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ホイヴェルス神父を偲ぶ会
=「紀尾井会」再開の夢 =
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6月9日のホイヴェルス神父の41回目の追悼ミサの記念日が半年先に見えてきた。そろそろ準備に着手しなければならない。
生前のホイヴェルス神父を記憶するものは、今70歳台の世代がほとんど最後に近い。師の思い出を次の世代に受け継ぐ努力がなされなければならない時期に入ってきた。それで、手始めにホイヴェルス師の面影を綴るシリーズのブログをアップすることにした。
改築前の四谷聖イグナチオ教会でホイヴェルス師から洗礼を受ける持田梅子さん。代母の右後ろは上智大学の臨床心理学の霜山徳爾教授の姿があった
ホイヴェルス師とはいかなる人物か?それを知るよすがとして最も重要なのは、師が残された文章ではないだろうか。数多くの随筆は詩的にも哲学的にも深く、日本語としての完成度も、文学的香りも、外国人宣教師のものとしては秀逸の輝きを放っている。
論より証拠。まずは読んで味わってみよう。
「美しき生家」
1967年の夏の3か月のあいだ、私は44年ぶり、故郷のドライエルワルデを訪ねました。そのとき、土地の新聞は「美しきホイヴェルス家に大いなるよろこび!と言う見出しの記事をかきました。これを見て、どうして美しい生家となったのかと考えてみました。勿論学生時代には自分の生家を懐かしく思っていましたし、いくどか生家を写生したことおありましたが、それが、よその人にも美しく見えるものでしょうか・・・。
そこである日、アア川の橋の上まで行って、そこから国道を歩きながら右の方の生家を眺めてみました。なるほど景色のなかのきれいなその場面は、代表的なミュンスターラントの農家ではないでしょうか。程よく人と隣家からはなれ、ひじょうに明るい印象を与えます。
どうしてそのような感じのよい家ができたのか?と考えてみて、やはりそれは父母のおかげだと分かりました。私の少年時代のふるさとは、カシの木の森のなかに、まだ中世のねむりをひっそりとねむっておりました。今でも、秋の森で聞いた嵐のざわめきを思いうかべると恐ろしくなります。
父と母は1886年に結婚しました。この二人は将来の進歩に対するよい組合せでありました。かれらはグリムの昔話に出てくるように、そのいちばん人間らしい年ごろ(新婚時代)この生家について計画したのです。まず家のまわりにもっと光を入れたい。そこで森の一部を伐り開き、大木は船会社(造船)に売り出され、そのあとには新しい果樹が植えられました。家の東側と西側には一本の菩提樹、北には一本のブナ――これは避雷針の役目をつとめます。次の段階は家にかんするものでした。両親は、非情に心の合った一人の大工と、家の改造についてゆっくり相談をしたのでした。母の希望は、屋根をもっと高く上げ、壁の窓はもっと明るくすること。パン(焼き)小屋を西から東へ移すことでした。この生家の屋根は後年、わらぶきから赤い瓦ぶきにとり替えられました。しかし北の方は今も昔のままの作りを残しています。
随想集 「人生の秋に」 ヘルマン・ホイヴェルス著(春秋社)、1969年より。
1969年12月にドイツのコメルツバンクに入社した私は、確か1973年にデュッセルドルフの本店に転勤し、1975年の夏の世界一周旅行の途中に東京に1か月いて、ホイヴェルス神父様にお会いしました。すると師は、来年は2度目の帰郷をするからウエストファーレンの故郷のドライエルワルデ(三森村)の生家で会おうと言われた。
翌年私は車でドライエルワルデにホイヴェルス師を訪ねた。
少年ホイヴェルスが革の半ズボンをはいて登ったカシの木や、大きな農家のたたずまいは昔と同じだっただろうと思った。生家の二階にはホイヴェルス少年とお兄さんの勉強部屋があった。私は、懐かしいその部屋で、タンテ・アンナ(アンナおばさん)と呼ばれる姪ごさんが私たちのために用意してくださった昼食をふたり差し向かいでいただいた。
師はその席で、来年は細川ガラシャ夫人の歌舞伎をもって来るから、ドイツ公演の現地マネジャーはお前に任せる、と言われた。
しかし、その計画は実現しなかった。
師が1977年3月3日に教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って聖母病院に入院し、退院後は上智大学内のSJハウスで療養生活を送っていたが、同年6月9日のミサに車椅子で与っている最中に容態が急変、急性心不全で死去されていたことは、その翌年にドイツ勤務を終えて東京に戻った時に初めて知った。師と私の親密な関係を知っていた人たちは、私に訃報を知らせることを思いつかなかったのだろうか。当時の世相では、仮に知ったとしても、葬儀に間に合って一時帰国が可能だったかどうかはわからないが・・・。
話は最初に戻って、今の若い世代に、ホイヴェルス師を紹介し興味を喚起するにはどうしたらいいかを思案している。
私が外資系の銀行に勤めるようになるまでは、上智大学の大学院から中世哲学研究室の助手をしていた頃まで、ホイヴェルス師とは毎朝のイグナチオ教会のミサで侍者としてお仕えしていたし、師が何十年も続けておられた大学生向けのキリスト教入門講座、通称「紀尾井会」にはほとんど毎週欠かさず出席していた。場所は、当時まだ米軍払い下げのカマボコ兵舎の司祭館の主任司祭室だった。昨年の追悼ミサに出席された斎藤恵子さんや、元春秋社の林幹雄氏などは、長く「紀尾井会」でご一緒だった。毎週火曜の午後3時ごろからだったろうか。
今また四谷界隈で往年の「紀尾井会」を復活できないものかと思案している。
米軍払い下げのカマボコ型兵舎で出来ていた司祭館の一室。紀尾井会のメンバーと楽しくクリスマスパーティーを祝うホイヴェルス師。興が乗ると師は幾つも懐かしい故郷の歌をドイツ語で歌ってくださったものだ。師の右には石炭ストーブの煙突。煙突のそばにはアルミの薬缶が写っている。右手前の横顔は若き日の私。
私は中学生の頃からカメラ小僧で、最初はパカンと開くと黒い蛇腹が飛び出す骨董カメラから始めたが、ドライエルヴァルデの写真も捨てずに取っている膨大なネガフィルムのどれかにあるのだろうが、整理が悪く、見つけ出してブログを飾ることができないのはまことに残念だ。