神が宿るところ

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三枝祇神社(常陸国式外社・その11の3)

2021-01-23 23:55:35 | 神社
三枝祇神社(さしぎじんじゃ)。別名:さえぐさの神神社。
場所:茨城県東茨城郡城里町錫高野2288。茨城県道112号線(阿波山徳蔵線)と同246号線(錫高野石塚線)の交差点から、112号線を北東へ、約60m。駐車場なし。ただし、県道を更に約180m進んだところに境内に上っていく狭い未舗装路があり、境内に駐車できるようである。
社伝によれば、神護景雲2年(768年)、第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇の重祚)の勅願によって、仲国造等が榊三枝に三神を祀り、社殿を明神沢に創建した。称徳天皇は、『続日本紀」では終始「高野天皇」と称されており、その所縁により当地(旧・高野村)の地名「高野」が名付けられたという。延暦20年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、戦勝を祈願して当神社に軍扇を奉納したが、後村上天皇(在位:1339~1368年)のとき、火災により本殿・宝物ともに焼失。明治11年、現在地へ遷座した。現在の祭神は、建御雷命(タケミカヅチ)、武古呂命(タケコロ)、天津彦根命(アマツヒコネ)。なお、タケミカヅチは常陸国一宮「鹿島神宮」の主祭神、アマツヒコネは茨城国造の祖、タケコロはアマツヒコネの十四世孫で石城国造(「先代旧事本紀」では茨城国造の祖)となっている。
さて、「日本三代実録」貞観17年(875年)の記事に「常陸国の三枝祇神に正六位上を授ける。」とあるが、当神社がその式外社(国史見在社)「三枝祇神」の論社とされることがある。この「三枝祇神」については、「加波山神社」及び「加波山三枝祇神社本宮」(2021年1月2日及び同年1月9日記事)に比定されることのが普通で、当神社を論社としないことも多い(当神社自体が主張していないからかもしれない。)。しかし、「日本三代実録」では郡名を挙げていないから、可能性を全く否定はできないと思う。何しろ、この辺りは古社の多いところで、例えば、式内社「石船神社」(2019年6月29日記事)は当神社の北北東、約2.4km(直線距離、以下同じ)、同「阿波山上神社」(2019年6月15日記事)は北東、約4km、同「青山神社」(2019年6月1日記事)は南東、約4kmなど。さて、どうなのだろうか?
因みに、当地が現在、「錫高野」という地名になっているのは、かつて錫(スズ)の鉱山があったからである。錫は白銀色の比較的柔らかい金属で、食器等に加工されるほか、銅との合金で青銅になる。当神社の成り立ちに、錫の産出地であることが何か関係あるかと思ったのだが、当地で錫が発見されたのは天正年間(1573~1592年)、明国の禅僧・誂寛によるとされている。そして、領主・佐竹氏が製錬を拡大し、江戸時代には錫山奉行が置かれることもあった。最盛期は寛文年間から元文年間(1661~1736年)の約80年間で、その後生産量の減少で衰退したが、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭のときに一時盛んになり、天保年間(1831~1845年)に「高野村」から「錫高野村」に改名されたという(以上、「桂村郷土誌」による。)。また、ネットで調べると、錫鉱山の跡地は「佛國寺」(2019年7月13日記事)の「奥の院」の先、「高取山」の辺りらしい(当神社の西、約4km)。ということで、直接には関係ないようなのだが、歴史を調べると色々あって、面白い。


写真1:「三枝祇神社」参道石段。県道に面して急な石段を上る。


写真2:参道途中の鳥居と社号標(「村社 三枝祇神社」)


写真3:さらに上へ。


写真4:拝殿正面


写真5:拝殿・本殿
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