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不発に終わったイタリア語の説教-4 〔完〕
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私は無神論者の友人の「偲ぶ会」で、人間が死んだら事実上無に還るという彼の立場を受け入れた。死んで肉体が滅んで五感を失ったら、たとえ霊魂が不滅であっても、その霊魂は世界も他者も自分自身も認知できず、空間の拡がりも時の流れも感知せず、無意識の闇に永遠に眠り続けるばかりで、存在しないも同然の状態に残ると思われるからだ。
肉体が永遠に滅んだら、人間存在は無に還元されるというのが、科学的頭脳の我が友人の現実感覚だった。彼は何の慰めも受け付けないし、私にも経験的には反論する手がかりがない。人間が肉体と霊魂から成り立っていても、五感がブラックアウトしたら、不滅のはずの霊魂も無意識の深い眠りの闇に落ちて存在した痕跡すらも検知できなくなるだろう。
もしそうなら、いくら宗教が観念的に霊魂の不滅を説いても無意味ではないか。無神論者の勝利か。カトリックの信仰は空しいのか?
もし肉体が滅びっぱなしなら、確かにそういう帰結も受け入れざるを得ないかもしれない。
だが、どっこい、そうでもないようだ。
人間が肉体と霊魂からなっていて、もし霊魂が不滅だとすれば、肉体が再生し回復されさえすれば、霊魂は目覚め、再び生きる喜びを謳歌することができるのではないか。もし霊魂が肉体を取り戻せば、五感は再び機能し、人は麻酔から醒めたときのように時間の中に目覚め、外界を認知し、自我を取り戻すだろう。
そんなことは可能か?
キリスト教は可能だと言う。
現に、キリスト教の最大のお祭りは復活祭だ。(銀座のクラブやデパートのクリスマスではない。)その核心は「肉体」、つまり「からだ」の復活だ。厳密に言えば、同一人格性を保証する同じDNAを持った個体の再生だ。
では、キリストは本当に体をもって復活したか?
答えはもちろん “YES!” だが、その検証は、実は意外に込み入った話になる。私はそれを一冊目の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)の300ページから「復活」の章、特に「キリストの空の墓」のくだりで詳しく書いたからここでは敢えて繰り返さないが、興味を持たれた方は是非お読みいただきたい。
http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/
キリストが十字架上の受難と死を通して「死」に打ち勝って本当に復活し、人類のために死を滅ぼしたというのなら、「終わりの日」に我々一人一人が体をもって復活することも可能なのではないか。しかも、生前キリスト教に出会い、それを信じて死んだ魂だけでなく、そうでない人々の魂も差別なく復活して肉体を回復するのであれば、これは万人にとってありがたい福音ではないか。
ところで、私はこのテーマの第2話で、「人の子の再臨」(世界の終末)まで、今から1000年なのか、100万年なのか、数十億年先なのか、誰も知らない、と言った。
そして、キリストはその終末のとき、「人の子」は
「果たしてこの地上に信仰を見出すだろうか?」
と言う問いを発したが、それは、もうすぐこの世の舞台から退場する私とその同世代人にとって、何の関わりもない遠い未来の話なのだろうか。イエスは、問いかけている相手に直接関わりのないことを言っているのだろうか。それは単なる彼の独り言か?
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか?」
というのは、何億年先かもわからない遠い未来の終末のとき、科学が驚異的発展を遂げていく中で、キリストの教えは人類の間で尚も命脈を保っているだろうかとか、たとえ生き延びていたとしても、本物の信仰を持った人が残っているだろうか、とか言う意味で理解されるべきものだろうか。
それとも、もしかして、イエスは私に、
「お前はどう思う? お前の場合はどうなんだ?」
と問うておられるのではないだろうか。悲しいことに、私は50歳になってからローマで神学の勉強を始めて、大急ぎで-わずか4年半で-神父になったので (注)、大切なギリシャ語を全部端折ってしまったから、残念ながら聖書の原典が私の期待するようなニュアンスの解釈を許すものであることを自分で検証することが出来ないのだ。(注) 哲学課程は昔ドクターコースまでやった時の単位が認められて全部免除された。
体が復活するとき霊魂は眠りから覚める。全身麻酔の時がそうだったが、人は五感が封じられて眠りにつき、次に目覚めるまで、外界も自分自身も時間の流れも知覚しなかった。
だとすれば、死から復活までの時間の経過は、その間の歴史の展開とともに、たとえそれが何万年、何億年であったとしても、全く感知されないだろう。本人の主観からすれば、麻酔が効いて眠りに落ちたときと、次に麻酔から醒めたときはピッタリと隣り合った二つの瞬間の出来事だった。もっと言えば、私の死の瞬間と私の復活の瞬間は、同じ一瞬のこちら側とあちら側だということだ。つまり、私の死ぬ時と人の子が来る時(この世界の終末の時)とは、同時だと言い換えてもあながち誤りではないだろう。
私が死ぬときはいつか知らない。それは今日この時、今のこの瞬間かもしれない。だから、実存的には
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか?」
と言うイエスの問いは、別の言葉でいえば、
「今、お前には信仰があるか?」
と問われているのと同じではないのか?だとすれば、それは関係のない遠い未来の他人事どころの話ではない。
私の大切なOL嬢は、あの夜、あの時、その瞬間まで、まさか自分が交通事故で頭を打って意識不明になるなんて、夢にも思わなかったに違いない。しかも、打ち所が悪かったら、そのままこの世と 「おさらば!」 だったかもしれなかったのだ。
私の話が正しいとすれば、その時もし彼女が死んでいたら、その死の瞬間が彼女の意識の中では「人の子が来るとき」、つまり終末の日、天と地が新たにされるとき、だったはずだ。何故なら、彼女が死んでから世の終わりまでにこの世で歴史が何億年流れていようとも、五感を封じられた彼女の霊魂は、その長い時間の経過を全く経験しないまま目覚めの時を待っていたからだ。
彼女は、心理的には死んだその同じ瞬間に復活して目覚め、「新しい天と地」に喜びのうちに誕生するだろう。そして「人の子」は優しく彼女を迎えてくれるにちがいないのだ。
「人の子が来るとき」つまり「キリストの再臨の時」=「私の死の時」=、
「地上に」、即ち=「私自身の中に」=
「人の子」が 「信仰を見いだすことができる」 ことを私は切に願いたいと思う。
私の友人も、この世を去った時すぐ彼岸で目覚め、私の話が正しかったことをすでに確認したに違いない。そして今頃私と繋がっていたことを喜んでいることだろう。なぜなら私は彼の復活を信じて神の前に祈っていたからだ。彼の魂は、この世の終末をすでに先取りして、新しい天と地の至福の中で、明日私が追い付いてくることを楽しみに待っている。
これこそ、何億年先の未来への “BACK TO THE FUTURE!!” つまり、われら空想科学少年たちの真骨頂ではないか。
我々の時空の世界と、天と地が新たにされた彼岸の世界とは、次元と位相が不可思議にねじれて、現在と遠い未来が互いに接していると言う他はない。
これが、面倒くさいおばさんの「長い繰り言の懺悔」を別室で忍耐強く聞いているうちに、時間切れでミサの司式が出来なくなり、不発に終わった私の拙いイタリア語の説教の概略だ。
それを私は、行き場を失った話をアシジのフランシスコが小鳥にしたように、ブログの向こうにいる顔の見えない人々を相手に無防備にも書いてしまった。そして、ふと我に返って、とんでもないリスクを背負いこんだものだと気が滅入っている。
わずか30人ほどの互いを知りぬいた信者たちの前で、その場限りで消えていく話を思い付くままに大風呂敷を広げて口にするのと、誰が読んでいるかわからないブログの世界に、それを文字に固定して残すのとでは大違いだ。
いつ誰にどこから足をすくわれるか分かったものではない。だから、言葉の足りないところ、誤解を招きかねない部分については、教会の教導職に恭順するものであることをあらかじめ申し述べておきたい。
コメントは大歓迎。
だが、事前承認の形を取らせていただいているので悪しからず。
なお、この一連のブログは、
(1)から(4)までひと続きのものなので、
正しい理解を得るために、是非もう一度はじめから順を追って読んでいただきたいと思う。
(完)
肉体までよみがえるんか!
そりゃ、迷惑な!
J. K.
炎上するパターンが非常に多いですが、それだけ信じる力が強いものである証拠でしょうね。
さて、「バンカーそして神父」を興味深く読ませて頂き、谷口神父の考え方に魅かれているものです。
私的には信仰宣言で身体の復活、と口にしているのでそう信じていますが、パレストリーナのCREDOを歌うとどれも力強くまたおとめマリアの受胎とともに信仰の深さを感じます。歴史から学ぶ信仰はかなり多くの割合を持ちますがこのようなブログでいろんな解釈を教えてもらえることは貴重な体験をするにも等しいことをお伝えしたく、メールしました。今後とも続けて下さるようお願いします。
かつて、一種の「炎上」状態を体験し、ブログを閉鎖し、もう二度と書くまいと思ったことがあるだけに、「炎上」の言葉には過敏になっています。
コメントの承認方式は、私の主義に反するところがあるのですが、それに助けられている面も否めません。活発なコメントの遣り取りが抑えられてしまう弊害も「炎上」を回避するためにはやむを得ないと考えてしまいます。