蝶人狂言綺語輯&バガテル―そんな私のここだけの話op.315
わが帝国の領土である南洋諸島の視察出張から大宅壮一賞受賞のドキュメンタリー作家のヨシダと帰社してみると、高層ビルの最上階のオフィスの窓際の私の席がなかった。
ハシモト課長もマエ係長もワカバヤシもナガハラもヤジマも俺にはしらんぷりだ。
キリノなどは俺とすれすれに接近してきて、ぶつかる直前にツバメのように体をかわしてすりぬけていく。 なにかおかしい。まるで全員が透明人間のようだ。
窓から外を眺めると猛烈な嵐である。
このキャサリン台風の襲来のため、俺たちは現地の蛮人共の取材を中止して、マーチン社製の複葉機で帝都に帰来せざるをえなかったのだ。
おそらく風速40メートルを超える風雨のために、ビルジング全体がわなわなと震え、窓ガラスはジンジンと泣いている。
「ヤバイ。この調子では鉄骨を10本も手抜きしたこのビルは倒壊するのではないか」と俺は案じた。
そのときヨシダは、突然「ササキよお、おっらあ悪いけど、ちょっくら潜ってくっからな」というなり窓を押し開け、窓枠から垂らした縄梯子をましらのように伝ってするすると下界に降りてしまった。
いつのまにか真っ黒のウエットスーツに身を包み、アクアラングとシュノーケルをつけている。
ヨシダは岩礁からさっと身を躍らせるや大きな波頭が次々に押し寄せる嵐の太平洋に飛び込んだ。
高波に翻弄される芥子粒ほどの黒点を呆然として見下ろしていると、誰か私の名前を呼ぶ者がいる。
総務のサワダだった。サワダは、「みんな冷たいやつばっかりだな。ササキさん、僕が隣の総務の備品から椅子と机を運んでくるから、ちょ、ちょっと待っててくださいね」と言うなり、またしても窓を開けて外に出て行った。
ヨシダやサワダが超高層の窓を開けるたびに書類やノートパソコンまでが部屋の隅から墨まですっ飛んでいくのだが、みんなは平気な顔をして仕事を続けている。
やがてまた窓が開いて、サワダが大きなデスクを隣の部屋から窓伝いに空中をつたいながら運び入れようとした。
これはとても無理だ。たかが俺の机ひとつのために優秀な社員の生命を犠牲にすることはない。もしものことがあっってはいけない。
そう思った俺は必死で「サワダ、サワダ、机なんかもういいよ。俺は定年まで椅子も机もなくって構わないから、その危険な作業を早くやめてくれ。お願いだからみんなも止めてくれよ」と叫んだ。
しかしサワダときたら「大丈夫、大丈夫っすよ。まかしときなってなって」と空に向かってまるでクレーンのように鋭く突き出した巨大なイトーキの机の上にまたがって、うすら笑いさえ浮かべている…。
「朝の会議、始めるよ」と、いつもクールなマエ係長が言った。

大坂と錦織負ければマスコミはいと速やかに「全英」を去る 蝶人