手児の呼坂(てごのよびさか)。
場所:静岡市駿河区北丸子1丁目~向敷地。国道1号線「金属団地入口」交差点から北に向かい、突き当りを右折(東へ)。駐車場なし。
「手児」というのは、「あてこ」が転じたもので、(愛しい)女子のことをいうらしい。「あてこ」に対する語が「まろこ」で、例えば、柿本人麻呂などの「麻呂」・「麿」、中世以降は「丸」になって、森蘭丸などの名の末尾に使われた。万葉集にも詠われた「手児の呼坂」がここにあるとされるのも、丸子の先(元は「宗小路」という地区だった。)にある坂で、この坂を越えれば駿河国府や安倍の市のある安倍郡だったからと思われる。
北丸子側に次のような万葉歌碑が建てられている(写真1)。石碑の刻文は全てひらがなであるが、一般に「東道(あづまぢ)の 手児の呼坂 越えて去なば 我れは恋ひむな 後は逢ひぬとも」(原文は省略)と訓まれる歌である。意味は、「東路(古代東海道)にある手児の呼坂を越えて(あの人が)旅に出れば、わたしは恋しく思うだろう。また再会できるとしても。」。
平成6年に「曲金北遺跡」が発掘されるまでは、古代東海道は、日本坂峠を越えた後に山麓を北上し、手児の呼坂を越え、現在は安倍川河川敷内にある小山になっている「舟山」から東に向かい、駿河国府(静岡高校付近を想定)に到るルートと考えられていた(滝本雄士著「ふるさとの東路」(1995年)など)。「舟山」山上にあったという「舟山神社」を式内社「中津神社」に比定する説があるのも、この古代東海道のルート想定によることが大きかったものと思われる(「舟山神社」については2010年12月21日記事)。
しかし、「曲金北遺跡」発掘等によって、古代東海道は駿河国府に面しておらず、素通りしていたらしいことがわかってきた。どうやら、手児の呼坂まで行かずに、手前の手越辺りから東に向かっていったらしいのである。そうすると、ここが「手児の呼坂」なのかどうかも怪しくなってくる。「東路(あづまぢ)」というのは、一般的には古代東海道を指すが、広く東国をいうこともある。したがって、ここが古代東海道のルートから外れていても、間違いとはいえない。ただ、万葉集には、次のような歌もある。「東道の 手児の呼坂 越えがねて 山にか寝むも 宿りはなしに」(原文省略)、意味は「東路にある手児の呼坂を越えられず、山中で寝るしかないのだろうか、宿もないので。」。実際に歩いてみると、確かに、思ったよりは急坂ではあるが、距離は短い。野宿を強いられるような山道ではないとも思われる。
さて、峠を越えて向敷地側に下りてくると、「大窪山 徳願寺」(2011年2月1日記事)から西側に下りてくる農道と合流する。そこは狭い谷になっていて、伝承によれば、「千手院」という古代寺院があったともいう。
写真1:北丸子(宗小路)側にある万葉歌碑
写真2:「手児の呼坂」入口
写真3:「史跡 手児の呼坂」の石碑(峠付近)
場所:静岡市駿河区北丸子1丁目~向敷地。国道1号線「金属団地入口」交差点から北に向かい、突き当りを右折(東へ)。駐車場なし。
「手児」というのは、「あてこ」が転じたもので、(愛しい)女子のことをいうらしい。「あてこ」に対する語が「まろこ」で、例えば、柿本人麻呂などの「麻呂」・「麿」、中世以降は「丸」になって、森蘭丸などの名の末尾に使われた。万葉集にも詠われた「手児の呼坂」がここにあるとされるのも、丸子の先(元は「宗小路」という地区だった。)にある坂で、この坂を越えれば駿河国府や安倍の市のある安倍郡だったからと思われる。
北丸子側に次のような万葉歌碑が建てられている(写真1)。石碑の刻文は全てひらがなであるが、一般に「東道(あづまぢ)の 手児の呼坂 越えて去なば 我れは恋ひむな 後は逢ひぬとも」(原文は省略)と訓まれる歌である。意味は、「東路(古代東海道)にある手児の呼坂を越えて(あの人が)旅に出れば、わたしは恋しく思うだろう。また再会できるとしても。」。
平成6年に「曲金北遺跡」が発掘されるまでは、古代東海道は、日本坂峠を越えた後に山麓を北上し、手児の呼坂を越え、現在は安倍川河川敷内にある小山になっている「舟山」から東に向かい、駿河国府(静岡高校付近を想定)に到るルートと考えられていた(滝本雄士著「ふるさとの東路」(1995年)など)。「舟山」山上にあったという「舟山神社」を式内社「中津神社」に比定する説があるのも、この古代東海道のルート想定によることが大きかったものと思われる(「舟山神社」については2010年12月21日記事)。
しかし、「曲金北遺跡」発掘等によって、古代東海道は駿河国府に面しておらず、素通りしていたらしいことがわかってきた。どうやら、手児の呼坂まで行かずに、手前の手越辺りから東に向かっていったらしいのである。そうすると、ここが「手児の呼坂」なのかどうかも怪しくなってくる。「東路(あづまぢ)」というのは、一般的には古代東海道を指すが、広く東国をいうこともある。したがって、ここが古代東海道のルートから外れていても、間違いとはいえない。ただ、万葉集には、次のような歌もある。「東道の 手児の呼坂 越えがねて 山にか寝むも 宿りはなしに」(原文省略)、意味は「東路にある手児の呼坂を越えられず、山中で寝るしかないのだろうか、宿もないので。」。実際に歩いてみると、確かに、思ったよりは急坂ではあるが、距離は短い。野宿を強いられるような山道ではないとも思われる。
さて、峠を越えて向敷地側に下りてくると、「大窪山 徳願寺」(2011年2月1日記事)から西側に下りてくる農道と合流する。そこは狭い谷になっていて、伝承によれば、「千手院」という古代寺院があったともいう。
写真1:北丸子(宗小路)側にある万葉歌碑
写真2:「手児の呼坂」入口
写真3:「史跡 手児の呼坂」の石碑(峠付近)