片山廃寺跡(かたやまはいじあと)。
場所:静岡県静岡市駿河区大谷。県道74号線(山脇大谷線、通称:大谷街道)が東名高速道路の高架と交差する付近。駐車場なし。
昭和5年、県立静岡中学(現・静岡高校)の大沢和夫教諭により発見された奈良時代後期(8世紀後半)の廃寺跡である。生徒と訪れた遠足で、生徒が偶然に拾った古瓦の破片が発見のきっかけといわれている。実は、元々ここに古寺の跡があったことは知られていたが、「久能寺」(2011年2月4日記事)の末寺の1つと伝承されてきた。昭和23年以降の数次にわたる発掘調査により、方2町(約218m四方)の寺域に、南大門、金堂、講堂、僧坊、回廊などを有する大規模な古代寺院の跡であることがわかった。現在では、この「片山廃寺跡」が、「駿河国分寺」であっただろうと考えられている。
しかし、塔跡が発見されなかったために、有力豪族の氏寺であるという説(「静岡県史」など)も根強くある。なぜ、そんなに塔にこだわるかというと、天平13年(741年)に国分寺建立の詔が出される前の年、全国に七重塔を建てるべきことの詔が出されており、各国の国分寺には七重塔があった、と考えられているからである。そもそも仏塔(ストゥーパ)というのは、釈迦の骨(舎利)を納めた塚(墓)であり、本来は金堂や講堂よりも重要な施設であった。加えて、「片山廃寺跡」は旧・有度郡にあり、「駿河国府」の想定所在地(旧・安倍郡)と別の郡にあることなども、豪族の氏寺であるという説の根拠になっている。
これに対して、「片山廃寺跡」を「駿河国分寺」とする説からは、①伽藍配置が「出雲国分寺」のものと似ていること、②方2町という寺域の広さなど、群を抜いて規模が大きく、駿河国では他に発見されていないこと、③約1km南に「宮川窯跡」があり、当寺の瓦を焼く専用窯であったと思われること、④隣接する「白山神社」の手水鉢が、塔心礎であった可能性があること、⑤国府と国分寺が別の郡に分かれているのは他国にも例があること、などの根拠が示された。が、塔跡が発見されない限りは、決め手に欠けた。昭和40年9月に「国指定史跡」に指定されたが、「駿河国分寺址」ではなく、地名を採って「片山廃寺跡」となった。
ところが、最近の発掘調査で注目される発見があった。ネット検索しても、この発見については殆ど触れられていないので、要旨をここに紹介しておく。「静岡市駿河区大谷895-1(白山神社境内に接した南側)でアパート建設が計画され、平成20年11月に発掘調査が行われた。この調査により、建物の掘り込み地業が発見され、片山廃寺跡の生活面(表土下77cm前後)から掘り込まれており、方向も今まで確認された金堂跡、講堂跡、僧房跡と一致している。これらのことから、この掘り込み地業は片山廃寺跡に伴う建物跡の地下構造であると考えられる。この建物跡が、伽藍の一部とするなら、伽藍中軸線の東南に位置することから、塔跡である可能性はきわめて高い。南北の長さは16.5mとなり(西側は調査区域外)、三河国分寺塔跡の16.8mに類似する。」(「静岡市内遺跡群発掘調査報告書 平成20年度」(平成21年3月)。この発見によって、「片山廃寺跡」が駿河国分寺であった可能性が相当高まったのではないだろうか。
さて、従前の発掘調査で、「片山廃寺跡」は平安時代前期(10世紀前半)には火災によって焼失し、その後(当地では)再建されなかったことが判明していた。「駿河国国分寺」(2011年5月27日記事)が「駿河国分寺」の後身なら、何らかの事情があって、国府や総社の近くに移転したのだろうということになると思われる。
なお、南隣の「白山神社」は、創建時期不明。祭神は伊弉冊命(イザナミ)。場所:静岡市駿河区大谷896。駐車場なし。元は「白山権現」といい、往古は「浄光院」という寺院の鎮守であったという。
また、「片山廃寺跡」の南東、約400mのところに「諏訪神社」(祭神:建御名方神、場所:静岡市駿河区大谷4475、駐車場なし)があるが、この神社は古墳の上に鎮座している。円墳または帆立貝式古墳(直径約30m、高さ5m)で、5世紀~6世紀前半頃のもの。発掘調査が行われていないため、詳細は不明だが、早くから開けた地区だったと思われる。
静岡市のHPから(国指定史跡 片山廃寺跡)
写真1:「片山廃寺跡」。遺跡の上を東名高速道路が横切っている。
写真2:「片山廃寺跡」南側の「白山神社」鳥居
写真3:「白山神社」境内の変わった形の石(塔心礎? どうも違うような・・・)
写真4:「片山廃寺跡」近くにある「諏訪神社」・「諏訪神社古墳(宮川古墳群第4号墳)」
場所:静岡県静岡市駿河区大谷。県道74号線(山脇大谷線、通称:大谷街道)が東名高速道路の高架と交差する付近。駐車場なし。
昭和5年、県立静岡中学(現・静岡高校)の大沢和夫教諭により発見された奈良時代後期(8世紀後半)の廃寺跡である。生徒と訪れた遠足で、生徒が偶然に拾った古瓦の破片が発見のきっかけといわれている。実は、元々ここに古寺の跡があったことは知られていたが、「久能寺」(2011年2月4日記事)の末寺の1つと伝承されてきた。昭和23年以降の数次にわたる発掘調査により、方2町(約218m四方)の寺域に、南大門、金堂、講堂、僧坊、回廊などを有する大規模な古代寺院の跡であることがわかった。現在では、この「片山廃寺跡」が、「駿河国分寺」であっただろうと考えられている。
しかし、塔跡が発見されなかったために、有力豪族の氏寺であるという説(「静岡県史」など)も根強くある。なぜ、そんなに塔にこだわるかというと、天平13年(741年)に国分寺建立の詔が出される前の年、全国に七重塔を建てるべきことの詔が出されており、各国の国分寺には七重塔があった、と考えられているからである。そもそも仏塔(ストゥーパ)というのは、釈迦の骨(舎利)を納めた塚(墓)であり、本来は金堂や講堂よりも重要な施設であった。加えて、「片山廃寺跡」は旧・有度郡にあり、「駿河国府」の想定所在地(旧・安倍郡)と別の郡にあることなども、豪族の氏寺であるという説の根拠になっている。
これに対して、「片山廃寺跡」を「駿河国分寺」とする説からは、①伽藍配置が「出雲国分寺」のものと似ていること、②方2町という寺域の広さなど、群を抜いて規模が大きく、駿河国では他に発見されていないこと、③約1km南に「宮川窯跡」があり、当寺の瓦を焼く専用窯であったと思われること、④隣接する「白山神社」の手水鉢が、塔心礎であった可能性があること、⑤国府と国分寺が別の郡に分かれているのは他国にも例があること、などの根拠が示された。が、塔跡が発見されない限りは、決め手に欠けた。昭和40年9月に「国指定史跡」に指定されたが、「駿河国分寺址」ではなく、地名を採って「片山廃寺跡」となった。
ところが、最近の発掘調査で注目される発見があった。ネット検索しても、この発見については殆ど触れられていないので、要旨をここに紹介しておく。「静岡市駿河区大谷895-1(白山神社境内に接した南側)でアパート建設が計画され、平成20年11月に発掘調査が行われた。この調査により、建物の掘り込み地業が発見され、片山廃寺跡の生活面(表土下77cm前後)から掘り込まれており、方向も今まで確認された金堂跡、講堂跡、僧房跡と一致している。これらのことから、この掘り込み地業は片山廃寺跡に伴う建物跡の地下構造であると考えられる。この建物跡が、伽藍の一部とするなら、伽藍中軸線の東南に位置することから、塔跡である可能性はきわめて高い。南北の長さは16.5mとなり(西側は調査区域外)、三河国分寺塔跡の16.8mに類似する。」(「静岡市内遺跡群発掘調査報告書 平成20年度」(平成21年3月)。この発見によって、「片山廃寺跡」が駿河国分寺であった可能性が相当高まったのではないだろうか。
さて、従前の発掘調査で、「片山廃寺跡」は平安時代前期(10世紀前半)には火災によって焼失し、その後(当地では)再建されなかったことが判明していた。「駿河国国分寺」(2011年5月27日記事)が「駿河国分寺」の後身なら、何らかの事情があって、国府や総社の近くに移転したのだろうということになると思われる。
なお、南隣の「白山神社」は、創建時期不明。祭神は伊弉冊命(イザナミ)。場所:静岡市駿河区大谷896。駐車場なし。元は「白山権現」といい、往古は「浄光院」という寺院の鎮守であったという。
また、「片山廃寺跡」の南東、約400mのところに「諏訪神社」(祭神:建御名方神、場所:静岡市駿河区大谷4475、駐車場なし)があるが、この神社は古墳の上に鎮座している。円墳または帆立貝式古墳(直径約30m、高さ5m)で、5世紀~6世紀前半頃のもの。発掘調査が行われていないため、詳細は不明だが、早くから開けた地区だったと思われる。
静岡市のHPから(国指定史跡 片山廃寺跡)
写真1:「片山廃寺跡」。遺跡の上を東名高速道路が横切っている。
写真2:「片山廃寺跡」南側の「白山神社」鳥居
写真3:「白山神社」境内の変わった形の石(塔心礎? どうも違うような・・・)
写真4:「片山廃寺跡」近くにある「諏訪神社」・「諏訪神社古墳(宮川古墳群第4号墳)」