:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インドの旅から 第18信 月夜のドライヴ

2021-03-03 00:00:01 | ★ インドの旅から

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インドの旅から

18 月夜のドライブ

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十字架の丘の僧院に別れを告げて、ダグラス機でハイデラバードへ夜間飛行。見下ろすとただ黒い地面ばかり。夜間、電灯がつくのは大都市の中心部だけなのだ。

回教徒の手で建てられた古い都市、ハイデラバード。ここの博物館は外にも名高く、古代インドのものから、イスラム文化時代、そしてとくに植民地華やかなりし大英帝国の文化遺産には、目を見張らせるものがあった。

 

お正月にはボンベイ(ムンバイ)の日本総領事館の新年パーティーに出た。美しく着飾ったきもの姿の女性が印象的だった。

 

汽車でアーメダバードへ。私はそこでインドの宇宙線研究所を見た。若い科学者たちの学寮で3日間を過ごした。彼らは非常に幸せそうに生き生きと研究している。

 

ニューデリー。ガンディーの墓。ネルーの墓。どちらも古墳のように大きく、献花の絶える日が無いのだ。

 

 

アグラ。タージ・マハール、美姫の追憶は今もここにある。私は貴重な一日をここに費やし、世界の七不思議のひとつである月夜のタージを味わった。

 

 

 

カジュラホ。

アグラから少し下がった辺鄙なこの地に、人呼んでセクシーテンプルと言う寺院がある。雲一つない瑠璃色の空を突き上げる四基の大寺院。その黒褐色砂岩の屋根、壁、そして内部の至る所には、まるで開放的でギラギラとまぶしい男女の合歓像がならんでいる。この一面に目を閉じると、インド全体に対する理解が狂ってくる。

 

 

カジュラホ寺院の近くの国営ホテルで、私は気の良いインド人紳士と仲良くなった。彼は石油会社の外交員で、各地のスタンドの経営状況を視察して回っている。何日も、日に何百キロも自分の車で移動すると言うことだった。

 

すっかり意気投合した二人は、次の目的地が同じなのを知って、コップのビールをグイと飲み捨てて、早速出発することとなった。

 

インドの道路は概して非常に良い。4車線ほどの広さの道の真ん中が分厚く舗装されていて、舗装されていない側道部の外側には古い立派な並木がどこまでも続いて、濃い緑の陰を落としている。この高原の半乾燥地帯にこれだけの樹木を育て上げるのは並大抵のことではない。大名行列を護った東海道の松並木もこれには及ぶまい。今の日本には、これにくらべられるほどの巨大な並木はどこにもない。

 

道路は英国人に敷いてもらっただろうが、この並木はインド人の愛情なしには育つはずがない。1-2ヵ月で枯れる草花を街角にちょこちょこ植える予算の一部で、100年、200年先を考えて、郊外の街道に樹木を育てるほどの心が日本人にも欲しいものだと思った。

 

道はどこまでもまっすぐである。対向車はほとんどない。私は名神ハイウエイの話を彼にした。自分の経験では、道が適当にカーブしていることは居眠り運転防止のためによいことだと思うと言うと、彼は「インドではどんなに長いまっすぐな道を敷いても心配はないよ。ドライバーが仮に熟睡してしまっていても、目的地に着けばちゃんと車が止まるように出来ているんだからね」と言った。

 

怪訝そうな私の顔を見て、ニヤリとした彼は、向こうからぐんぐん近付いてくる2頭の水牛に引かれた荷車を顎で示した。すれ違いざまに見ると、なるほど、馭者は荷台の幌の陰で高いびきであった。インドの主要交通機関は今もなおこれであったのだ。水牛は明朝無事に目的地について、ご主人様のお目覚めを忍耐強く待つことだろう。

 

落日荘厳。

 

月が昇った。

 

時速70マイル(112キロ)も速いとは感じない。話はいつか独身論に及んだ。彼はまだ結婚していなかった。インド人としては例外的に遅いほうだ。彼はカトリックの聖職者の独身生活は自然に反すると言って反対した。私も早くいい人を見つけて身を固めるようにとおせっかいなアドバイスをしてくれた。そう言えば、ボンベイでもヒンズー教徒の篤信な婦人から同じ勧めをいただいたことがあった。神父になるなら五十を過ぎてからにしなさい。家庭生活を十二分に堪能したあとで・・・と言うわけだ。カジュラホのセクシーテンプルの精神である。

 

私も司祭職を一つの職業として見たとき、独身は絶対的条件ではあり得ないと思う。イエスは独身のまま十字架の上で果てた。しかし、十二使徒の中で、若いヨハネ以外の何人が童貞者であったかは興味深い問題だ。聖書には使徒の頭のペトロに姑がいたと記されている。と言うことは彼には妻も子もいたことを示唆している。

 

どの宗教にも独身の隠遁者はいる。しかし、キリストの浄配としての修道的孤独、あの限りなく豊かで奥深い孤独の真の価値に対する理解は、恐らく最も正統的で円満なキリスト教の中以外では見出すことは難しいのではないだろうか。

 

多くのカトリック者にとってさえ難解なこの理想は、召されたものにだけ啓き示される神秘であるのかもしれない。インド人の常識に合わないのは当然であろう。

 

我々は車を止めた。平原の一本道。夜の11時を回っていた。車外に出て降り注ぐ青白い満月の光にぬれていると、気がふれそうになる。

 

彼は隠し持っていたウイスキーの瓶を取り出した。インドの多くの町には禁酒令が敷かれている。私が一口付き合うと、彼は安心して楽しげに飲んだ。

 

すっかり良い気分になった彼に代わってハンドルを握った私は、月夜の道をアラハバードへ向かって疾走した。

 

 

 

 

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