「これでも詩かよ」第36番&ある晴れた日に第168回
ある夏の日の昼下がり、千駄ヶ谷小学校の交差点の近所にあった私のオフィスに、松田光弘という未知の人から電話が掛って来た。(後で分かったのだが、松田氏は先年亡くなった「ニコル」という有名ブランドの創始デザイナーであった。)
「今からクロマティという人があなたを訪ねたいと言っているのですが構いませんか?」、というので、「ああ、いいですよ。どうせ暇ですから」と言って電話を切った。
10分も経たないうちに、クロマティは、超絶的な美人の秘書を伴ってやって来た。背が高く、がっちりした体格の男で、名前の通り真っ黒な顔をした黒人である。
夏だというのにダークスーツにネクタイをきっちりと締め、額からは玉のような汗を流している。きっと急いで駆けつけたのだろう。
リタ・ヘイワース似の美人秘書は背の高い白人で、白のドレスに身を包み、五齢のカイコのように透き通った肌を惜しげもなく露出している。私はこの両人がいかなる関係なのか怪しんでいると、リタ・ヘイワース嬢が口を開いた。
「ミスタ・クロマティをご存知ですか? 彼は数年前ヨミウリ・ジャイアンツの4番でした」
私の前で筑波山の巨大なガマのように、タラリ、タラリとなおも激しく体中から汗を流し続けているクロマティとは、知る人ぞ知るウオーレン・リビングストン・クロマティ選手だったのである。
日本でクロマティの名前で服飾雑貨のブランドを立ち上げたいと思うので協力してくれないか、というヘイワース嬢の用件を聞き流れしながら、私はじっとクロマティの顔を見つめた。
プロ野球の世界から足を洗ったあと、彼はこの国に住み、食べてゆくために色々な算段を講じて、ついにこの到底実現不可能な、実現したとしても必ず失敗するであろう事業計画に辿りつき、毎日真夏の東京を駆けずり回っているに違いない。
彼の黒くて大きな顔は、よく見ると幼児のようにあどけなく、可愛らしくさえあったが、その大きく見開かれた瞳には哀愁が漂い、これから自分がどうなるのか、まだ見ぬ明日への恐れと不安のようなものが微かに点滅しているのだった。
「よく分かりました。その件についてはですね」
しばらくしてから、私がゆっくり口を開いた途端、事務所の隣にある中華料理屋でなにかをジャジャジャア炒める音がして、安物の油が放つ強烈な臭いが路地ぜんたいにたちこめた。
奥山に最後の蝉を求めしが見つけしものは杜鵑と烏瓜のみ 蝶人