駿河国国分寺(するがのくにこくぶんじ)。
場所:静岡市葵区長谷町10。「静岡浅間神社」石鳥居から、通称「長谷通り」を東に約400m、狭い道に少し入る。駐車場なし。
現在は真言宗の寺院で、本尊は地蔵菩薩。
江戸時代末頃(一説には明治5年(1872年))まで、当地に「竜池山 泉動院 国分寺(りゅうちさん せんどういん こくぶんじ)」という寺院があった。「泉動院」とは変わった寺号だが、中世の文書には「千燈院」または「仙幢院」とも記され、国分寺の別名、または本坊の名ではないかとされている。「静岡県史」などでは、天平13年(741年)に聖武天皇が諸国に建立を命じた国分寺の1つである「駿河国分寺」の後身であり、当初から当地にあったとみている。
永禄年間(1558~70年)、武田軍が駿河国に乱入し、「竜池山 泉動院 国分寺」も兵火にあった。本尊の薬師如来像(金銅仏)は鉄砲の弾の材料として鋳潰されたが、なぜか首だけは溶けなかったので、池に投げ捨てられた。その後、仏頭だけが安置されてきたが、江戸時代末(または明治初め)寺が廃寺になると、仏頭は本寺である「音羽山 清水寺」(静岡市葵区音羽町)に納められた、という。ちょっと不思議な話であるが、いったん廃寺になったということから、現在の「駿河国国分寺」は、その由緒により、消滅を惜しんで再興されたものと思われる。
ただし、元々の「駿河国分寺」が当地にあったかは、定かではない。駿河国府もそうだが、「長谷通り」付近からは、発掘調査で古代の遺物・遺構を示す出土物がない。徳川家康が駿府城築城の際、付近の石を全て集めた(「石狩り」)ため、なくなってしまったのだという説もあるが、どうだろうか。昭和5年に「片山廃寺跡」が発見されると、次第にそちらが元々の「駿河国分寺」だったのではないか、とみられるようになった。しかし、中世には「国分寺」という名の寺院が当地にあったらしいことはほぼ確実なので、あるいは、中世までに「駿河国分寺」が当地に移転してきたのではないか、とも考えられている。
さて、「駿河国分寺」に関する不思議な話をもう1つ。貞観14年(872年)、国分寺の別堂(塔頭の1つ?)に大蛇が出て般若心経31巻を呑みこ込んだ。すると、掛軸の観音が抜け出て、縄を蛇の尾に結び付けて木に逆さに吊るした。大蛇は呑んだ経を吐いて、地に落ちた。しばらく死んだようになっていたが、生き返って逃げたという。
写真1:「駿河国国分寺」
写真2:狭い境内の隅にある石塔。「日本六拾六國於國分寺立之」とあり、当寺が「国分寺」であるとして安永6年(1777年)に寄進されたもの。
場所:静岡市葵区長谷町10。「静岡浅間神社」石鳥居から、通称「長谷通り」を東に約400m、狭い道に少し入る。駐車場なし。
現在は真言宗の寺院で、本尊は地蔵菩薩。
江戸時代末頃(一説には明治5年(1872年))まで、当地に「竜池山 泉動院 国分寺(りゅうちさん せんどういん こくぶんじ)」という寺院があった。「泉動院」とは変わった寺号だが、中世の文書には「千燈院」または「仙幢院」とも記され、国分寺の別名、または本坊の名ではないかとされている。「静岡県史」などでは、天平13年(741年)に聖武天皇が諸国に建立を命じた国分寺の1つである「駿河国分寺」の後身であり、当初から当地にあったとみている。
永禄年間(1558~70年)、武田軍が駿河国に乱入し、「竜池山 泉動院 国分寺」も兵火にあった。本尊の薬師如来像(金銅仏)は鉄砲の弾の材料として鋳潰されたが、なぜか首だけは溶けなかったので、池に投げ捨てられた。その後、仏頭だけが安置されてきたが、江戸時代末(または明治初め)寺が廃寺になると、仏頭は本寺である「音羽山 清水寺」(静岡市葵区音羽町)に納められた、という。ちょっと不思議な話であるが、いったん廃寺になったということから、現在の「駿河国国分寺」は、その由緒により、消滅を惜しんで再興されたものと思われる。
ただし、元々の「駿河国分寺」が当地にあったかは、定かではない。駿河国府もそうだが、「長谷通り」付近からは、発掘調査で古代の遺物・遺構を示す出土物がない。徳川家康が駿府城築城の際、付近の石を全て集めた(「石狩り」)ため、なくなってしまったのだという説もあるが、どうだろうか。昭和5年に「片山廃寺跡」が発見されると、次第にそちらが元々の「駿河国分寺」だったのではないか、とみられるようになった。しかし、中世には「国分寺」という名の寺院が当地にあったらしいことはほぼ確実なので、あるいは、中世までに「駿河国分寺」が当地に移転してきたのではないか、とも考えられている。
さて、「駿河国分寺」に関する不思議な話をもう1つ。貞観14年(872年)、国分寺の別堂(塔頭の1つ?)に大蛇が出て般若心経31巻を呑みこ込んだ。すると、掛軸の観音が抜け出て、縄を蛇の尾に結び付けて木に逆さに吊るした。大蛇は呑んだ経を吐いて、地に落ちた。しばらく死んだようになっていたが、生き返って逃げたという。
写真1:「駿河国国分寺」
写真2:狭い境内の隅にある石塔。「日本六拾六國於國分寺立之」とあり、当寺が「国分寺」であるとして安永6年(1777年)に寄進されたもの。