照る日曇る日 第1279回

私は鈴木志郎康という詩人から、「詩は自分が書きたいと思うことを自分が書きたいように書けばいいのだ」ということを教えられて目から鱗が落ち、生まれてはじめて詩を書くことの楽しさに目覚めたのだが、この作者は、自分が書きたいことを書きたいように書いて、詩の面白さと楽しさを自分だけではなく、それを読む人のすべてに分かち与えることに成功しているようだ。
むかし漱石が文学論でいうたように、文芸の面白さと楽しさは、「F(素材)+f(表現)」で成り立つが、この詩集はその両方共に面白い。
そもそも2011年の歳の暮れに突然結婚しようと思い立った当時47歳の作者が、年明けに結婚情報サービスで「婚活」をはじめ、そこでこの詩集のミューズと出会い、2013年3月に結婚し、その2年後に家を建てて新生活に突入するまでの日々。これが「F」というのだから全編の趣向が面白くないわけがない。
そしてこの天から降って来たおあつらえ向きの素材を、作者はユーモアと機知とオノマトペとメロディとリズムを駆使して、まるで喇叭を鳴らすように「演奏」する。
そう、作者の特技は、なんとラテンミュージックのトランペット奏者なのよ。
彼は18番の楽器を鳴らすように、この連作詩を即興的なラプソディー風に吹き鳴らす。だからこそ、その「f」のライブパフォーマンスの息吹が、私たち観客に臨場感をもって生き生きと伝わってくるのである。
しかし、その演奏があまりにも情緒過多で主情的に傾くことをおそれるほどに知的で冷静さも兼ね備える作者は、この魅力的な私小説物語をあえて戯画化するために、愛猫ファミちゃんとレドちゃんや「光線君」という愉快な第3者的存在の視線を有効に活用して、この私小説的極私詩の世界を重層化し、いやがうえにも光輝あらしめているのである。
「あとがき」を読むと、本書は作者のミューズによる厳格な検閲を経て上梓せられたようだが、作者の今後が与謝野晶子によって圧伏せられた鉄幹居士状態に陥らぬよう老婆心ながら祈念して筆を擱きたい。
人口は日本全国で減りながら一部の都市にいそいそ流れる 蝶人