神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

駿河国の古代東海道(その5・横田駅)

2011-05-13 23:03:01 | 古道
古代東海道(駅路)は、静清平野では、現・静岡市駿河区丸子の「的山」(丸子芹が谷町と井尻地区の間の小山)から現・静岡市清水区の「清見寺」を結ぶ直線が、そのルートとされている。そうすると、静清平野に島のように点在する小山や有度丘陵をうまく避けられるが、駿河国府には面していなかったことになる。駿河国府の具体的な所在地は確定されていない(別項で書く予定)ものの、現・駿府城付近が想定されているので、現在のJR東海道線の南側を通ったらしい古代東海道のルート設定は、従来の発想を覆すものだった。
そして、駿河国府に最も近い駅家である「横田」駅は、従前は、現・静岡市葵区横田町がその遺称地とされ、近世東海道も横田町を通っていたから、「横田」駅もその付近にあったと考えられていた。しかし、古代東海道が上記のようなルートだったとすれば、現・横田町から500~600m南の地点付近と考えるのが妥当のようだ(駿河区八幡1丁目、通称「久能街道」と交差する場所で、現・静岡ガス本社の南側辺りが有力)。ただし、発掘調査の結果ではないので、あくまでも想定である。
近世、横田町には見附(衛士を置いて、旅人の出入りを監視した場所)が置かれ、石垣で枡形が築かれていたという。横田町の西側には「府中宿」(現・伝馬町)があり、まさに交通の要所であった。横田町は、古代東海道が次第に衰退していくなかで、より便利な場所へ駅が移転した先だったか、あるいは、見附が置かれるに際して、古代の駅名を採用したか、などの説がある。
ところで、小山枯柴編著「駿河の伝説」(1943年)には、「やまとだけ道」という題名で、次のような伝説があることを記している。「大里村中原にある。長田村小坂の日本坂から安倍川を越えて大里村安倍川に入り、中原津島神社の北を過ぎ、馬渕、稲川を経て豊田村に入り、有度村草薙に達する道を「日本武道」といっている。日本武尊が東征の際、通った道筋であるという。」。当然ながら、上記のような古代東海道のルートが通説化する決め手となった「曲金北遺跡」の発見の遥か昔の話である。因みに、日本武尊を(現在、当然のように)ヤマトタケルと訓むのは、江戸時代後期の国学者伴信友が始めだったといい、師の本居宣長の時代まではヤマトタケと訓んでいたという。古代東海道を辿ると、日本武尊の遺蹟にぶつかることが多い。古代東海道は即ち、古代のヤマト政権の軍隊が移動した道路であり(したがって、必ずしも国府を経由しなくてもよい。)、日本武尊がヤマト政権の何人かの将軍の事蹟を1人に仮託した人格だとすれば、日本武尊が通った道=古代東海道になるのではないか。そして、それは、江戸時代にも、古代東海道のルートは伝えられていた、ということにならないだろうか。


写真1:「下横田町」の町名碑


写真2:碑の横の説明板。横田町があったのは「旧東海道」(近世)で、現在は南側に国道1号線・JR東海道線が通っており、古代には更にその南側に東海道(駅路)が通っていたことになる。


写真3:碑の前には小さな延命地蔵堂がある。
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手児の呼坂

2011-05-10 22:27:14 | 史跡・文化財
手児の呼坂(てごのよびさか)。
場所:静岡市駿河区北丸子1丁目~向敷地。国道1号線「金属団地入口」交差点から北に向かい、突き当りを右折(東へ)。駐車場なし。
「手児」というのは、「あてこ」が転じたもので、(愛しい)女子のことをいうらしい。「あてこ」に対する語が「まろこ」で、例えば、柿本人麻呂などの「麻呂」・「麿」、中世以降は「丸」になって、森蘭丸などの名の末尾に使われた。万葉集にも詠われた「手児の呼坂」がここにあるとされるのも、丸子の先(元は「宗小路」という地区だった。)にある坂で、この坂を越えれば駿河国府や安倍の市のある安倍郡だったからと思われる。
北丸子側に次のような万葉歌碑が建てられている(写真1)。石碑の刻文は全てひらがなであるが、一般に「東道(あづまぢ)の 手児の呼坂 越えて去なば 我れは恋ひむな 後は逢ひぬとも」(原文は省略)と訓まれる歌である。意味は、「東路(古代東海道)にある手児の呼坂を越えて(あの人が)旅に出れば、わたしは恋しく思うだろう。また再会できるとしても。」。
平成6年に「曲金北遺跡」が発掘されるまでは、古代東海道は、日本坂峠を越えた後に山麓を北上し、手児の呼坂を越え、現在は安倍川河川敷内にある小山になっている「舟山」から東に向かい、駿河国府(静岡高校付近を想定)に到るルートと考えられていた(滝本雄士著「ふるさとの東路」(1995年)など)。「舟山」山上にあったという「舟山神社」を式内社「中津神社」に比定する説があるのも、この古代東海道のルート想定によることが大きかったものと思われる(「舟山神社」については2010年12月21日記事)。
しかし、「曲金北遺跡」発掘等によって、古代東海道は駿河国府に面しておらず、素通りしていたらしいことがわかってきた。どうやら、手児の呼坂まで行かずに、手前の手越辺りから東に向かっていったらしいのである。そうすると、ここが「手児の呼坂」なのかどうかも怪しくなってくる。「東路(あづまぢ)」というのは、一般的には古代東海道を指すが、広く東国をいうこともある。したがって、ここが古代東海道のルートから外れていても、間違いとはいえない。ただ、万葉集には、次のような歌もある。「東道の 手児の呼坂 越えがねて 山にか寝むも 宿りはなしに」(原文省略)、意味は「東路にある手児の呼坂を越えられず、山中で寝るしかないのだろうか、宿もないので。」。実際に歩いてみると、確かに、思ったよりは急坂ではあるが、距離は短い。野宿を強いられるような山道ではないとも思われる。
さて、峠を越えて向敷地側に下りてくると、「大窪山 徳願寺」(2011年2月1日記事)から西側に下りてくる農道と合流する。そこは狭い谷になっていて、伝承によれば、「千手院」という古代寺院があったともいう。


写真1:北丸子(宗小路)側にある万葉歌碑


写真2:「手児の呼坂」入口


写真3:「史跡 手児の呼坂」の石碑(峠付近)
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駿河国の古代東海道(その4・佐渡・手越)

2011-05-06 23:36:04 | 史跡・文化財
佐渡(さわたり)・手越(てごし)。
古代東海道は、日本坂峠を越え、現・静岡市駿河区小坂に下りてくるが、その東は、古代には駿河湾の入江だったらしい(今でも、小坂の北東に大和田という町名があるが、海を表す古語「ワタ」に因むともいう。)。したがって、古代東海道は小坂を過ぎると、現・JR東海道本線に沿うようにいったん北上したらしい(具体的なルートは不明。)。そして、現・静岡市駿河区手越の辺りから北東に方向を変えて、古代には合流していなかった藁科川・安倍川を渡河したようだ。
古代東海道とは直接関係はないが、古代からの由緒ある土地らしく、万葉歌碑が建てられている。1つは、長田南中学校にある「坂越えて 阿倍の田面(たのも)に 居る鶴(たづ)の ともしき君は 明日さへもがも」(写真1)。原文は省略するが、意味は、「坂を越えてきて阿倍(安倍)の田にいる鶴のように、恋い慕うあなたは、明日もまた来てほしい」。ただし、この「阿倍」が駿河国かどうかについては、異説がある。駿河国の歌なら、「坂」は日本坂峠だろうということで、建てられたようだ。もっとも、日本坂を越えてくると、上記の通り、そこは入江(海)であり、その向こう側は有度郡になる。
もう1つは、佐渡公民館にある「左和多里の 手児にい行き逢ひ 赤駒が 足掻きを速み 言とはず来ぬ」(写真2)。意味は、「佐渡に住む美しい少女と道で行きあったが、私の乗っている赤馬の足が早いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった」。「さわたり」という美しい響きの町名は、住居表示の変更で丸子一丁目に改称され、消えてしまった。この歌碑は、このことを惜しんで建てられたものという。
手越は、古代東海道の方向転換点であるだけでなく、宇津ノ谷峠越えの道(伝路?)の出入り口でもある。駅家が衰退した中世には、「宿」が開かれた。即ち、「吾妻鏡」によれば、源頼朝の奥羽征伐のとき(文治5年(1189年))、手越平太家綱が従軍し、その戦功により麻利子(丸子)の邑を恩賞として与えられ、建久5年(1194年)に手越宿を開いたという。恩賞として、ということは、つまり、「宿」の経営をすれば相当の収益が得られたということだろう。手越宿の領主は「手越長者」と呼ばれた。その手越長者の娘、「千手前(せんじゅのまえ)」と平重衡(平清盛の五男)の悲恋は、謡曲「千手」の題材になっている。手越に鎮座する「少将井神社」は、手越長者の館跡ともいわれており、境内に「千手前」の石像がある(写真4)。
建武2年(1335年)、新田義貞と足利直義の大激戦が手越原付近で行われ(「手越河原の合戦」)、その兵火にあって手越宿を中心とした集落全体が焼失し、その後、宿の中心は手越から丸子に移ったという。


「遠州古城めぐり」さんのHPから(少将井神社)


参考図書:高橋清隆著「静岡県万葉の歌」(平成10年8月)


写真1:「坂越えて・・・」の万葉歌碑。場所:長田南中学校東門付近(静岡市駿河区みずほ3-9-1)


写真2:「佐渡の・・・」の万葉歌碑。場所:佐渡公民館前(静岡市葵区丸子1-8-39)


写真3:「少将井神社」。祭神:素盞鳴命。場所:静岡市駿河区手越202、駐車場なし。


写真4:「千手前」像
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起木神社(起樹天満宮)

2011-05-04 22:04:52 | 神社
起木神社(おきぎじんじゃ)。起木天神社とも、起樹天満宮ともいう。祭神:菅原道真公。
場所:静岡市駿河区丸子6625。国道1号線「赤目ヶ谷」交差点から北側の側道に入り、約500m。臨済宗妙心寺派「長源寺」の奥にある。駐車スペースあり。
建久6年(1195年)、上洛のため源頼朝が当神社の前を通るというとき、紅梅の大樹が道の中央に倒れていた。頼朝は、通行の妨げとして伐採を命じた。ところが、倒れていた梅の木は、その夜のうちに元通り起き上がった。以来、当神社を「起木天神社」あるいは「起樹天満宮」と称した、という。残念ながら、その「起き木」は枯れてしまったが、その一枝は今も当神社に納められているそうである。
なお、菅原道真公が紅梅を愛したことから、かつては当神社の境内には百本以上の紅梅が植えられていたといい、そもそも「赤目ヶ谷」という地名は、元々「赤梅ケ谷」と称していたのが訛ったものという。


写真1:「起木神社」鳥居。扁額は「起樹天満宮」となっている。


写真2:境内には梅が植えられている。社殿の横にある石碑は、日本紅茶の祖という多田元吉翁の顕彰碑。


写真3:社殿
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蔦の細道

2011-05-03 22:24:19 | 史跡・文化財
蔦の細道(つたのほそみち)。
場所:藤枝市岡部町岡部~静岡市駿河区宇津ノ谷の間の峠道。国道1号線の「平成宇津ノ谷トンネル」の岡部口の近くに「蔦の細道公園」、静岡口の近くに「道の駅宇津ノ谷峠下り」があり、それぞれ駐車場がある(ただし、後者は道の駅なので、一般ドライバーの駐車場利用も多く、混んでいる。)。
「延喜式」によれば、駿河国の古代東海道は、牧之原台地上の「初倉」駅から現・焼津市の「小川」駅を経由して日本坂を越えてゆく。いわゆる「駅路」は都と地方を結んでいるが、移動の効率を最優先して、郡の役所である「郡家」はもとより、国の役所である「国府」すら、直接には繋いでいないことも多い。かつては、古代官道は国府の前を通る(=国府は官道に面している)のが当然と考えられていたが、発掘結果などによって必ずしもそうではないことがわかってきた。駿河国と古代東海道もそのようで、国府の所在地は確定してはいないが、いずれの推定地も、古代東海道は素通りしている。したがって、郡家と郡家、郡家と国府を結ぶ道路が別にあったと考えられている。これを、講学上「伝路」ということが多い。
古代の駿河国にも伝路があり、宇津ノ谷峠を越える道が伝路であったとされている。在原業平(825~880年)が「伊勢物語」の中で、この宇津ノ谷峠越えについて「駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に あわぬなりけり」と、蔦が生い繁る峠の寂しさ・心細さを歌ったことから、「蔦の細道」という地名が生まれたとされる。
日本坂峠を通る古代東海道は、「官道」(駅路)なので、国司が往来するのに通っただろうという考えから、「花沢の里」(焼津市)に「焼津辺に・・・」の万葉歌碑が建てられたと思われる。しかし、有力説によれば、駅路は緊急の伝令や軍隊の移動に使われたもので(因みに、駅家に関する記述は「延喜式」兵部省の部に記載されている。)、国司の赴任などは急ぎの旅ではなかったので、伝路を通ったはずだ、という。
さて、駅路たる古代東海道が次第に衰退すると、宇津ノ谷峠越えの道がメイン道路になっていく。ただし、元々「細道」であったことから、軍隊の移動に不便だとして、豊臣秀吉が別路を開いた。これが近世東海道となっていく。


静岡市のHPから(蔦の細道)


写真1:「平成宇津ノ谷トンネル」岡部口付近にある「坂下地蔵堂」


写真2:地蔵堂境内にある「蘿径記の碑」


写真3:「蔦の細道」石碑。ここから急な坂道になる。


写真4:峠の少し手前にある「猫石」。この石のある辺りを「神社平」などともいい、「猫石」は旅の安全を祈った「磐座」ではないか、ともいう。


写真5:「宇津ノ谷峠」。本文にある在原業平の歌の石碑が建てられている。
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