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不発に終わったイタリア語の説教-3
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前回は、本題を脱線して太字で大書した副題の 「火葬場」 のほうに滑ってしまったが、
本題はあくまで 「不発弾」 処理作業だ。それは、
「神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
と言うイエスの謎めいた問いにどう答えるべきか、と言い直してもいい。
私は去る9月23日に、大切な友人の 「偲ぶ会」 を都内で開いた。彼との出会いは自分が国際金融業から足を洗って、ローマで勉強をして神父になってからだから、期間としては20年足らずと決して長い付き合いではなかった。
彼は私が渋谷で主催するようになったサロンの最初からのメンバーの一人だった。
彼も私も頭の構造は理科系だ。彼はIT産業に進み、先端企業で活躍し、ビルゲーツやソフトバンクの孫氏などとも面識があったらしい。しかし、非常に難しい病を得て、まだこれからと言う齢で第一線を退き、体調管理に専念する生活に入った。
それでも彼は月一の、そして私がローマに拠点を移してからは帰国の度に不定期に開くサロンに、ほぼ皆出席だった。何日もかけて体調をチューンアップし、サロンの夕べの数時間を終えるとすぐ静養に戻るという生活ではなかったかと思う。それはまるで社会にまだ現役で生きていることを確認する大切な儀式のようにも見受けられた。
彼は実証的頭脳の持ち主で、確信犯の無神論者だった。神の存在を信じない。人間の魂の不滅を信じない。死後の世界を信じない。一方、カトリックの神父の私はゴリゴリの有神論者だが、二人は神の存在を廻って議論を戦わすことはなかった。
2人の接点は、少年のようにSFの世界に関するものだった。ローマと東京の間で、様々な科学的テーマについて長いメールのラリーがあった。最後の頃で愉快だったのは、遠い将来実現するかもしれない宇宙エレベーターに関するものだった。人間が住む巨大な静止衛星と地上との間をカーボンナノチューブで作った索道を伝って宇宙エレベーターが行き来するという空想科学の世界だ。
赤道上3万5786キロの静止軌道から垂れ下がってくる索道は、上は衛星に固定されるとして、それを地上の1点にアンカーすることが出来るかどうかで、喧々諤々の長いメールラリーを楽しんだことが忘れられない。
彼はこんな形で私と繋がることを通して、間接的に私の信じる魂の世界、神の世界との接点を保とうとしていたのではないかと思う。生前彼は「死は全く怖くない。しかし、死と共に自分の存在が全くの虚無に還るかと思うと、無性に寂しい。」と漏らしていた。
彼が亡くなったとき私はローマに居たが、日本に帰った時 「偲ぶ会」 をサロンの初期のメンバーだけ招いて、奥様のご厚意で彼の家の居間で開くことができた。みんなと、「もし彼が生きていたら絶対よしてくれと言っただろうな」、と笑いながら、サロンのメンバーの前では初めてのカトリックのミサを強行した。そして、下手な長い説教の中で、彼の口癖、「死と共に自分の存在は全くの虚無に還る」を容認する話をした。出席者は有名大学の元経済学部長夫妻とか、かつて金融・ビジネスの先端にいた顔ぶれも多く、数名はカトリック信者でもあったが、特に異議を唱えるひとはいなかった。
(注:カトリック信者の皆さんには、この考えがカトリックの教理や神学に抵触も矛盾もしていないことを、「カトリック教会のカテキズム」や「新カトリック大事典」などに照らして確かめているので、どうか躓かないでいただきたい。)
私がここでこの話をするのは、本題の
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
と言うイエスの問いへの答えと直結するテーマだからだが、
まだその結論を出す前にもう一つ言わなければならないことがある。
今回日本を離れる直前、私がかつて高松で洗礼まで導いたOLが、仕事帰りに歩道のない夜道を歩いていて交通事故に遭い、乾いた田んぼに跳ね飛ばされ頭を打って気を失い、全身打撲に加えて鎖骨を骨折した。手術は4時間半に及んだが、家には彼女が看ているやや痴呆の始まった老母が居るだけで、こんな時には役に立たず、ほかに身内はいなかった。だから私がその夜ずっと付き添った。
麻酔が覚めた彼女に聞いた。麻酔が効きはじめて意識を失ってから目覚めるまで、時間の経過や周りの出来事を何か知覚したか?答えは NO!だった。では何か夢を見たか?答えはやはり NO!だった。それは、私がかつてドイツで検査のために病院で全身麻酔を受けたときや、去年ちょっとしたお腹の中身の摘出手術で入院して全身麻酔を受けたときの体験と一致した。
人間存在は肉体の五感が完全に封じられると、外界の存在も自分の存在も時間の流れも一切知覚できなくなってしまう。人間は肉体と霊魂の二つからなると教会は教えるが、その相互関係は一方のブラックアウトは同時に他方の完全なブラックアウトにつながるほど密接不可分で、物質でできた肉体が機能を停止すると、魂は外界はおろか、時の推移も、自分自身の存在すらも、全く知覚出来なくなることが経験によって知られる。
一時的状態である全身麻酔でさえそうであるなら、人間が死によって肉体を失い、五感が単に機能を停止するだけにとどまらず、肉体の崩壊と共に五感そのものを完全に失った魂は、外界も、自分自身も、時の流れも、一切意識できなくなってしまうことは必定ではないか。
ローマの火葬場の話ではないが、人間の肉体が風に乗って散り、水に溶けて流れてしまったら、魂は仮にあるとしても、沈黙の暗闇の中に眠った常態になり意識も完全に消滅するから、人間存在は私の友人の言ったように事実上「完全な無に還元された」のとどこが違うだろうか。そして、いくら魂の不滅を信じても、その魂と密接不可分に結ばれていた肉体が永遠に失われたとしたら、その魂の存在自体が有名無実で、完全な無になって永遠に失われたのと同じことではないだろうか。
そう考えてくると、「死んだら私は無になる」「死ぬのは怖くない。しかし、死んで無になるのであれば、私は無性に寂しい」と言う彼の心情に完全に共感できるし、何も反論できないのである。
プラトンやアリストテレスに基礎を置いたキリスト教哲学が支配した時代は既に終わった。カントやヘーゲルや現象学や実存主義の哲学を経て、科学や心理学が飛躍的に進歩し、世俗化が進んだ今日の世界で、ただ天国や地獄や来世の報いを説くだけでは、現代の知性を信仰の世界に繋ぎ止めておくには不十分だ。そのことは、教皇フランシスコのお膝元ローマの火葬場の現実をみれば、一目瞭然ではないか。
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
イエス様、悪いけどこのまま行けば多分ダメですね。
と答えるしかないのだろうか?
しかし皆さん、これはまだ私の話の終わりではない。
どんでん返しの結論まで、あともう一回のご辛抱を!
肉体までよみがえるんか!
そりゃ、迷惑な!
J. K.