
「これでも詩かよ」第39番&ある晴れた日に第171回&照る日曇る日第630回
ランボーの詩の翻訳は、今ではたくさん出されている。それらは語学的には寸分の誤りもなく、学問的にも最新の成果が反映されているようだ。
また見つかった。何がだ? 永遠。それとも誤訳?
しかし「水の中に水素が混じっている」程度に誤訳が多いとされる、この中原中也や小林秀雄のような「語学初心者」のそれにくらべて、彼ら専門家輩の訳文の、なんと水のように味気なく、無味乾燥であることよ!
汚ない蠅等の残忍な翅音も伴ない。
その原因は、ひとえに彼らに2人のような「燃え滾る詩魂」が欠如していることにある。ランボーの心を心とし、この前代未聞の天才詩人と刺し違えるような心意気が、そもそも彼らにはてんでないから、こんな「死んだ翻訳」しかできないのである。
呪われよ! かくも安手の錬金術師ども。
アルチュール・ランボーの詩を、散文詩は小林が、韻文詩は中原が、あたかもお互いに分担するように訳し分けたのは、彼らの友情のあかしだろう。
季節が流れる、城塞が見える、無疵な魂なぞ何処にあらう?
これぞ文士の絆と呼ぶべきか。
しかし予見者ランボーの中に永遠の浪漫主義者をみる小林秀雄に対して、中原中也は永遠の異教徒と荒あらしき生の原型をみる。ランボーではなくてラムボオ。もちろんスタローンのランボーではない。
もとより希望があるものか。願いのすじがあるものか。
小林と中原、そのどちらが正しい予言であったかは、その後の成り行きをみればあきらかである。「地獄の季節」以降詩人はただの一字もポエムを書かなかったと断言した小林は決定的に誤った。
ウワーツ、北風ビュービュー、骸骨社会の大舞踏会の真っ只中に!
大きい鉄のオルガンさながら、絞首台氏も吼えまする!
詩業を絶ったはずのランボーは、灼熱のアフリカの砂漠の中で「労働者」=「放浪詩人」であることを生涯に亘って実践しつつ、表面的には無味乾燥とも思える無数の素晴らしい書簡散文詩を私たちの前に遺したのであった。
おお、心という心の陶酔する時の来たらんことを!
(注記 詩は同書よりの引用及びそれを私が勝手に追記、再加工したものです。)
君知るやアルチュール・ランボーはスタローンのランボーにあらずアフリカのラムボオなり 蝶人