佐渡(さわたり)・手越(てごし)。
古代東海道は、日本坂峠を越え、現・静岡市駿河区小坂に下りてくるが、その東は、古代には駿河湾の入江だったらしい(今でも、小坂の北東に大和田という町名があるが、海を表す古語「ワタ」に因むともいう。)。したがって、古代東海道は小坂を過ぎると、現・JR東海道本線に沿うようにいったん北上したらしい(具体的なルートは不明。)。そして、現・静岡市駿河区手越の辺りから北東に方向を変えて、古代には合流していなかった藁科川・安倍川を渡河したようだ。
古代東海道とは直接関係はないが、古代からの由緒ある土地らしく、万葉歌碑が建てられている。1つは、長田南中学校にある「坂越えて 阿倍の田面(たのも)に 居る鶴(たづ)の ともしき君は 明日さへもがも」(写真1)。原文は省略するが、意味は、「坂を越えてきて阿倍(安倍)の田にいる鶴のように、恋い慕うあなたは、明日もまた来てほしい」。ただし、この「阿倍」が駿河国かどうかについては、異説がある。駿河国の歌なら、「坂」は日本坂峠だろうということで、建てられたようだ。もっとも、日本坂を越えてくると、上記の通り、そこは入江(海)であり、その向こう側は有度郡になる。
もう1つは、佐渡公民館にある「左和多里の 手児にい行き逢ひ 赤駒が 足掻きを速み 言とはず来ぬ」(写真2)。意味は、「佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった」。「さわたり」という美しい響きの町名は、住居表示の変更で丸子一丁目に改称され、消えてしまった。この歌碑は、このことを惜しんで建てられたものという。
手越は、古代東海道の方向転換点であるだけでなく、宇津ノ谷峠越えの道(伝路?)の出入り口でもある。駅家が衰退した中世には、「宿」が開かれた。即ち、「吾妻鏡」によれば、源頼朝の奥羽征伐のとき(文治5年(1189年))、手越平太家綱が従軍し、その戦功により麻利子(丸子)の邑を恩賞として与えられ、建久5年(1194年)に手越宿を開いたという。恩賞として、ということは、つまり、「宿」の経営をすれば相当の収益が得られたということだろう。手越宿の領主は「手越長者」と呼ばれた。その手越長者の娘、「千手前(せんじゅのまえ)」と平重衡(平清盛の五男)の悲恋は、謡曲「千手」の題材になっている。手越に鎮座する「少将井神社」は、手越長者の館跡ともいわれており、境内に「千手前」の石像がある(写真4)。
建武2年(1335年)、新田義貞と足利直義の大激戦が手越原付近で行われ(「手越河原の合戦」)、その兵火にあって手越宿を中心とした集落全体が焼失し、その後、宿の中心は手越から丸子に移ったという。
「遠州古城めぐり」さんのHPから(少将井神社)
参考図書:高橋清隆著「静岡県万葉の歌」(平成10年8月)
写真1:「坂越えて・・・」の万葉歌碑。場所:長田南中学校東門付近(静岡市駿河区みずほ3-9-1)
写真2:「佐渡の・・・」の万葉歌碑。場所:佐渡公民館前(静岡市葵区丸子1-8-39)
写真3:「少将井神社」。祭神:素盞鳴命。場所:静岡市駿河区手越202、駐車場なし。
写真4:「千手前」像
古代東海道は、日本坂峠を越え、現・静岡市駿河区小坂に下りてくるが、その東は、古代には駿河湾の入江だったらしい(今でも、小坂の北東に大和田という町名があるが、海を表す古語「ワタ」に因むともいう。)。したがって、古代東海道は小坂を過ぎると、現・JR東海道本線に沿うようにいったん北上したらしい(具体的なルートは不明。)。そして、現・静岡市駿河区手越の辺りから北東に方向を変えて、古代には合流していなかった藁科川・安倍川を渡河したようだ。
古代東海道とは直接関係はないが、古代からの由緒ある土地らしく、万葉歌碑が建てられている。1つは、長田南中学校にある「坂越えて 阿倍の田面(たのも)に 居る鶴(たづ)の ともしき君は 明日さへもがも」(写真1)。原文は省略するが、意味は、「坂を越えてきて阿倍(安倍)の田にいる鶴のように、恋い慕うあなたは、明日もまた来てほしい」。ただし、この「阿倍」が駿河国かどうかについては、異説がある。駿河国の歌なら、「坂」は日本坂峠だろうということで、建てられたようだ。もっとも、日本坂を越えてくると、上記の通り、そこは入江(海)であり、その向こう側は有度郡になる。
もう1つは、佐渡公民館にある「左和多里の 手児にい行き逢ひ 赤駒が 足掻きを速み 言とはず来ぬ」(写真2)。意味は、「佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった」。「さわたり」という美しい響きの町名は、住居表示の変更で丸子一丁目に改称され、消えてしまった。この歌碑は、このことを惜しんで建てられたものという。
手越は、古代東海道の方向転換点であるだけでなく、宇津ノ谷峠越えの道(伝路?)の出入り口でもある。駅家が衰退した中世には、「宿」が開かれた。即ち、「吾妻鏡」によれば、源頼朝の奥羽征伐のとき(文治5年(1189年))、手越平太家綱が従軍し、その戦功により麻利子(丸子)の邑を恩賞として与えられ、建久5年(1194年)に手越宿を開いたという。恩賞として、ということは、つまり、「宿」の経営をすれば相当の収益が得られたということだろう。手越宿の領主は「手越長者」と呼ばれた。その手越長者の娘、「千手前(せんじゅのまえ)」と平重衡(平清盛の五男)の悲恋は、謡曲「千手」の題材になっている。手越に鎮座する「少将井神社」は、手越長者の館跡ともいわれており、境内に「千手前」の石像がある(写真4)。
建武2年(1335年)、新田義貞と足利直義の大激戦が手越原付近で行われ(「手越河原の合戦」)、その兵火にあって手越宿を中心とした集落全体が焼失し、その後、宿の中心は手越から丸子に移ったという。
「遠州古城めぐり」さんのHPから(少将井神社)
参考図書:高橋清隆著「静岡県万葉の歌」(平成10年8月)
写真1:「坂越えて・・・」の万葉歌碑。場所:長田南中学校東門付近(静岡市駿河区みずほ3-9-1)
写真2:「佐渡の・・・」の万葉歌碑。場所:佐渡公民館前(静岡市葵区丸子1-8-39)
写真3:「少将井神社」。祭神:素盞鳴命。場所:静岡市駿河区手越202、駐車場なし。
写真4:「千手前」像