照る日曇る日 第1057回
これは歌壇の最長老にして、第一人者の最新作です。
今日もまたぱらぱらつと終局は来む鉄の蜜蜂にとり囲まれて
に因んだ題名ですが、さて「鉄の蜜蜂」とは、何の象徴でしょうか?
本書にはおよそ五百首の短歌に混ざって、短いながらも味わい深いエッセイも挿入されているのですが、「私が考へる良い歌とは」という設問に対して、以下のように答えています。
「自分なりの納得でかまはないが、短歌の韻律「五七五七七および破調、句またがり)を、一首のうちに包括してゐることが、「良い歌」の第一条件だらう」
それは例えば、
行きたくない。だが、ねばならぬ会合に大岡詩集読みながら行く
一輪の傘が咲くとき 不思議だなあ 雨の方から降ってくるんだ
旧友の吉田はむかし農村の工作隊へ行つたときいた(何をいまさら)
などの近歌の韻律の内部にも変わることなく律動していて、そのなつかしい響きに耳目が接するたびに、「ああこれが岡井隆翁の肉声なのだ」、と、妙に納得したり安心したりさせられるのです。(ただし私が異見を懐いている、彼の皇室と原発に関する歌は別として)。
この歌人の特徴は、どんなに悲惨な状況を歌っても、その声音が小津作品の音楽を担当した斉藤高順のように平明かつ健康的でつねに「未来」を志向していることで、それが同じ前衛歌人の塚本邦雄や寺山修司との大きな違いではないでしょうか。朗唱にふさわしい軽やかな韻律の底には、いつも青空があるのです。
今回特に印象に残ったのは、巻末に置かれた「父 三十首」でした。ここには
紀元前十四世紀のむかしより父と子はつねに妬み合いしか
キリスト者として戦中を耐へし父。苦しき転向を重ねたるわれ。
「マスコミにたてつくことは止めよ、隆。」いたき体験が言はせた至言
のような著者の親子の愛と相克を巡る力作が並んでいるのですが、実は先日歌人萩原慎一郎を自死に追い詰めた間接的な要因が、中学時代のいじめにあると知ったものですから、本書で、著者もまたおなじ目に遭った、という告白に接して刮目せざるを得ませんでした。
十代にていぢめに会ひぬ「隆、それは耐へる外ないぜ」よ言ってくれたが
学校側の知人にひそかに手をまはしをりたりとはるかのちに知りたり
私は漸くにして衰微の影が搖蕩しないでもない、著者第三十四番目の歌集を閉じながら、もしもその父親の恩寵の手なかりせば、この偉大な歌人の運命はいかばかりであったろう、と余計な思案をせずにはいられませんでした。
あかねさすバベルの塔を攀じ登る九十翁の姿遥けし 蝶人