312年にコンスタンチン大帝がキリスト教を帝国の国教扱いにして以来、ローマ帝国の版図はあっという間にキリスト教一色に塗り替えられていったのです。なぜなら、洗礼を受けて一斉に教会になだれ込んできた大衆は、ギリシャローマの神々を拝んできた自然宗教の信者たちで、イエスが求めた「福音的回心」などお構いなしに、「わたしはある」の生ける超自然の神が何であるかもさっぱりわからず、もとの偶像崇拝のメンタリティーのまま、名前だけキリスト教徒になって教会を満杯にしたからです。そして、そのようなずさんな入信の形態は今日のキリスト教会にまで及んでいます。だから、圧倒的多数のキリスト教徒は、「超自然宗教のキリスト教」と「自然宗教化したキリスト教」との間に横たわる天と地ほどのへだたり、水と油のような相容れなさを知らず、自分が「自然宗教版キリスト教徒」であると言う自覚さえないのです。

 聖パウロに言わせれば、世は、――つまり学者も、この世の論客も、従って、田川先生もエリアデも、大分落ちるが遠藤周作も――、「自分の知恵で神を知ることができない」のです。だから、批判的聖書学者であり、書斎の研究者である田川先生の目には、「わたしはあるの生ける神」は見えていないし、見えるはずもないと私は考えています。

 ホイヴェルス神父様の可愛い雀ちゃんは、生きて躍動している小鳥と鏡の中の虚像の小鳥との間の違いをたやすく理解したのに、哲学者、先生方は、どうしてその違いが分からないのか、と不思議でなりません。学者先生という人種は、およそ虚像の世界にしか関心がなく、実像としての「わたしはある」の神を見たことも触れたこともないだけでなく、その存在など夢想だにできない盲人たちなのかもしれません。

 わたしは、中学生のとき神戸のミッションスクールでお人よしで頑固者のドイツ人のクノール神父さんから洗礼を受けたが、そのとき受けた信仰教育、そして恐らく少年遠藤周作が芦屋教会の神父さんから受けた信仰入門の話は、初代教会が入信希望者に求めた徹底的「回心」にははるかに及ばなかったのは当たり前のことでしょう。私がこの問題と真面目に向き合うようになったのは、やっと50才になってからのころのことでした。

 田川先生が、少年期までに自然宗教バージョンの洗礼を経てプロテスタントの信者になられたのかどうか知りません。しかし、先生が学者として研究の対象とされたのが「自然宗教としてのキリスト教」だったとしたら、たとえ研究の過程で「啓示宗教」とか「超自然宗教」とかいう概念に出会われても、それらは文字の世界の象徴(鏡に映った小鳥)であり、「わたしはあるの神」の命のない抜け殻にすぎなかったに違いないのです。

 人間は、交差点で物陰から突然飛び出してきた車にはねられて事故に巻き込まれたた時のような圧倒的な現実感をもって「生きている『わたしはある』の神」と遭遇しない限り、学問的研究の成果としてそれに到達することは永久にないと思います。

 たとえば、現代のロゼッタストーンのように、聖書をデータ化したチップをロケットに積んで打ち上げ、たまたま、人間かそれ以上の知的宇宙人に拾われ解読されたとしても、「自然宗教」という「象徴」が地球にあることは理解できても、「わたしはある」の生ける神に対する「信仰」がその星で芽生えることは絶対にないと断言できます。(もっとも、この仮定は無意味です。なぜなら、地球の他に人間と同等以上の知的生物など存在しえないからです。それは、「わたしはある」の神のメンタリティーに調和しません。)

 

「ケリグマ=福音の告知」の必要性

 聖パウロの書簡には、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)とあります。

 パウロの「宣教」の立場から見ると、景色はまた一変します。人は、超自然宗教の信仰を生きている宣教者の肉声によるケリグマ(福音の告知)を自分の耳で直接聞かなければ、超自然宗教の「わたしはある」と鉢合わせすることはない。もっと突きつめて言えば、「生ける神」自身がケリグマを告げる人の口を借りて人に語りかける時以外、誰もその神に出会うことが出来ないのです。

 それは、人間の知恵から湧いてくるものではなく、告げる人の口から告げられる人の耳へ、そして告げられた人の口からそれを聴く人の耳へ、途切れることなく、人から人へ受け継がれるものだからです。

 わたしがまだ若かっらた頃の座禅のお師匠様、澤木興道老師は、達磨大師から道元禅師まで、そして道元禅師からご自身まで、師からその弟子、その弟子から弟子の弟子へと綿々と続いた師弟の系図を、読経のごとく朗々と毎日唱えられました。それは、座禅の奥義が人から人へ、得度・授戒を通して途切れることなく伝えられたものであることの大切さを物語っています。

 「超自然宗教」においても同じで、ケリグマは「わたしはある」と言う名の生ける神から太祖アブラハムへ、アブラハムからイザクへ、イザクからヤコブを経て綿々と受け継がれてダビデの子孫イエスまで、さらに、イエスからその弟子たちの福音宣教という愚かな手段を通して途切れなく、最後には私の如き貧しい信者にまで伝えられてきた秘伝なのです。そして、その秘伝を宣教という愚かな手段に託して次の世代に受け渡していく責任と義務は、すべてのキリスト者に負わされています。

 田川先生にも、エリアデにも、遠藤にも、この出会いはまだ訪れなかったのだと思います。人は、ケリグマ(福音の告知)を聴く機会にめぐり逢う時、超自然宗教への招きに応えて「回心」するか、回心しないで自然宗教のままに残るかを自由に選ぶ決断を迫られることになるでしょう。信仰が人の心に受肉するかしないかの、決定的、神秘的瞬間がそこにあります。

 田川先生は、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝である」と言われたが、まさにその通り、現代社会では自然宗教の神は一切のヴェールをかなぐり捨てて、「マンモンの神」即ち「お金の神様」としての本性を露わにし、世界中の人々を奴隷状態に陥れています。

 今日ほど回心して「わたしはある」の超自然の神に帰依することが必要とされている時代はないでしょう。

 私はキコの書いた《「ケリグマ」(福音の告知)》(谷口幸紀訳・フリープレス社)と題する一冊を翻訳しました。この問題の答えを見出す一助として、是非読まれることをお薦めしたいと思います。

 

(ネット書籍通販で1000円+税で手に入ります。)

 

 

コメント (52)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ★ 私の「インドの旅」 総集... | トップ | ★ 友への手紙「インドの旅か... »
最新の画像もっと見る

52 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
イエスさまの奇跡 (新米信徒)
2024-10-05 00:25:12
谷口神父さま 

「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教 イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭ニコライ 小野成信 [訳] 教友社 (2021) 」,の,二人の目の見えない人の治癒(五旬祭第 7 主日,マトフェイ 9 章 27-35 節)を読み,
時間はかかりましたが,いつものように我が事として問いかけられているように感じて,不思議なことだと感じます.イイススの奇跡がこの地では人の自由意志によって却って妨げになってしまったことを感じます.「然(シカ)レドモ彼等(カレラ)出(イ)デテ,其名(ソノナ)ヲ遍(アマネ)ク其地(ソノチ)に揚(ア)ゲタリ.」 日本正教会の日本語訳(1901)の,マトフェイニ因ル聖福音 第九章 三十一からの引用.上記の書には,「彼らは,自身が奇跡に驚愕したために,その奇跡について言い広めたのでしょう.」,とあります.cf. p. 277. 驚愕しない人はいないのではないでしょうか.恐れ(畏れに非ず)にもつながりかねないと思います.それは自由意志による
のではないでしょうか.

また,岩下神父さまの「信仰の遺産 吉満義彦(先生)編 岩波書店(2015)」所収の論文
「成義の信仰と恩寵の意識(昭和 15 年 『カトリック研究』第二十巻第五号)」から,ここに続くイエス様の強い戒めは,神様の予知と自由意志そして予定と深く関わっているように感じました.わたしは,人の自由意志にも強く委ねられていたであろうことを感じます.今まで殆ど感じませんでしたが,新約聖書から人の自由意志とその重さを感じます.岩下神父さまの上記の論文の最後は,
「・・・.『神の予知は,悪を強いて之を避くることを得ざるが如き必然性を如何なる罪人にも課するものに非ず,されど罪人が己れが意志を以て将来為すべき事を,その行わるる以前に,神は全能不変の稜威を以て (ex sua omni potenti et incommutabili majestate) 予知し給うなり(七)』. ・・・.この確信に基づいてカトリック教会は,宗教改革当時の謬論に対して勇敢に『ユダの裏切りはパウロの召命と同様に神の自らなし給える業なり』と主張する論者に,破門を宣告したのである.(八)」cf. pp. 352-353. (七)は Denz., no. 321. (八)は,Conc. Tridentinum. Canones de justificatione, Canon 6. Denz., no. 816. (七)は Concilium Valentinum. Denz., no. 321 のことではないかと思いますが,Denz. は Heinrich Joseph Dominicus Denzinger によるカトリック教会のドグマに関する本のことでしょうか? 無知故わかりません.
返信する
証言 (新米信徒)
2024-09-06 10:10:47
谷口神父さま

上記のシュメーマン神父の著書の 「第 6 章 死をもって死を滅ぼし」 に、本来当たり前であったはずのことがあると思いますので、もう少しだけ引用することをお許しください。

3
「・・・。『この世では』キリストの復活は『客観的な事実』とはなり得ません。(ヨハネ 20・14、ヨハネ 21・4、ルカ 24・16 からの引用の後)復活の説教はこの世にとっては依然として『馬鹿げた』ことであり続けています。それもそのはず、クリスチャン自身でさえ、復活を実際上キリスト教以前の霊魂の不滅の教義に矮小化して
言い抜けようとしている始末です。もし復活の教義がただの教義に止まるなら、もし『あの世』での神秘として『将来起きること』としてのみ信じられているなら、『あの世』についての他のいくつかの教義と本質的に変わらないものとなり、それらと容易に混同されてしまいます。霊魂の不滅であっても体の復活であっても、教義であるなら私とは何の関係もありません。・・・。弟子たちがよみがえった主に出会ったときの『大きな喜び』、エンマウスへの途上で弟子たちが経験した『心の燃え立ち』(ルカ 24・32)は、『あの世』の神秘が彼等に
示されたからではなく、彼等が主を見たからなのです。宣教へと主に遣わされた弟子たちは、死者の復活ではなく、すなわち死の教義ではなく、悔い改めれば罪が赦されること、新たなるいのち、神の国を伝えました。彼等は自ら知ったこと、キリストにあって新たなるいのちが始まったこと、キリストが永遠のいのちであり、成就であり、復活であり、この世の喜びであることを宣言したのです。」 cf. pp. 149-150. 上の「知る」は、古語のみるに近いように感じます。

上記のキコ先生の本の「バラックで ー キコ・アルグエヨの証言」の、信仰入門教育の手引き カテケージスの誕生、に、「・・・。また、あの女性がただ一つ聞くに値することとして聞きたかったのも、死んで復活した人を私が見たかどうか、死のあとの命が存在することを示す何か、本当にそれを証明する何か、だけだった。『あなたは復活した人を見たのですか? そうでないなら、聞く気はありません。お説教はいりません。」 、とあります。cf. p. 41. ここで、あの女性とは、キコ先生が当時住み着いたバラックの小屋の近所に住んでいたジブシーたちの中のある女性。「新求道期間の道」の公式 site によると、キコ先生がバラックの小屋に住み始めたのは 1964 年頃だそうです。シュメーマン神父の本の初版は 1963 年。時期が大変近く、不思議な気がします。
返信する
この世の善さと悪 (新米信徒)
2024-09-03 21:05:34
谷口神父さま 

わたし(新米信徒)が 8/21, 8/24, 8/30 に上のコメントに引用いたしましたシュメーマン神父の著書の「第 6 章 死をもって死を滅ぼし」を読んで少し戸惑ったことばがありましたが、この書のまえがきを読み直して、「たんなる頭でっかちの思弁」からは程遠いことからくるものであることがわかりました。第 6 章に、キリスト教の信仰の立脚点は、「『信心』ではなく『愛』です。」、「・・・。しかし『愛はいつまでも絶えることがない』のです。」(コリント前書 13・8-9)とあります。cf. p. 148.

まえがき 
「・・・。
 主題は『世俗主義』です。世俗主義は、キリスト教文化を形作ったキリスト教的『世界観』とその体験からの進行的かつ急速な乖離、さらにそこから起こるキリスト教界自体の深刻な両極化を意味します。たしかに、キリスト教の最も良質の史的果実として世俗主義を歓迎する人々がいる一方、ほとんどマニ教的にこの世を拒絶するあまり、神が人となったことへ少しも関心を寄せない二元論的な『霊性』へ逃避することを正当化する人々もいます。教会をこの世とその諸問題への関心に還元してしまう人々と、黙示録的な陰鬱さで、この世を邪悪で病的な快楽の場とみなすだけの人々へと両極化してしまったのです。
 私は確信を持って言いますが、どちらの態度も正教会の真正な伝統の全体性と公同性を歪めてしまいます。正教会は常に、その『いのち』のために神が独(ひと)り子(ご)をお与えになったこの世の『善さ』と、この世が免れることができない『悪』をともにはっきり
言明します。・・・
 真に問われなければならないのは、どうすれば信仰と生活と
行動において、この一見矛盾している教会の二つの言明をともに保つことができるか、またどうすれば、これらの一方だけを『絶対視』する誘惑を克服し、かって何度もキリスト教を悩ました悪しき選択、ないしは『異端』に陥ることを防ぐことができるかということです。
 答えは、巧妙な知的理論からではなく、結局は生きた破られざる教会体験から出されると私は確信しています。・・・」
cf. pp. 4-5.

今も大切なことであるように感じます。ホイヴェルス神父さまのことばも思い出しました。
返信する
引用回数 (新米信徒)
2024-08-31 10:41:52
谷口神父さま 

「毎日の読書 第二朗読」の聖アウグスチヌス司教のことばの引用回数ですが、10回(1)、7 回 (2)、9 回 (3)、8 回 (4)、10 回 (5)、8 回 (6)、18 回 (7)、14 回 (8)、3 回 (9) の合計 87 回。括弧の中は巻数。少し数え間違いがあるかもしれませんが、圧倒的に多いです。不確かな記憶にたより、すみませんでした。
返信する
回復しわかち合う (新米信徒)
2024-08-30 01:35:29
谷口神父さま 

次のことばは神父さまのよく知っておられる共同体のことと
関係していると思われますので、大変長い引用をお許しください。

「世のいのちのために 正教会のサクラメントと信仰 アレクサンドル・シュメーマン(神父) 日本正教会 司祭 松島雄一 訳 新教出版社(2003) 1973 年の改訂版の翻訳」の、まえがきによると、この書は、1963 年、オハイオ州で全国キリスト教学生連盟の四年に一度の大会が開かれるに際し「学びの手引き」として書かれたものだそうです。キリスト教伝道についての討論のために、ということが目的だったそうです。

「第 7 章 あなたがたは、これらの事の証人である」がこの書の中心であるように感じます。最後の章です。

2
「・・・。福音書に、そしてキリスト教の伝える一切に、聖人たちの体験と奉神礼の祈りの言葉一つ一つに『正直』であるなら、正反対のことが求められます。この世のいっさいを、神の啓示として、神の臨在のしるしとして、キリストの到来の喜びとして、キリストとの交わりへの招きとして、キリストの内に完成される希望として見いだし、この世を生きなければなりません。五旬節(ペンテコステ)の日以来、すべてのものの上に聖神の証印が押され、光線がさし、しるしがあります。それはキリストを信じ、キリストは『世のいのち』であることを知る者、またキリストにあって
この世はその全体を奉神礼へと、交わりへと、昇天へと回復されたことを知る者のためです。世俗主義をこの世についての真理として受け入れる者たちは、本来のキリスト教信仰を根こそぎに変えようとしています。『ほんとうに私たちは同じキリストについて話しているのでしょうか』。そう問いかけるほかありません。」cf. pp. 158-159.

3
「・・・。しかし、ここで多くのページを費やして明らかにしたかった、たった一つの要点は、私たち自身が聖神の喜びと平安の、また人々が教会の内に回復し分かち合う『新たないのち』の真の証人であるかどうかに、いっさいがかかっているということです。教会は神の国の機密です。それは神がお立てになった諸『機密』を執行するからではありません。まず教会は、人々がこの世の内にまたこの世を通じて『来るべき世』を見、キリストにあってこの『来るべき世』を生きる可能性として、私たちに与えられたものだからです。この世の闇を見つめつつも、実はキリストが既にご自身で一切を満たしていることを見通してはじめて、それが何であれ『これらのこと』(ルカ 24・48)が意味と美の充満として明示されます。クリスチャンとは、どこを見ようとそこにキリストを見いだし、主にあって小躍りして喜ぶ者です。そしてこの喜びが、彼の人間的計画と手順、決定と行動、すべての伝道の実践を、『世のいのち』であるキリストのもとにこの世を立ち返らせる『機密』へと変容するのです。」 cf. pp. 160-161.

カリストス・ウェア主教から正教会の原罪論と西方の教会の原罪論は大きくことなることを教えていただきました。それから、上に何度もでてくる「回復」に関することは、正教会の信仰の中心にあるように感じます。この「回復」はカトリック教会の伝統的な原罪論から出てくるのでしょうか(ど素人からの問)。「時課の典礼 毎日の読書 第二朗読」における聖人のことばで一番多く引用されているのはおそらく聖アウグスチヌス司教のことばだったはずです。以前数えたことがあり、その多さに驚かされました。

訳者あとがきに、シュメーマン神父についての紹介があります。
返信する
十字架にかかっておられる方 (新米信徒)
2024-08-24 23:47:06
谷口神父さま 

上のコメントに引用いたしましたシュメーマン神父の著書の p. 29 の最後のことばだけでは誤解を与えかねないと思われますので、大変長くなりますが、その前のことばを改めて引用いたします。お許しください。

第 2 章 聖体礼儀(せいたいれいぎ)

「 この世はキリストを拒絶しました。・・・。この拒絶は決定的な意味を持ちます。キリストは永遠に十字架に釘つけられました。『キリストはこの世の終わりに至るまで苦悶し続ける」とパスカルが言う通りです。
 しかし、実のところは『もし人々がキリスト教的生活をこの世にうち立てるために懸命に努力するなら、この終りを指し示す十字架は撤回されるかもしれない』と言いたげな言説にしばしば出会います。これではキリスト教自身が何であるかを忘れているというほかありません。
キリスト教はまず第一に十字架のもとに打ち立てられたのではなかったでしょうか。・・・。キリスト教がこの世を断罪しているのではなく、この世それ自体が、その真の自己、世のいのちそのものであった方をゴルゴダの丘で断罪し、自らを否定したのです。(ヨハネ 1・10 の引用の後に)、・・・、クリスチャンとして、またクリスチャンである限り、私たちはまず第一に、自らが『終り』の証人であることを知ります。すべての自然的な喜びの終わり、この世と自らへの人間のすべての自己満足の終り、そしてまさに理性的な、また理性的に組織された『幸福の追求』の終わりの証人です。クリスチャンは、実存主義者たちがむき出しにして示した、この終わりへの予感にもとづく不安や絶望や不条理感への現代人の共鳴を、いわば先取りしてきたと言えます。」 cf. pp. 28-29. この後に、上の p. 29 からの引用が続きます。

キコ先生の初めの証言にもつながっているように感じます。キリストの磔刑の像は教会でいつも見てきましたが、聖ボナベントゥラ司教の著作「あなたのもとにいのちの泉はある」(時課
の典礼 イエスのみ心 読書課 第二朗読)、の冒頭の、「贖われた人よ、考えてみるがよい。あなたのために十字架にかかっておられる方はどのような方であろう。・・・」のことばにふれてようやくその重さに少しだけ気がつかされました。わたしは朗読箇所全体から喜びと光を強く感じます。正教会の聖堂のパニヒダ台の上にキリストの磔刑の像がある写真や動画をいくつか見ました。パニヒダは「永眠者の記憶の祈り」のことだそうです。

Youth Catechism 日本語 カトリック教会の青年向けカテキズム カトリック中央協議会 (2013) の p. 54 に、「わたしたち人間のみじめさを知らず、神を知ることは闇である。神を知らずに、人間のみじめさを知れば絶望を生む。イエス・キリストを知ることで、その解決が見える。わたしたちはイエスのうちに、また神のうちに、自分のみじめさを発見するのだ。」ブレーズ・パスカル、があります。キコ先生の証言や「覚え書き」のことばに直接つながっているような気がします。誤解をしているかもしれませんが、上のシュメーマン神父のことばにもつながっているようにも感じます。
返信する
喜びの告知 (新米信徒)
2024-08-21 12:30:16
谷口神父さま 

「世のいのちのために 正教会のサクラメントと信仰 アレクサンドル・シュメーマン(神父) (日本正教会 司祭) 松島雄一 訳 新教出版社 (2003) 原書 (1963)。1973 年の改訂版からの翻訳」、の、第 2 章 聖体礼儀(せいたいれいぎ)、の、1 の最後は、
「・・・。その長いキリスト教の歴史の中で、クリスチャンたちがこの十字架の意味をあまりにも頻繁に忘れ、あたかも『何も起こらなかった』かのように人生を楽しみ、しばしば『一休み』してきたことは確かです。しかしそれでもクリスチャンは、キリストが死んだ『この世』ではもはや『自然的ないのち』は終わってしまったことを知っています。」 cf. p. 29.

続く 2 の冒頭は、 
「 その上で、キリスト教は、そのまさに始まりから一貫して、喜びの告知、しかもこの地上で唯一可能な喜びの告知です。キリスト教は、人が通常可能だと考えるいっさいの喜びを不可能であると見なします。・・・」cf. p. 30.
「・・・。福音書は『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える』(ルカ 2・10)と開始され『彼らは[イエスを拝し、] 非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた』(ルカ 24・53)と結ばれます。私たちはこの大いなる喜びの意味を回復しなければなりません。私たちは計画や使命やプロジェクトや技法などについて議論する前に、可能な限り、何よりもまずこの喜びに与らなければなりません。」p. 31.
わたしは、ある時、死者と枝のようにつながっているということが短い間イメージとしてみえて、強い畏れを感じ、そしてわたしの内側から強烈な喜びの衝動が湧き上がり続けました(一時間から二時間ぐらい)。そのことで「救われた」、「救われている」などとは決して思いませんが、喜びが強烈だったことだけははっきり記憶されています。

この書の「補論 1 世俗主義時代の礼拝」の、7 に、聖俗、自然的と超自然的、純粋と不純、の体裁のよい区別(西方化からもたらされた)がはっきりと批判されているようです。cf. p. 178.
驚きとともに反省させられました。キコ先生の上記の本に、「神の実在」に触れ、死を向いていたことから解放され、喜びとともに感涙したこと(ことばではほとんど表現できないと思います)が証言されているので、ここに書かせていただきました。長文をすみません。
返信する
神が介入してきた出来事 (新米信徒)
2024-03-16 22:00:29
谷口神父様 

上の記事に引用されている「キコ・アルグエヨ(先生)著 ケリグマ IL KERIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で 訳者 谷口幸紀(神父様) フリープレス(2013)」の大切なことの一つがようやくわかってきたように思います。この書の、バラックで ー キコ・アルグエヨの証言、の、貧しい人々を通しての教会刷新、にある「カテケージス」の一つの初めの質問、「あなたは神を信じますか? どうして神を信じますか? あなたの歴史の中に神が介入してきた出来事がありましたか。それとも、誰かから聞いたので信じているのですか? あなたの歴史の中の具体的な出来事について話してください」のことです。わたしが受けた(感じた)強烈な衝動については以前何度か神父様のブログに書かせていただきました。また、若くして病気で天に召された何人かの方のこと(事・言)に本を通して触れてきました。本を読みながら、わたしは一体何をやっているのだろう、と感じることもありましたが、その方々に神様がかかわったであろう何かを眺めさせていただいたのだと信じています。向こうからの知恵の光に照らされることが必要である、ということをはっきりとわたしに諭してくださったのは、岩下壮一神父様だと思います。押田成人神父様からも何度も教えていただいていたはずですが、わかりませんでした。上に引用いたしましたカテケージスの質問に具体的に答えることは本当に大切なことだと思います。一人一人違うはずです。
返信する
証言「神はいた」 (新米信徒)
2024-03-02 14:41:41
谷口神父様 

「キコ・アルグエヨ(先生)著 ケリグマ IL KERIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で 訳者 谷口幸紀(神父様)フリープレス(2013)」 の、バラックで ー キコ・アルグエヨの証言、の、閉ざされた天と地平線に射す一条の光、に、
「・・・。
 このようなケノーシス ー 天が閉ざされた状態 ー の中で、
神は私を憐れんでくださった。・・・。私にとって、神がいるのか、いないのか、ということは、どうでもよいことではなくて、生きるか死ぬかの問題だった。・・・。

その時、とても微(ほの)かな光、希望のように、神が地平線から姿を現わし始めた。・・・。
私は自分の部屋に入って扉を閉め、その光を追って神に叫んだ。『もしあなたがいるのなら、来て、私を助けてください、私は死の前にいます』。・・・」 cf. pp. 22-23.

(続いて)死から命へ ー 「神は存在する!」、に、
「私はすぐにそれが信仰の問題であり、ひとりでは自分に信仰を与えることができないことに気付いた。そこで、私は神に向かって叫んだ。そしてその瞬間、思いがけず『私の内に神はいた!』という確かな感触を得た。それを感じたのは推論の結果としてではなく、理論的にでもない。否、否!神は居た!本質が自分に触れてくれるような
感触として、神はいた。」 cf. p. 26.

以前は、西欧の人特有の苦しみと思っていました。何度かこの書を読みましたが、「神はいた」、ということそのものとして、ながめることはできませんでした。

「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア [著] 松島雄一 [訳]
The Orthodox Way Bishop Kallistos Ware 新教出版社(2021)」の、第一章 神秘としての神、の、「お方(ペルソナ)」としての神への信仰、に、
「・・・信仰は、何かが真実であるかも知れないという仮定ではなく、何者かが『そこにいらっしゃる』という確信である。・・・。
 私たちは 『主よ、わたしは信じます。不信仰なわたしをお助けください』(マルコ 9・24)という叫びを、己れのものと
しなければならない。まさに、私たちの多くにとって、この叫びはついには死の門に至るまで続けられる祈りである。疑念はそれ自体では信仰の欠如を表してはいない。逆に信仰がそこに生きていて、成長していることを意味する。・・・」 
cf. pp. 16-17. YouTube に upload されている「オンライン伝道会『活ける神』19 新しい契約」の話し手である大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ 松島 雄一が仰っている「テオシス」に深く関わっているように感じます。また、「カトリックの信仰 岩下壮一(神父様) ちくま学芸文庫 (2015)」の、第一章 天主、の、信仰は自由意志の選択に基づく、に、
「・・・。ここに理智の承認において見られぬ自由意志の作用が信仰では加わってくる。信じ得るためには自由に信じることを欲せねばならぬ。」 cf. p. 056. 続いて、信仰は神の賜物、祈りの必要、に、
「・・・。真理に対して頑強に抵抗するという罪から、我々が神の力によって解放されるのでなくては、真の信仰にはいり得ない。だから祈り ー 少なくとも神いまさば信仰を与え給え、という仮定的の祈り ー が絶対に必要であり、また跪(ひざまず)いて祈るために心は謙遜(けんそん)にならねばならぬ。・・・」 cf. pp. 056-057. この最後に、大切なことのため「ここに通俗的な説明を加えた次第である」 とあります。

わたしが出会っていることは、初期の教会の教えにつながっていて、今よく出会う教えとは何かが違うように感じます。「時課の典礼」には初期の教会の教えが(かなり)含まれているように感じます(黙示録との結びつきはカトリック教会の聖伝から強くきているかもしれませんが)。

補足:田川先生は、神父様の上の記事に引用されている「宗教とは何か」の、第二部 異質の世界の無視 ー 翻訳に現れた思想の問題、の、一(いち)異質の世界の無視 ー いわゆる「共同訳聖書」の思いあがり ー に、ご自身(達)のことを「我々解釈者ども」、と書いておられます。cf. (手持ちの 1985 年の新装版では)p. 84. 岩下神父様の警告が参考になるように感じます。キコ先生のことばであれば、「神は私を憐れんでくださった。」、これが大前提だと思います。正教会の松島司祭から上述のオンライン伝道会で教わりました。いつも長文をすみません。
返信する
田川健三(先生)著 宗教とは何か (新米信徒)
2023-08-23 23:44:47
谷口神父様 

これまで、田川先生のことについていくつのこと書きました。少しは先生の本を読まなければ無責任であると感じて、「宗教とは何か 田川健三(先生)大和書房 新装版第一刷発行 (1985)」を古書で購入しました。時間もなく、能力もないので、先ず、「第四部 イエスを描くという行為ー歴史記述の課題」の「一 遠藤周作の「イエス像によせて」を眺めました。そして、次に、「第二部 異質の世界の無視 ー翻訳に現れた思想の問題ー」の「一 異質の世界の無視 ーいわゆる『共同訳聖書』の思い上がりー」を少し読み、驚かされました。そして、この本の「まえがき」の次の箇所に(以前の持ち主の方によって)線が引いてありました。「今我々日本人にとって非常に重要な課題は、異質なものに出会った時に異質のまま理解し尊敬する、精神的、思想的かつ実践的姿勢を養うことである、と思う。(1983 年 10 月 3 日)」cf. まえがき 3.(他に線が引いてある箇所は、今のところ見つかっていません)そして、このことは遠藤氏にもつながっているようです。第四部の一の「十三 補足その三ー小説家の方法と歴史家の方法」の最後の、「この(『イエスの生涯』の)『あとがき』には、ほかにたいしたことは何も書いていない。だが、ただ一言彼は本音をもらしている。『小説[沈黙]を書き終えて以後、数年の間私は日本人につかめるイエス像を具体的に書くという課題を自分に課した』。(傍点は田川:ここで傍点は、日本人につかめる、にあります)現代日本人にとって受けのいい姿にイエスを改造する、ということがはじめから遠藤の意図したことだったのだ。基準は『日本人』の側にあった。はじめから、現代日本人のイデオロギーにとって受け入れ易いことしか書くつもりはなかったのだ。そこには、自分達の半ば居心地のいい居眠りを震撼とさせるような、異質の歴史的現実のすさまじさに出会った驚きは何も見られないのである。」cf. pp. 235-236.

わたしが漠然と感じていたことが、言葉で表現されているように思います。田川先生は、今、集大成となるはずの本を執筆しておられるようです。田川先生を突き動かすもの(田川先生からお叱りをうける言葉かもしれませんが)は何なのか、わかるはずもありませんが、「第二部 三 難解は美徳か 二 すべての人が食えるようになった時」の最後に「キンシャサ(おそらく、現コンゴ民主共和国の)の町の最も貧しい人が今の私よりも豊かに食えるようにならない限り、私の魂の救済などありうるはずがない」、とあります。cf. p. 107. 解放の神学のこと、本田哲郎神父様のことばが思い浮かびました。ど素人なりに。 
返信する
新米信徒さまへ (谷口 幸紀)
2022-04-28 17:53:50
別に迷惑は掛からないと思いましたので、敢えて、ご配慮にも拘らず公開させていただきました。
これも、ローマでの常識は日本では非常識の一例かと思います。
返信する
宣教家族の派遣 (新米信徒)
2022-04-26 05:17:20
神父様 

非公開を前提に書きます。神父様に迷惑がかかるかもしれませんので。

facebook で、「教皇フランシスコ、新求道期間の道の宣教家族250組を五大陸に派遣(2016年3月18日) 」の動画をみました。ミサの「派遣の祝福」を思い出しました。新型コロナウイルスの蔓延のため、大変な試練にあった(あっている)宣教家族があるかもしれませんが、一人ではなく、家族であるので、主の現存を信じて、互いに助け合っていると思います。そのことを見て、心がかえられる人がいるかもしれないと感じます。動画を観ることができたことを感謝しています。
返信する
使徒の宣教 (新米信徒)
2022-04-22 08:29:35
神父様 

返信をありがとうございます。

今日の「教会の祈り」の朝の祈りの朗読箇所の近くの使徒 5・41-42 を読み、大変大切なことがあると感じました。バルバロ神父様の 42 節の注釈は、「メシアたるイエズスを全世界に伝えることは、彼らの生活の唯一の使命であった。」。

上に私が書いた言葉「新福音化推進評議会」の福音化という訳が以前から気になっています。岡田大司教様は、ある講演で、"evangelizatio" の訳として、「福音宣教」か「福音化」ということについて話しておられます。キリスト教の歴史のことを考えると、訳の難しさが伝わってきました。宣伝が良いように思いますが、日本語として使えないようなので残念です。「福音化」には、福音によって、社会を変えていく、といことも強く強調されているようです。そのことと関連しているかもしれませんが、「教会の祈り」の今日の「朝の祈り」の共同祈願の答唱は、「・・・ わたしたちを救われた。」。悩みましたが、救われる。、に変えて唱えました。

多くの人ができなかったことをなしていると思われる「新求道期間の道」を、日本のカトリック教会がもっと長い時間をかけて日本で見守っていくことができなかったことは、残念に思います。
返信する
新米信徒さまへ (谷口幸紀)
2022-04-19 22:39:51
全くおっしゃるとおりですね。
従来のような、世界に背を向けた、日本人だけの歪んだ閉ざされた信仰のありかたは、そろそろ終わりにしなければならないと思います。
返信する
返信をありがとうございます。 (新米信徒)
2022-04-19 22:16:24
神父様 

大変丁寧な返信をありがとうございます。大変参考になりました。

谷口幸紀(神父様)著、バンカー、そして神父 、亜紀書房(2009) 、を読み続けています。アジアの大変貧しい女性たちとのかかわりは大変心に残りました。まことが書かれていると感じました。私は洗礼を受けてから十数年の信徒ですが、その間、教会において、信仰を持った若い人が減ってきているように見えます。日本では、聖書の翻訳は新しいものが良いと話す聖職者の方は多いような気がします。信仰の道はどうなのでしょうか。日本人の文化、風習、心情にあったようにみえる(?)信仰の道はよくて、そうではないものには排他的になりがちではないかと感じます。遠藤氏の話がそのようなことにつながって感じます。

これからは、日本で暮らす外国育ちの人は増えていくと思いますので、日本の教会も変えていかなければいけないこともでてくるように思います。
返信する
新米信徒さまへ (谷口幸紀)
2022-04-18 23:03:18
 ベネディクト16世教皇の時に設置された「新福音化推進協議会」は「新求道期間の道」を含む第2バチカン公会議後に花開いた様々な運動を対象にしていると思います。私はその協議会の内容に詳しいわけではありませんし、「新求道期間の道」の他にどのような運動が対象となっているかを十分に把握しているわけでもありません。しかし、「新求道期間の道」はそれらの中でも特に注視されていることは確かだと思います。
 それは1964年ごろに芽生え始め自然に成長していきました。創始者はキコアルグエイヨというスペイン人の信徒ですが、彼は聖座から促されて、「ケリグマ 福音の告知」を書き、本人には発表する意思なく書き留めた「覚え書き」が出版された以外は 今までほとんど物を書かなかった人です。(いずれも私が日本語に翻訳しました)
 聖教皇ヨハネパウロ2世は「新求道期間の道」を自分の存命中に教会によって正式に承認されたものにしようと考えてキコに規約を書くように命じられた時、並行して当時教理聖省長官だったラッツィンガー枢機卿にキコが過去語ったことを全て調査するように指示されました。キコは様々な機会に多数の共同体メンバーの前で多くを語りました。それは全て映像として録画されていました。それらを大勢のチームを動員して、全て文書に起こし、ラッツィンガーはそれが全てカトリックの信仰と教義に合致しているかをチェッカしました。また、新求道期間の道の歩みの大部の「指導書」も全てラッツィンガーの検閲を経ました。そして、彼は聖教皇ヨハネパウロ2世に報告書を書き、キコの教えたことは全てカトリックの教えに合致していることを保証しました。それに基づいて、教皇はキコの書いた規約を省にされました。その意味で、ラッツィンガーは「新求道期間の道」の全ての細目にに最も詳しい教会の権威者です。
 パウロ6世以来、ヨハネ・パウロ1世、2世、ベネディクト16世、フランシスコ教皇は一貫して新求道期間の道を教会の新しい福音宣教の有効な手段として全世界の司教たちに推奨しておられます。
 日本の司教団の姿勢は、歴代の教皇様の望みに反するもので、このような国単位の一枚岩の反対はカトリック教会の各国々の司教団の中では唯一の例外的異常な現象です。ベネディクト16世教皇はこの事態を憂慮し、重く見て、「新求道期間の道」に特に反対している日本の代表的な4人の司教がたをローマに召喚して、教皇と各聖省の長官たちの前で協議し、例えば、「日本における新求道期間の道の5年間の禁止」は「無効である」と教皇様ご自身が宣言されましたが、その極めて重大な決定は日本の教会の聖職者と信者たちには周知されず、その後も日本での空気の改善はみられていません。
返信する
信仰共同体 (新米信徒)
2022-04-16 09:33:17
神父様 

名誉教皇様が教理省長官であったときの「信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話」ドンボスコ社 (1993)、(原書 1984) の第二章 の "いろいろの運動" にかける希望、に、上の「ケリグマ 福音の告知」に説かれている運動を含むいくつかの新しい運動にかける大きな期待とそれらの運動がひとりでに現れたということへの驚きが述べられています。

質問があるのですが、名誉教皇様が教皇であったときに、設置された、新福音化推進評議会 [Pontifical Council for Promoting New Evangelization] と新しい運動との間には何か関連があるのでしょうか?

数年前から上の会の名前だけは知っていましたが、この会のことはよく知りませんので、教えていただければ大変ありがたく思います。
返信する
Unknown (M)
2022-02-21 19:55:07
kei さん、「新米信徒」さん、いつも有難うございます。
ホント、そう思います、ここに書いて読んでいただくことで、自分の考えが整理されていきます。

>典礼を仕切りたいある信徒が、他の信徒と口論になり、持論を押し通すということは権力闘争の一つ

ハイ、私はそのような事をイメージします。
典礼一つとっても、やりたい人のやりたい事が、やりたくない人とちょうど釣り合う事は少ないですね。
私の観察では、メンバーの自由意志でそれを調節する事も多くないです。
よくあるのは、やりたくない事を強いてさせる、または強いて遠慮させる、古典的な「権力」の発生です。

「新米信徒」さんと意見が分かれましたね、私は家族内の介護も、介護保険という社会の仕組みも、典礼の役割分担も、見かけは違っても与え合い・奪い合いという点で、本質は同じだと考えます。
介護保険は奪い合うという実態が前提されているので、寄付ではなく、金額を決められ、強制的に徴収されるし、給付も必要なだけ取っていいよとはなっていないのが、違いでしょうか。
しかし家族内の介護も、典礼の役割分担も、簡単に奪い合いになりますから、やはり違いはありませんね。

私は、奪い合いでなく、与え合いが成り立つとき、そこが神の国だと考えます。
そのために、どうしたらいいんでしょう。

そう、
>ゴチャゴチャ言ってないで
まさに私はそれを、ゴチャゴチャ言い合う事を求めているんです。

与えようと決心したとしても、私も弱いです。
ゴチャゴチャ言ったり、励まし合ったり、実行に協力し合う仲間が必要なんです。

何をゴチャゴチャ言いたいか、例えば‥
フランシスコ教皇はTwitterで、競争は良くないとか、個人主義は良くないと呟いています。
私にしてみれば、は?何を寝ぼけたこと言ってんの⁈って感じです。
で、それを分かち合う仲間が要るんです、議論する仲間が。
‥こんなの、教会で議論できませんものね‥😅。
返信する
M 様への質問です (新米信徒)
2022-02-20 15:58:08
神父様 M 様との間に入ってすみません。

信徒の間の権力闘争についてよくわからないので、M 様へ質問をします。ものすごく俗な表現をしますが、典礼を仕切りたいある信徒が、他の信徒と口論になり、持論を押し通すということは権力闘争の一つなのでしょうか?

私のような体が強くない者からすると、そのような方は教会にいた方が良いようにも感じます。我を押し通す強さの限度は必要だと思いますが。多くの信徒の方が非積極的ならば権力闘争(?)は起きにくいかもしれませんが、教会はまわらないようにも思います。

M 様が書かれた介護や国の政策については、話は別で、国民が選挙に行って投票することは権利でもあり、また義務といってもよいように思います。また、いろいろな立場があるようにも思います。
返信する
割り込み失礼します。 (kei)
2022-02-20 11:34:51
 Mさんと谷口神父さまの間に割って入ってごめんなさい。でも、Mさんの焦りや苛立ち、怒りが(ほんの一部かもしれませんが)解ってよかったな~と思っています。新米信徒さんやMさんのために具体的に祈らせて下さい。そう願ってもなにも解らない。そんな状況でしたからねぇ。おふたりのこと、ほんの少しですが理解したうえで祈ること。これはおおきな歓びです。

 問題の解決には、まず冷静になること。そして、その本質がどこにあるのかを書き出してみること。これが有効です。Mさんはまさにいまそれをなさっています。怒りながらも、自分の抱えている内外の苦悩を谷口神父さまにひとつひとつ整理しながら訴えておられる。これはイエスさまのお導き以外にはありません。

 私事で恐縮ですが、私の両親はふたりとも重度の病で数年寝たきりのあと、治療の甲斐なく若くして他界しました。病院代を支払いに行く度に卒倒しそうになりました。一度は「そんなお金がどこにあるんです!」そう言ってなんの罪もない会計さんを怒鳴ってしまいました。私自身、医学では解決できない病を抱えていて、生活保護の申請にも行ってみました。でも、役所の窓口からはけんもほろろに追い返されました。

 救いを求めて通ったプロテスタントの教会では、ことあるごとにヒエラルキーの確認を求められました。神はいない。イエスは架空の人物で人間の願望が創りだしたファンタジーの主人公。私の中でそれが決定事項となりました。その瞬間に、カルト宗教の勧誘攻勢にさらされるようになりました。特に「病気が治る」「お金持ちになれる」と連呼する仏教系の新興宗教には閉口しました。おぞましい。もう宗教はこりごりだ。私は固く決心していました。

 で、えぇ~と。もうしんどくなりましたので、紆余曲折は省きます。

 あるひとりの司祭と出会いました(いまの教会の司祭ではありません)。その神父さまは私に、イエスさまの十字架の死と復活の救いを再認識させて下さいました。主イエスに信頼を置く者には耐えられない試練は与えられないこと、逃れの道をも備えて下さることも再確認させてくださいました。そしてなにより、悔いた砕けたたましいで主イエスに対峙しなければならないことを諭して下さいました。

 そうして出席したミサでのこと。「主よあなたは神の子キリスト。永遠のいのちの糧。あなたをおいて誰のところに行きましょう」と唱えた瞬間、シモーヌ・ヴェイユが体験したような、頭を押さえつけられ、ひざまずかせられるような経験をしました。止めどなく涙があふれ出てきました。私はドライアイで、そのための手術も受けています。それでも涙が出なくて眼球が干からびてしまうのですが、ほんとにもう信じられないくらいに涙が零れました。

 病気が治ったわけでもなく、お金持ちになったわけでもありませんが、私の問題はその都度いろんなひとに助けられ、解決されていくようになりました。

 Mさん。ひとそれぞれですから同じ体験をするとは限りませんが、「ここにおいで」と言って下さる谷口神父さまが生きておられるうちに、ひやかし半分でもいいですから、ゴチャゴチャ言ってないで出かけてみられてはいかがでしょうか。あ、神父さま、お年だからもうそろそろ天国。そういう意味ではありませんので、お許しくださいませ。

 許さん! いやゃあ~、そう言わんと、ごめんしておくんなましぃ(^▽^)。

 Mさんには余計なお世話だったかもしれません。ご容赦ください。
返信する
Unknown (M)
2022-02-20 09:19:58
え、権力闘争がないんですか⁉️

私が長々と書いた、人間の本性や集団のあり方と違うので、疑念が渦巻いております。
はは、いつものパターンですね😅。

聖書からは、イエズスの生前にも死後にも、弟子たちの権力闘争があったようですが?

集まりの中で言わば雲の上の存在である司祭という立場からは、言ってみれば下々の信徒の諍いはお見えにならないのか?

権力闘争の余地がないほど統制され、序列が固定化されているのか?

これが私は聖書の本当のテーマだと思っているし、人間にとって永遠の課題だと思いますが、そんなに易々と解決されているのですか⁉️
返信する
Mさんへ (谷口 幸紀)
2022-02-19 23:00:21
権力闘争?ありませんね。熊と牛と狼と羊が一緒に草を食んでいますよ!サファリではありません。
だから、百聞は一見にしかずと言ったでしょう?!
返信する
Unknown (M)
2022-02-19 18:20:24
神父様がミサにお誘いくださったのもあり、ミサを欺瞞と思うのはどこか、ガチモードで自分の考えをご説明します。
長いので、構成を書きますと、まず生活背景、そこから導かれた価値観、ミサのどこがその価値観と衝突するか、です。

生活背景)
少し前に自分は極楽トンボだと書きましたがバチが当たったのか(冗談)、ある事で板子一枚下は地獄だなぁと実感しました。

入所施設にいる家族が両脚骨折したと連絡がありました。転倒したのでもなく。
悪意や過失ではないかも知れないけど、とっさに自宅に引き取ることを考えました。
社協で聞いたところ、介護保険での給付は最大でも平日昼間にオムツ替え2回+訪問入浴・看護までだと分かりました。あとはご家族で頑張ってね、と。
私は働いており、介護を助けてくれる人もいません。1日4回オムツを替えるとして、介護保険外が週にあと18回発生します。一回二千円で頼めば週36000円ですが、その金額ではおさまらないでしょう。
それにオムツ替えって1日4回でいいんでしょうか? あと連日夜中に起こされたら、私は仕事を続けられるんでしょうか?
また、来るヘルパーは取っ替え引っ替え違う人だそうです。入所施設とどっちがマシか、難しいところです。
介護付き有料老人ホームや療養病床で料金が高く介護者の多い病院に移すことも考えましたが、答えは出ていません。
返信する
Unknown (M)
2022-02-19 18:19:13
価値観)
もし介護しながら仕事すると、自分がその家族と同じように倒れるかも? こうなると家族と自分との生存競争、自分の力をどっちが多く取るかパイの奪い合いです。

そして介護保険も同じように、パイの奪い合いです。
介護保険は介護度の軽い人と重度な人に不利に、中程度の人に有利に設計されています。
私の家族のように重度の障害者には、全く足りません。人間の尊厳を保って生活することを保障していません。
だけど重度な人に給付を厚くしたら、その他の殆どの人は利用できなくなり苦情が殺到するでしょう。または介護保険料をもっと上げるか? これも苦情でしょう。
やっぱり五千人が満腹するのは夢物語で、現実は過酷な生存競争、蜘蛛の糸です。

といって、入所している家族のことを除けば、今の家庭は平和そのものです。やはり圧倒的な力の差があり、強い者に余裕があれば、弱い者に優しく出来るのでしょう。
夫婦の力が拮抗しているときは、激闘になりました。

家族であろうと他人であろうと、人が二人以上集まれば、権力闘争になるなぁと思います。
先祖祭祀は、家族内の支配構造を強める機能を持つと聞いて、めちゃくちゃ納得したことがあります。私は社会学が専門ではないし、おぼろげな記憶で言葉が間違ってるかも知れませんが。
盆や命日のいつにお寺さんを呼ぶのか、客は誰を招んで、もてなしは何をするのか、そういった事に決定権を持つのは一家の誰か? 誰が誰に指令をして、従って動くのは誰か? 先祖祭祀を通して、権力闘争もあるかも知れないし、ボス猿が誰か、手下が誰か確定します。

まぁね、昔々に部族間で?血みどろの抗争をやってた頃には、手下にされようが、弱い者が踏みつけにされようが、一族全員が皆殺しにならないために、支配構造を明確にして強い軍隊組織にすることが必要だったのでしょう。
稲作だって、一人じゃなかなか出来ません。ケンカせず、効率よく助け合いをするためには、集団内での序列を確定させることが必要だったのでしょう。
食って寝るのは、なかなか大変です。普段は忘れていても、時々思い知らされます。
返信する
Unknown (M)
2022-02-19 18:17:13
ミサとの衝突)
生存競争、権力闘争は、社会で生きていくための必然です。
一人一人、満足に食って寝るためには仕方がありません。
仕方がないけど、とても疲れます。

だからこそ、ミサでは生存競争や権力闘争を見たくありません。
といって、典礼を滞りなく進めるには、段取り、役割分担、実施といった実務があります。
ホスチアは天から降ってきませんし、会場が地面から出現しません。日時や場所をお知らせしたり、役割分担もテレパシーで知らないうちに進んだりしません。
複数の人間が絡めば、ささやかな多愛ないものであっても必ず権力闘争が発生します。そして、ミサは生存自体にはあまり影響しないけど、役割分担を通してプライドや見栄、自尊心の奪い合いという点で生存競争になります。

気合いの入ったミサとお聞きして、見るより前に、なおのこと権力闘争・生存競争の場にならないのかと思ってしまいました。
もし、なっていないとすれば、余程それを防ぐ工夫がしてある筈です。
人為的な工夫がなく、メンバーの善意や良識に任されているとすれば、そこは私にとって猛獣の跋扈するジャングルになります。一度覗いてみるだけなら危険な目にも遭わないでしょうが、サファリパークに行くのと変わらないでしょう。

このような事を言って、人間の俗な部分でなく、ミサという聖の部分に目を向けるようにと教えられることがありました。
そうなると、聖と俗についての概念が自分とは違うとしか言いようがありません。
んー一言で言うと、教会って、どこの教会も恐ろしいなぁ。
娑婆は、カネやビジネスが絡まなければ、生存競争・権力闘争が絡むことが却って教会より少なくて居心地が良いと感じています。
返信する
M 様と Kei 様への返信 (新米信徒)
2022-02-19 09:12:46
M 様そしてKei 様返信をありがとうございます。

M 様、前に書いたプロテスタント教会で私が出会った信者の方々の印象ですが、相手に信仰をおしつけるということはあまりされない、という印象でした。一度、ある信者の方から、信仰は(最後は)理屈ではありませんよ、という助言を、さりげなくいただきました。また、礼拝の中で時々、一人の信者の方が会衆に証しをする、ということを行なっていました。これは、相手の話を素直に聴くことが前提ではないかと思います。

Kei 様、最近ミサには与っていません。感染症による仕事量の増加と感染症と私自身の体調の関係のためです。

ミサの典礼文の訳の変更箇所を見ると、より宣教へ(この地へ)向かっているように感じます。谷口神父様が訳された、「ケリグマ―福音の告知‐バラックの貧しい人々の間で」を昨日手にしましたが、 装丁が大変しっかりしていて、(貧しい人々の)写真も多く、価格は大変安いように感じます。多くのことを教えられることになると思います。また、2020 年頃に、日本 FEBC で、幸田和生司教様の「福音を聞くー新約聖書への招き」の再放送(2004年の)を聴き、MP 3 disk を購入してよく聴いています。教えられることが多いです。教会がこの地と関わることにより、この地が少しでもよくなるようにと願います。この地と教会内部から反発を受けることもあるかもしれませんが。
返信する
Mさんへ (谷口 幸紀)
2022-02-19 09:02:45
黙って見ていましたが、横合いから失礼します。
私も実際にカトリックの小教区で行われている多くの典礼に満足していません。司祭と信者の気合の入り方という点についてそう思うのです。
しかし、「目から鱗」のようなカトリック典礼を私は世界各地で見てきました。式次第も典礼文も全く同じローマの規格を使っているのに。どこがどう違うのか口ではうまく言えません。
お前、天に向かって唾を吐いたな!と叱られるかもしれませんが、それも覚悟で敢えて言います。批判されるのなら、その前に、一度私たちの典礼を見てからにして下さいませんか?
姓「目くそ」名「鼻くそ」より
返信する
Unknown (M)
2022-02-18 09:34:09
keiさんが教会にお招きくださったので、真面目モードでお返事しようと、あれこれ考えておりました。

本音を明かしつつ、非難ととられないように表現するのは、とても難しいですね。
考え中です。

このような表現がいけないのかも知れませんが、一言だけ書きます。

私は教会の典礼に欺瞞を感じます。
返信する
主よあなたは命の糧 (kei)
2022-02-16 23:27:50
 プロテスタントは聖書と聖霊と宣教。カトリックは秘蹟と典礼。そんなところですけど、最近ではかなり違ってきています。プロテスタントのなかにも、もっと聖餐を大事にしなければというところも増えましたし、カトリックでも秘蹟中心のミサから宣教とミサへ。そんな動きになってきています。私が所属する教区でも、新しい司教の方針は秘蹟から宣教へというものです。

 Mさんが疑問に思っておられる聖書の解釈ですが、プロテスタントでもすべての人が原理主義者というわけではありません。また、あやふやにしているというわけでもありません。牧師、そして各信徒に与えられた啓示は大切にしますし、デボーションで分かち合い、よりよい主の導きを戴こうとする話し合いは真剣になされます。

 ただ、人間が造る組織ですからねぇ。パウロの書簡を読んでも、各教会のもめ事には頭が痛かったようですが、それはいまも同じです。

 それはそうと、カトリックのミサの中では毎回聖体拝領があります。その直前に「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう」と唱えるところがあるんですけど、私はこのところにくると毎回しゃくり上げています。ひと目もはばからず。そして、「ああ、私はカトリックに改宗してホントウに良かった」と思っている自分に気がつきます。

 自分の意思で改宗して、自分が近づいていって洗礼を受け、堅信礼を受け、そう思い込んでいたんですけど、それは思い違いで、イエスさまがこんなに傲慢不遜で意地汚くて、なんの取り柄も無くて、誰からも愛されたことのない私を抱きしめ背負ってくださった。その深い深い愛とあわれみがはっきり感じられるんです。これはカトリックにならなければ決して解らなかった部分だと思っています。

 Mさんも新米信徒さんも(新米信徒さんはもう行かれてますよね)、教会に(できればカトリックに)行ってみましょうよ。絶えず戸の外に立ってノックしておられるイエスさまにこころを、たましいを委ねてみましょうよ。祈っています。
返信する
Unknown (M)
2022-02-14 13:35:01
「新米信徒」様

やりとりすると、いろんな発見があって面白いです。
もしかするとプロテスタントの方が聖書は文面をそのまま受けとる傾向が強く、異論など差し挟むと気を悪くされるのかも。
そしてカトリックは聖伝への思い入れがあって、疑いを入れると気を悪くする人がいるのかも。あと妻帯の終身助祭は教会当局は認めたけど信徒には抵抗ある人もいる、ちょっとアブない話題なのかも。

もはや私は教会を(ほぼ)離れているし、この3つのどれも、どうせ不完全な人間の作ったもんだしねぇと思っているのでいいんですが、教会に通う中核層にとっては譲れない問題なんですね、きっと。
プロテスタントにとっての聖書、カトリックにとっての聖伝と独身男性のみの司祭という伝統‥この対比は思いつかなかったです。

‥私にとっては、聖書を読んで、ここはちょっと受け入れ難いと思う箇所は、他の方、特にプロテスタントの方にはないのか知らん?、その場合は自分の未熟さ故とかって片付けちゃうのか知らん?、それとも自覚することもなく抑圧しちゃうのか?、それが今一番の謎です。
返信する
M 様への返信 聖伝 (新米信徒)
2022-02-13 15:43:54
M 様

返信をありがとうございます。

昔、あるプロテスタント教会での祈祷会に時々行っていました。祈祷前に、聖書の輪読があり、その後に、読んだ箇所の感想を各自が述べていました。皆さん、理屈ではなく、感じたことを素直に話しておられたように思います。M 様が書かれたような雰囲気でした。派によって異なるかもしれませんが。

以前に、所属教会の地区の集まりで、アシジの聖フランシスコの聖痕について話された方がいて、私は、はっきりしないことだと思います、と軽率なことを言ってしまいました。発言者の怒りをかったためか、地区の集まりは、その後すぐに、散会になりました。また、妻帯の終身助祭のことを私が話すと、相手の怒りを買いました。聖伝に関わることをうかつに話すと相手の怒りを買うこともあるように感じます。聖伝は大切なことであり、難しいことでもあるように思います。私の場合は、徐々に神様の啓示を信じるようになっていっているように感じます。振り返ると。教会から離れなかったことが大きかったように思います。
返信する
Unknown (M)
2022-02-12 17:12:29
ご本尊さまが音沙汰なしなので、勝手な事を書いちゃっております。
神父様のお立場と、一信徒では思いも、言える事言えない事も違うと思うので、ストップがかかるまでは続けようかと。

そして確かに大病や苦難に遭うと、人生観も変わるだろうなと思います。それによってしか得られないものも、きっとあると思います。

ただ幸か不幸か、私は大した難題に遭遇したこともなく、極楽トンボで生きてきましたので、自分としては(ほぼ)真面目な考えを書いておりますが、ふざけているように見えるかも知れません。
茶化しているつもりはありませんので、どうかご容赦ください。

聖書について、教義について、神学について‥「新米信徒」さん、Kei さんはプロテスタントから来られただけあって、生真面目だなーと思いました。
カトリックは‥私の妄想かも知れないですが‥老獪なんではないかと。
突きつめると、意見の違いが表面化します。
私には経験ありませんが、他の地方で育ったカトリック信者は、昔は信徒だけで聖書を読むのを禁じられていたと言ってました。それよりは、ミサ中に安らかに舟を漕いでた方がいいんでしょう。
自分の参加してみた幾つかのプロテスタントの集会では、自分以外は全員同じコメントでした、ここが心に響きましたとか、ここが素晴らしいとか。疑いや異論を持たないように、しっかり統制されて、それを内面化しちゃってるのか、それとも本心は明かさないのかは、分かりませんでしたが。
聖書の理解が異なる私は、それこそ「異邦人」や「徴税人」扱いで、席を同じうしたくない感じに見えました‥聖書に、それらしい事が書いてありますね、どこか忘れましたけど。分かりたくないなら、分からなくてもいいですと、ハッキリ言われた事もあります。なるほどーご自分の考えを疑ってみることは、しないんだなと、かなり驚いた記憶があります。
まぁそういう事で、別にプロテスタントの批判をしたいのではなく、要は教えがどうのと言いだしたら揉めるのでカトリックではそれは信徒に求めないということかな、と。
返信する
Kei さん激励をありがとうございます (新米信徒)
2022-02-10 08:05:00
Kei 様 

最初に、プロテスタント教会に出会ったことは、私も同じです。洗礼は、カトリック教会で受けました。

アンドレ ヴェイユ自伝 上・下
ある数学者の修行時代、稲葉延子 訳 シュプリンガー・フェアラーク東京(現 丸善)(2004 増補新版)の序に、妹シモーヌさんのことが1頁ほど書いてあります。少しだけ引用します。
「・・・。私はその死を予期しておらず、その死をありえないことと思っていたことを告白する。また、妹の人生が妹自身の固有の法則に従って展開し、同様に終末を迎えたことを私が理解したのはかなり後になってからである。・・・。」

上とあわせて、
「私は何を言わんとしているのだろう。私は今なお学んでいるー自分の思い出の中で生きることを。」

与えられた自分の生をまっとうすることは大変なことであり、たたかいのような面があると思います。そこに信仰があれば、希望をもって、自分だけの生ではない生を生きることができるような気がします。

神父様、長文になりすみません。
返信する
M 様からの返信へ (新米信徒)
2022-02-09 09:57:56
M 様 返信をありがとうございます。

難しいことはわかりませんが、カトリック教会が、これまでに、異端審問において多くの人を殺したことは、カトリック教会が唯一の権威であり、教会の外に救いはないという信仰(?)、が根本にあるのではないかと思います。ですから、私は比較的最近、神学の大切さ、教義の大切さを感じるようになりました。

上のコメントにより、M 様は、単なる自然宗教の信奉者ではないと感じました。私の場合は、比較的若い時に大病をしたことが、信仰の道に入るきっかけであったように思います。苦しみを得ることは、恵になるということは、人と場合によると思いますが、苦しみは人をかえる力を持っていると思います。

P. S. 書いたことを取り下げことは、いくつかの理由がありますが、私が思いあがっていたことが一番の理由です。今後、「報告書」を基にしてどのように具体的な行いをするかが大切であると思います。
返信する
Kei さんへ (谷口 幸紀)
2022-02-08 15:14:13
(⌒▽⌒) アハハ! 一番痛いところを突かれてしまいました
返信する
Unknown (M)
2022-02-08 09:31:48
kei 様

信仰とは生活なんだというお言葉、刺さりました。

苦しみを執拗に訴えて教会関係者を困らせたお友だちにも、直接会ったこともない人に苛立ちを感じとらせてしまう私のような人間にも神が宿っている、神が臨在していると信じておられるのだと想像しました。
だから苦痛をおして、お友だちの話しを聞き、私にコメントをくださったのかな、と。

そんな事、科学では解明できません。
嘘かホントか分かったものじゃない。
信じるか、信じないか、一か八か選ぶ他はない。

私は信じます。
返信する
Mさんへ 新米信徒さんへ (Kei)
2022-02-08 09:05:37
 Mさん コメントを読んで笑ってしまいました。いえ、悪い意味ではなくいい意味で。

 考え方は違っていても、Mさんと私、どこか似ているな、と思ったんです。

 実は私も教会の中で異議申し立てをして追い出されました。プロテスタントのとき。

 谷口神父さまが仰る「マンモンの神」を信仰している牧師や先輩信徒さん。聖書もイエスさまもない。自分が神であり、掟。福音派の、特に単立の教会にはそんなひとたちが多いように思います。「それは違うでしょ」なんて言ったら、言われた方は面白くないですよね。(そうではない福音派のみなさん、ごめんなさい)

 でも、改宗したカトリックも想像したところとは全く違っていました。基本的に皆さん聖書を読まない。元気な頃、私は共観福音書とヨハネの福音書、それに詩編を手書きで臨書したことがあります。もちろん、旧約・新約聖書通読も数回はやっています。

 臨書して欲しいとまでは言いませんが、せめて福音書くらいは読みましょうよ、と言っているんですけどねぇ・・・。諸問題について教区に意見書もだしました。司教にも噛みつきました。そのうちに、カトリックからも追い出されるかも知れません(笑)。

 Mさん。骨のある信徒さんがいなくなっているキリスト教世界に、どうか風穴を開けてください。期待しています。

 新米信徒さん。

 >最近、聖書は両極にぶれていないということを感じます。天におられる全能の父と今この地にいる人、どちらも大切であること。隣人を愛し、自分も大切にすることはつながっていること。また、イエス様の受難と復活はつながっていて、おそらく聖書の中心にあること。

 この箇所を読んでこころが熱くなりました。嬉しかったです。イエスさまは新米信徒さんとともに確かに歩いておられる。そう感じました。

 聖書の、特に旧約聖書の冷酷な裁く神を持ち出してきて、しきりに「愛の神などいない!」と私に言ってくるひとたちがいるんですけど ー私は牧師でも神父でもないんですけど(^^ゞー、そもそも、キリスト教とはイエスさまのこと。律法の破壊者ではなく完成者。イエスさまの十字架の死と復活によって私たちの罪はあがなわれ救われた。その一点がキリスト教です。

 マタイの福音書22章37節から39節に「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。とありますよね。マルコの福音書12章では、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」に加え、「力を尽くして」までをもイエスさまは語られています。

 新米信徒さん。Mさんと一緒に、谷口神父さまを支えてイエスさまの道を全うしてくださいね。応援しています。頑張って!

 谷口神父さま

 自分のブログみたいに我が物顔で好き勝手放題書いています。ご無礼をお許しください。
返信する
Unknown (M)
2022-02-07 20:08:53
kei様

コメントを有難うございます。このコメント欄で知り合っただけの私を気遣ってくださるのが伝わってきました。

でも神さま観、教会観はだいぶ違いますね。

>シモーヌ・ヴェイユが二度目に体験した、頭を押さえつけられてひざまずかせられる経験。悔いた砕けたたましいを要求される経験。それがなければひとは決して神を見ることも知ることもできないのです。

こういった経験がきっと神に近づくルートの一つなのでしょう。だけど、それが無ければ神に近づけないとは思いませんし、逆にその経験があったから神に到達したともシモーヌ・ヴェイユだろうと誰だろうと思いません。
 
>Mさん。いま、苛立ち、焦っておいでですか?

これは当たっています。というより、私にとって苛立ちはいわば神からの賜物です。
苛立ちが、私の原動力なんです。これに自分が焼き尽くされる危険もある、制御の難しい賜物ではありますが。

>神が解らなくて、存在しない神に祈る空虚さに押しつぶされそうになっておいでですか? 

これは、ないですね。私はもっと単純なんです。朝、種子をまいたらお日さまが上って、その光を受けて植物が育つ。自分は有難くその恵みをいただく。
世の中ってうまい具合に出来てるよなあ、人生ってうまい具合に出来てるよなあ、大いなる方が作ったのか何なのか人間には知ることは出来ないけど、有難いこっちゃなあ、と。

>「教会のまわりをウロチョロして」いないで、まずは一歩を踏み出してみましょう。

教会のまわりをウロチョロするのは、長い時間かけて編み出した作戦なんです。

以前のコメントを読んでくださったか知りませんが、私は新型コロナのワクチンの安全性を検証する仕組みがきちんと作られていないことに声を上げ、厚労省の委員会でそれを是正するよう求めたサリドマイド被害者でもある薬学研究者のことを書きました。
そういう一種の異議申立てに、私は共感を覚えます。神の働きを、そういうところに見ます。

教会の中では、ただ従順な羊にしか会えなかったです。
どんな点でも異議申立てをする人は、教会に早晩いられなくなります。

かと言って、世の中はあまりに広いです。そして生活はときに過酷です。私の妹のように、定年まで正社員でいるために起きている時間の殆どを仕事に費やさざるを得ない人も多くいて、そういう人には、人生とは大いなる方とはと話すよりも、まず休養が必要です。
生計のために必死で働く人以外には、早期退職を目指して節約と投資に励む人というのも最近は目立ちますね。そういう人に、人生は大いなる方はと問うても、話が合いません。
あてもなく探しても、出会いたい人はどこにいるのか分かりません。

私が語り合いたい話をできる相手は、私と同じように教会のすぐ外側ぐらいをウロウロしている人に多いんです。そういう人を見つけるコツを掴むのは大変でした。それでも年月を経て、偶然だか、大いなる方が私にお恵みくださったんだか、徐々に見つかるようになってきました。
返信する
Unknown (M)
2022-02-07 19:29:42
さっきのコメントで、唐突にケリグマのことを書いたので、何について言いたかったか伝わらなかったと思います。

それは、「新米信徒」さんが教えてくださった、
「FABC創立50周年総会の準備ための日本の教会に関する報告」を読んで、思いました。

神は誰であろうと、完全に理解することは出来ないと思います。一生をかけて、一緒に追い求めていかないといけないものだと思います。

「報告」からは、それが伝わってきませんでした。
神を完全に分かっている教会当局が、それを信徒どもに伝えるためにこんな行動をするよと言っているように思いました。

そして、もっと(予め)ガッカリするのは、読む信徒は少ないだろうな、せいぜい教会でお勉強会があって、神父の解説を信徒一同で口をポカーンと開けて聞くぐらいだろうな、と。

まあ読んだって、ハイ分かりましたと答える以外の反応は期待されてないだろうから、読む筈もないかとなりますが。
返信する
この一連の記事から (新米信徒)
2022-02-07 19:14:44
神父様 

もう一度、この一連の記事において、私にとって何が大切なことかを考えました。そして、そのことは、「福音」であり、イエス様が復活されたことを私は本当に信じているのかどうかということだと感じました。

最近、聖書は両極にぶれていないということを感じます。天におられる全能の父と今この地にいる人、どちらも大切であること。隣人を愛し、自分も大切にすることはつながっていること。また、イエス様の受難と復活はつながっていて、おそらく聖書の中心にあること。

「ケリグム 福音の告知」を読むことは、今の私にとって大切なことになると思いました。
返信する
Unknown (M)
2022-02-07 18:52:06
「新米信徒」様

コメントを有難うございます。
自分が答えていないとは、思っていませんでした。
もう一度ちゃんと返事をするよう、試みてみます。

谷口神父様
>マルクスもしぜんしゅうきょうのかみしかしらないから、当然そういう結論になりますね。
ひょっとして、Mさんもそうなんですか?

私> (こちらが先に投稿)
そのくだりの中で、私が一番共感するのはこれです。
カール・マルクスが言ってるとのことで‥人間が神の被造物であるのではなく、神を人間が作ってしまっている。人間が作った神によって人間社会を支配することになってしまう、と。
これ、本当だと思います。別に4世紀からでなく、ペトロパウロ たちの時代から、そうだと思います。

このやりとりの事ですね?
カール・マルクスは実は読んだことがないので、田川建三の本でみて、そんな事を言ったのか!と感心しました。
だから文脈を知った上ではないです。

このカール・マルクスの一節には、私はとっても共感します、まさにその通りだと思います。
読んで、こりゃあパウロのことじゃないか!と、膝を打ちました。

聖書を読みながら、パウロって教祖なのか⁈、家庭教師のロッテンマイヤーさんなのか⁈と常々思ってました。
その稚拙な思いが、田川建三の具体的なパウロ批判を読んだことで、整理されました。

だけど‥もしかすると、パウロは自分の受けとった(と思った)神を伝え、パウロを批判するグループもそれぞれの受けとった神を伝え、それらが共存していたのかも知れません。
聖書が編纂された頃に、ローマ帝国とキリスト教の一体化が進み、そのような多様なキリスト教では帝国支配に不都合なのでむりやり一枚岩の教義にされてしまい、パウロの言動の解釈もパウロをあたかも教祖のように見せるようにされてしまったのかも知れません。パウロの責任は半分しかないのかも知れません。

これを書きながら思いました。
ケリグマは、当人が不完全な人間であって、神を完全に知りようもないという自覚がないときに、腐る、と。
返信する
Mさんへ (Kei)
2022-02-06 18:48:57
Mさま

 私は高校生の時にシモーヌ・ヴェイユにはまってしまいました。彼女は、物心ついた頃からずっと天才の名をほしいままにする兄アンドレにコンプレックスをいだいていました。きっと天才だけが入ることを許される真理の世界があるのだと思い込み、知性・理性の世界をむさぼるようにして求めました。それで駄目だったら自死をしようとさえ思い詰めていました。

 プラトンをはじめ、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、スピノザ、パスカル、ルソー、ラニョー、マキャベリ、ライプニッツ、ベルグソン、シェリング、マルブランショ、ロック、ヒューム、そして師のアランといったあらゆる哲学思想をほぼ修め、ほかに心理学や生物学、数学、東洋思想なども極めようと努力しました。特に、「ヴァガヴァト・ギータ」に対しては、宗教的真理であるとして、美しい詩に支えられている同意以外の、まったく異なった種類の同意を与えざるをえないと述べています。
 
 そんな彼女が、最後には人間の知性や理性の与え主を求め、そしてその答えを確かに得ているのです。彼女がそうしたなら私も同じ道を辿ろうと、哲学や心理学の本を読みあさりました。カール・バルトやポール・テイリッヒなどの神学書も例外ではありませんでした。

 で、辿り着いたのは、ヴェイユと同じように、理屈をああだこうだと振り回していてもなにも見えてこない。斜に構え、しらけ、ふてくされた生き様では神どころかひとにさえまともに相手にされない。それだけでした。

 私は、パウロのダマスコ途上での経験を、金科玉条としているわけではありません。全員が眼になる必要はありませんし、耳になることもありません。手と足は違います。神は個々人にふさわしい語りかけをしてくださるのですから。

 ここで私が申し上げているのは、パウロの経験と同じ経験は必要ないということであって、「『生ける神』自身がケリグマを告げる人の口を借りて人に語りかける時以外、誰もその神に出会うことが出来ない」と仰る谷口神父さまのその体験は、人間誰しも漏らさずに経験しなければならないということです。

 シモーヌ・ヴェイユが二度目に体験した、頭を押さえつけられてひざまずかせられる経験。悔いた砕けたたましいを要求される経験。それがなければひとは決して神を見ることも知ることもできないのです。

 >理性だけで真理を知ることは、出来ません。
でも信仰と理性は、やっぱり両翼なんです。

 はい。私もそう思います。ですから私はシモーヌ・ヴェイユが辿った道を探したんです。

 Mさん。いま、苛立ち、焦っておいでですか? 神が解らなくて、存在しない神に祈る空虚さに押しつぶされそうになっておいでですか? なら、気が済むまで、田川さんの領域まで理性と知性を追い求めてみましょう。谷口神父さまの領域まで絶望しないで祈り求めてみましょう。「教会のまわりをウロチョロして」いないで、まずは一歩を踏み出してみましょう。

 そうすることで私は、こうしてひと文字をうつことさえ苦痛にさいなまれる難病の今も絶望しないで生きています。

 信仰とは生活なんです。
返信する
Unknown (M)
2022-02-06 08:25:35
kei様

非難するつもりは無いんですけど、部分への認識が変われば、全体への感じ方も違ってくるという一例として、すみません、書かせていただきます。

>イギリスの子どもは天使のように白いのに
  ぼくの体は真っ黒だ
  でも たましいの白さでは負けない

人間には誰でも限界があるので、この詩が書かれた年代を考えれば、「白人」がこのように書くのも無理もないと言えます。
ただ、今の時代にこのように書くのはNGですね。

長い時間をかけて、人間は進歩してきた、歴史的な認識の間違いを正してきたんです。

理性だけで真理を知ることは、出来ません。
でも信仰と理性は、やっぱり両翼なんです。
返信する
Unknown (M)
2022-02-05 21:12:44
私は幼児洗礼を受けて、それから延々うん十年、教会のまわりをウロチョロしてきた訳ですが、神とは何ぞやを語り合う機会なんて、これまで全くなかったです。神父様がお説教されるのを頭を下げて聞いて、おしまい。
ん?、と違和感があっても出せませんでした。
その事が、最終的には教会に通わなくなる決め手になりました。

このコメント欄で谷口神父様、「新米信徒」さん、kei さんのやりとりに(むりやり?)入らせていただいて、しかも田川建三について語り合うことが出来るなんて夢のようです。

では宜しくお願いします。
言うまでもないことですが、田川建三はこう考えているんでないかと私が思った事を下に書きますので、混同なさいませんようにお願い致します。

>「愛」は根本において説明できない

これは私も、そう思います。
「愛」を「神」に置き換えれば、田川建三はそう言いたいのではないでしょうか。

自分なりにもう少し詳しく言うと、愛は全く説明できないのではないが、決して説明しきれない、です。
愛も、神も、1も。

岡潔先生は1を説明しきれないでしょうが、例えば私と1について語り合ったとしたら、岡潔先生が先に私の認識の誤りを指摘される筈です。
どちらも1を説明しきれないけど、やっぱ同じじゃない。ですね、当然。
そして認識の誤りに立った私の説明はどこか変。
私の説明を聞いた人は、岡潔先生の説明を聞いたときよりももっと、それって1の説明なの⁇と思うでしょう。

田川建三は、(敢えてこんな言い方しますが)ペトロパウロのパウロについて、度々批判を書いています。
パウロがダマスコでイエズスに出会った、それは個人的な体験だから肯定も否定もしませんが、神がこう言ってる神のみ旨はこうなんだとパウロが言ったり書いたりした事、そしてパウロの行動も聖書にはたくさん載っています。
パウロの人間的な弱さを示す記述はそのままそう理解するということをせずに、何でもかんでも護教的に、使徒聖パウロ様の仰ることだから全て正しいとむりやり曲解する‥そのパウロ的な神の理解が多分に入った教会の教えに、田川建三は「そんな神があるかいね!」と言いたいのではないでしょうか。
もちろん田川建三は、神を説明しきれません。
だけど人間が聖書を理解するときにずっとおかしてきた、認識の誤りを田川建三は指摘します。
その認識の誤りの上に立った神はない、と田川建三は言っていると思います。

では、田川建三はそれより正しい神の理解ができているのか、そんな事は出来ない、そんな事をしようとしてはいけないと田川建三は言っていると思います。
そして学問的に聖書を追究してきて最後に、もちろん理解しきれない、説明しきれないけど、(存在しない神に)「祈る」と告白します。
その飛躍というか跳躍で充分ではないでしょうか。
返信する
Kei さんへ (谷口 幸紀)
2022-02-05 09:14:58
長文の、珠玉のコメントありがとうございます。
ひとりでも多くの人の目に、このコメントが止まりますように
返信する
愛を知りたい (Kei)
2022-02-05 08:38:00
 私の研究対象のひとりだったシモーヌ・ヴェイユは、谷口神父さまが仰る「『生ける神』自身がケリグマを告げる人の口を借りて人に語りかける時以外、誰もその神に出会うことが出来ない」経験を三度しています。

 最初は、ポルトガルのビアナ・ド・カステロに両親と赴いたときでした。その土地の小さな祭り、満月の夜、村の漁師の女たちが蝋燭を灯しながら、小舟の回りを胸を引き裂かんばかりに悲しげな声で歌いながら回っている。そのときでした。ヴェイユの胸に悲しみが込み上げ突然啓示が降りてきました。「キリスト教とは、すぐれて奴隷の宗教であることを、そして奴隷たちは、とりわけ私は、それに身を寄せないではおれないのだという確信」をヴェイユは得ることになります。

 二度めはアシジでのことでした。サンタ・マリア・デリ・アンジェリの十二世紀ロマネスク風の小礼拝堂にヴェイユは佇んでいました。そのとき、ヴェイユははじめて、自らよりも強い者の存在を知ることになります。誰かが、何かが、彼女の頭を押さえつけて脆かせたのです。ひとが頭を垂れるときは、どうあがいても己の力の及ばない存在を知ったときです。それが人間以外の存在であればなおさら、ひとは悔い砕かれたたましいを以て謙虚にならざるをえないのです。心からの謙遜は、ひとに創造的な孤独をもたらします。そして希望を待ち望む忍耐と注意力を身につけさせるのです。こうしてヴェイユは、神がこのような人間にご自身を拒否したもうことはないという、霊とたましいのひとに変えられていくことになりました。

 そして三度。ヴェイユは「不幸を通して神の愛を愛することが可能である」という結論に到達することになります。このとき、ヴェイユの体調は最悪で、耐え難い頭痛に打ちのめされていました。ところが、その肉体を抜け出して霊魂は神のもとに昇るという見神・触神体験をするのす。それがどんなものであったのかは想像するしかありませんが、いずれにしても、少なくとも自らの「肉」の状況が導き出すところの結果や結論は、決して真実なものではないというところにヴェイユはたどり着いたのです。それは紛れもない事実でした。

 パウロがダマスコ途上で体験したこと、谷口神父さまが何度も強調しておられる「生ける神」自身がケリグマを告げる行為は、決して知識として「そう思う」ということではないのです。

 以下の詩は、ウイリアム・ブレイクの作品です。

 彼は詩人であり、画家であり、銅版画家でした。イングランドの事実上の国歌ともいわれる「And did those feet in ancient time」の作詞者としても知られています。

 また、ステッドマンの『スリナムの黒人反乱に対する五年間にわたる遠征の物語』につけた彼の版画挿絵「絞首台に生きたまま肋骨でつるされる黒人」は、誰でも一度は目にしたことがあるでしょう。

    黒人の少年

ウイリアム・ブレイク


  ぼくの皮膚は光を剥奪された闇のように黒い
  母が ぼくを南の荒野で産んだからだ
  イギリスの子どもは天使のように白いのに
  ぼくの体は真っ黒だ
  でも たましいの白さでは負けない

  母は 灼熱の太陽に身をさらしながら
  樹木により掛かってぼくに教えてくれた
  膝の上にぼくをのせ 
  口づけしながらこう言ったんだ

  あの太陽をみなさい
  あの中に神はおいでになる
  そして燃える火と光を与えて下さる
  しかも なんの惜しげもなく
  花々や草木 獣たち そして私たち人間
  その光によって 慰めと悦びを戴いている

  私たちの命は実に短い
  その短い時間は
  神からの灼熱の愛の火を学ぶためにある
  あなたの黒い体も 陽に焼けた顔も
  ほんのわずかな雲にすぎない
  森の中の影のようなもの

  あなたのたましいが
  神の愛の熱に耐えることを学んだとき
  その雲は晴れ あなたも私も
  「私の愛する子よ
   さあ 森から出ておいで
   そうして黄金の天幕のまわりで
   子羊たちのように悦び跳ね回るのです」
  という神の声を聴くでしょう

  母は こう話したあと またぼくに口づけした
  だからぼくもイギリスの少年に言うんだ
  ぼくは黒い雲から
  きみは白い雲から
  それぞれ自由にならなければならない
  そうすることで ぼくたちは子羊のように
  神様の天幕の周りで飛び回ることができるんだ と

  ぼくは 彼を愛の熱から護ってやるんだ
  彼は 神様の膝元によりかかって喜ぶだろう
  ぼくは彼の銀色の髪を撫でてあげ
  彼はぼくと同じ目線でぼくをみつめ
  ぼくをきっと愛してくれるだろう


 私が意訳した部分が間違っていなかったかは心許ないですが、新米信徒さんが仰っている「『愛』」は根本において説明できない」ということは、たぶん真実なのだろうと思います。 頭を押さえつけて脆かせられる体験をした者以外には ーそれが稀代の天才聖書学者であったとしてもー 解らないのかもしれません。
返信する
ある (新米信徒)
2022-02-04 10:08:51
谷口神父様 

また、あいだに入ってすみません。

M 様 

「説明」の世界では、多くの説明を組み立てることが可能なのではないでしょうか?しかしながら、それらは説明にすぎないのではないでしょうか? 数学者の岡潔先生から教わったことですが、数学における 「1」の存在は、説明の世界を越えているそうです。ペアノの自然数の構成においても、「1」の存在は公理のようにして仮定されているはずです。もう一つ気になったことは、田川氏は、人間と自然(草、石、土、空、星、・・・)をわけて考えておられるのでしょうか? 中学三年生の時に、サルトルの「実存主義とは何か」を読もうとしたときに、同じことを感じました。強い違和感を感じました。

おそらく、「愛」は根本において説明できないと思います。
返信する
Mさんへ (谷口幸紀)
2022-02-04 09:00:30
いろいろご教示ありがとうございます。
マルクスもしぜんしゅうきょうのかみしかしらないから、当然そういう結論になりますね。
ひょっとして、Mさんもそうなんですか?
返信する
Unknown (M)
2022-02-03 23:04:11
やっぱり私は田川建三のファンなので、度々しゃしゃり出てしまうのをお許しください。

答はこれ、『はじめて読む聖書』新潮選書106-112頁に出ています。

田川建三は、「無神論というより不可知論」だそうです。

そのくだりの中で、私が一番共感するのはこれです。

カール・マルクスが言ってるとのことで‥人間が神の被造物であるのではなく、神を人間が作ってしまっている。人間が作った神によって人間社会を支配することになってしまう、と。

これ、本当だと思います。別に4世紀からでなく、ペトロパウロ たちの時代から、そうだと思います。

田川建三の神についての考えは、『キリスト教思想への招待』にも書いてあるそうです。
返信する
真の信仰者でありたい。 (Kei)
2022-02-02 11:53:30
「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、『神とは人間がでっちあげた』ものなので、『神を信じないクリスチャン』こそが真のクリスチャンである」

 この言葉は「マンモンの神批判」というより「エホバの証人」への当てつけなのではないか。そう読んでおりました。わざわざヘブル語で発音できない子音で神を表現したのに、エホバの証人たちはエホバ(学者による勘違いの産物)などと間違った名前をつけて神を呼ぶ。それは「神を想像する偶像崇拝」じゃないの? とユダヤ教徒のひとたちに言われても仕方ありませんよね。その行為は「でっちあげ」ですから聖書学者が噛みつくのはよく分かります。加えて、彼らがいう神(エホバ)を信じない我々クリスチャンこそ真のクリスチャンである。と。

 おまえ、それこそでっち上げだよ。谷口神父さまはそう仰るかも知れませんが。

 田川さんのこの言葉を読んで。もうひとつ思い出したのは、フェルナンド・ペソアのこんな詩です。

  神がみに願うのは唯ひとつ
  神がみになにも請わぬのを許してもらうこと

この詩はこう締めくくられます。

  不安も平安もなく 我が静穏なる存在を
  わたしは高きにおきたい 人間の
  歓びと苦しみの在るところよりなお高い場所に

 学者と違って詩人は素直です。親離れしていく子どもが親に向かって宣言しているふうでもありますよね。ただ、ペソア(これを書いたときはリカルド・レイス名でした)は、ぼんやりではあっても神の存在を実体験として持っていて、しっかりと神と対峙しています。なにも請わぬ態度を許して下さい、と謙るこころを持ち合わせているのですから。

 学者のお陰で私たちは文明を享受できています。イエスの癒しがなくてもたくさんの病が学者たちによって解明され、癒えるようになりまた。しかし、同時にパール・バックが危惧したように、制御もできない「神の火」を弄して破滅に向かっている愚かさに気がつきません。

 中国では、オスの性なくしてメスのみで生まれるクローン命が産業に育っています。クローン猫は300万円。クローン犬は500万円で売買されているのです。このままあの国が豊かさを加速させていけば、きっとアダム抜き、エバのみで造られたクローン息子、クローン娘などが売買されるでことでしょう。ことほどさように学者たちの存在は諸刃の剣。聖書学者の語る信仰や神も(もちろん私たちの目が先生方の研究による知識によって開かれた部分は否定しませんが)、絶望を伴った偶像でしかない。全宇宙を創造し、超自然宗教として圧倒的な活力を示しながら「ある」と仰る神には届かない。そんな苦悩の末に学者は「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝である」などと開き直ってしまうのです。

 であるとすれば、田川建三というお方は何者なのでしょう。不可知論者でも無神論者でもない。かといって、キリスト者とも違う。ただ、聖書の研究のみに悦びを見いだしているただの学者、なのでしょうか。私には不可解でなりません。

 プラトンの言う洞窟の囚人だとすれば、影をどんなに追い求めても善のイデアにはたどり着けない悲しみのひと。ひとびとをその悲しみの道程に道連れにして墜ちていくさまは、まさに谷口神父さまが仰る、遠藤周作と同等でしかない、目くそ鼻くそを嗤うその程度の存在。でしょうか? そうは思いたくありませんが。

 《聖パウロによれば、世は、――つまり学者も、先生も、従って、田川建三もエリアデも、だいぶ落ちるが遠藤周作も――もともと「自分の知恵で神を知ることができない」部類の人たちなのです。なぜなら、彼らが対象としている世界は、この被造物界、自然宗教の世界だけであり、しかも、それを抽象概念化して見るかぎりにおいてのことであって、全ては「絵に描いた餅」「ポスターに印刷された火の写真」の類いに過ぎず、「食える餅」でも、「タバコに火がつく燃える炎」でもないからです》。

 《パウロの「宣教」の立場から見ると、景色はまた一変します。人は、超自然宗教の信仰を生きている宣教者の鉢合わせすることはない。もっと突きつめて言えば、「生ける神」自身がケリグマを告げる人の口を借りて人に語りかける時以外、誰もその神に出会うことが出来ないのです》。

 その通りだと思います。

 【わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります】。(ピリピ3:章から新共同訳)。

 同じパリサイ派でもシャンマイ派と違って、穏健派なヒレル派の師匠ガマリエルのもとで、信仰者であり学者としての道を歩んでいたパウロでしたが、それでも彼はイエスの弟子たちを捕らえ殺してしまうほど自らの宗教と学説に誇りを持っていました。しかし、谷口神父さま流に言えば、知識では絶対に到達できない真理を欠いていました。やがてパウロはあの有名なダマスコの途上で、肉声によるケリグマ(福音の告知)を自分の耳で直接聞き、超自然宗教の「わたしはある」と出会ったのです。結果、膨大な時間を費やし、積み上げてきた溢れんばかりの知識も「キリストのゆえに損失」となっていきました。

 谷口神父さまの神はまさにパウロが出会った神、イエスです。そしてそれは、少数ではあっても私たちキリスト者の信じる神にほかなりません。神は人間がでっちあけた存在ではありません。もちろん、偶像崇拝によって生み出された虚しい存在でもありません。神が、人間を、創った、のです。

 ヨハネの福音書3章で、ニコデモはイエスさまに叱責されています。

 【イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか】。(新共同訳ヨハネの福音書3章)

 知者が、学者がお入りようであったなら、イエスさまは最初から漁師などは選ばずエリートだけを集められたはずです。

 ひとの一生は朝の露のようなもの。やがては誰も平等に彼の地に旅立ちます。そのとき、イエスさまに叱責される学者ではなく、ニコデモやアリマタヤのヨセフやパウロのように、主イエスであって「ある」お方である神に、伏して、それでも顔を上げて謁見したい。私は日々そう願い、祈っています。

 ※結局のところ、私は、田川先生を全く理解できていません。それでも、尊敬こそすれ、嫌ったり遠藤周作以下だ、などとは思っていませんのでご了承ください。
返信する
Unknown (M)
2022-02-02 09:19:26
神の臨在について、延々と考えています。

ある詩を思い出しました。
足跡 マーガレット・F・パワーズ 作、です。
途中で作者不詳にされて、少しずつ内容も変えられたりしながら、あちこちで伝えられているようです。

私もはじめは、その不正確な方のを知りました。
神と2人で一緒に浜辺を歩いていた筈だったのに、振り返ってみると砂の上には自分一人の足跡しかなかった。
神にどうして自分を一人ぼっちにしたのだと言うと、神が答えた、あんたが辛いときには私(神)があんたをおぶって歩いてたのだよ、と。

調べましたが、この作者がカトリックなのか、プロテスタントなのかは分かりませんでした。ただ、どちらの教会ホームページにも、この詩がたくさん載っていました。

そうすると、神は自分の人生に現れ、同伴してくれている。
それを実感する人は、カトリック、プロテスタント問わず多いのでは?

神はもう、ちゃんと臨在してるではないかと私は思います。
それとも「臨在」の意味が違うのでしょうか?
返信する
Unknown (M)
2022-02-01 09:33:24
前回の記事への「新米信徒」さんからのコメントで、大きな示唆を得ました。

それは、⭐️既に⭐️神は臨在してるのか、それとも★未だ★神は臨在していないのか、です。
(「新米信徒」さんが、どちらと考えておられるのかは分かりませんでしたが)

既に神が臨在しているのか、いないのかによって、神観・世界観・人間観が大きく変わります。
私のステレオタイプ的な理解によれば、カトリックでは既に神は臨在している、プロテスタントでは未だ神は臨在していない、です。

田川建三は、プロテスタント的な神は「いない」と言ったのではないでしょうか?
そしてカトリック的な神なら、神と呼ばなくても遠藤周作流に「玉葱」でよい‥田川建三は遠藤周作が嫌いだから命名するとしたら別の名前でしょうけど。

でなければ、(存在しない神に)祈る必要もないし、学問的な興味だけで一生涯を聖書に費やすなんて考えられないです。

このように、いくつもの仮定に立った仮説を、一読者として楽しんでいます。
仮定に間違いがあれば、教えていただきたいです。
そして今の田川建三は神をどのように考えているのか、エッセイにでも書いてくれないかな。生涯にわたって聖書に真摯に向き合ってきた人が神をどう捉えるか、是非知りたいです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

★ インドの旅から」カテゴリの最新記事