あまでうす日記

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上野の森美術館で「書だ!石川九揚展」をみて

2017-07-27 14:59:29 | Weblog

蝶人物見遊山記 第251回


書だ!というんで書道の書かと思って出かけたら、墨ののたくりや書き殴りや極度に繊細で美しい図形や線的デザインの跳躍をみせられて驚いた。最近マスコミやCMで人気の「現代書家」のうわっつらのファションを気取った腑抜けの書などとは半世紀前に決別していたカリグラフィーの跳梁である。

広辞苑によれば、カリグラフィーとは筆触と筆線を主とする平面芸術の総称、あるいは絵画における文学的形象らしいが、石川九揚の作品はまさにこれである。

70年代全共闘華やかなりし頃のアクションペインティングが作家活動の原点らしいが、こうした書法は、当時のキャンパスの立て看の文字、あるいは謄写版刷りのアジビラのそれに雰囲気が似ている。

各党派別にハンドライトの巨大な文字が躍っていたのであるが、たとえばマル戦の照井選手の書に比べると石川選手のそれに迫力が欠けるのは、おそらく作者が学生運動の闘士ではなかったからだろう。

1972年の「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」から2017年の愛妻に捧げる最新作まで、45年に及ぶ歳月の間に製作された数多くの作品が会場狭しと並んでいるが、源氏物語の五十四帖をカリグラフィーに置き換えた「源氏物語書巻五十五帖」がなかなか面白かった。

ふつう我々は「源氏物語」や「歎異抄」や「徒然草」、「カラマーゾフの兄弟」などを読むと、文字を使って感想文を書くのであるが、作者はそれを一本の筆と一幅の書でやってのけようとしたわけで、その着想自体が非凡というほかはない。

源氏は前半のハイライトである「玉鬘十帖」、末尾のなくもがなの「宇治十帖」を含めて全五十四部であるが、光源氏が薨去する「雲隠」の巻だけは題名だけがあって本文がない。
それなのに作者は「雲隠」の巻にも主人公の死を表象するような真黒な塗りつぶしを書き添えているのだが、これはなくもがなの献呈であった。

また五十五帖の長丁場ともなるとさすがに書法のバリエーションが尽きて、類似の絵柄も登場するが、それはまあ仕方がないことなのだろう。

2000年代に入ると、作者の関心は古典文学から現代社会の現実そのものに対象を移し、米国の9.11事件や2011年3月11日の原発爆発、領土問題、靖国神社などの政治的社会的問題を鋭く抉っているが、そのカリグラフィー書法自体は従来のパターンを踏襲したものである。

蛇足ながら今回の出品作品のうち、私がもっとも衝撃を受けたのは、1981年に製作された「無限地獄・一生造悪」という浄土真宗の法語を渾身の力で書き下した書幅であった。

なお本展は7月30日まで上野の森美術館にて開催ちう。


  うっとりと眼をつぶり次々にかっぱえびせんを食べる耕君 蝶人
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