照る日曇る日第1704回
明治27年、26歳の子規が長年に亘る夜なべ仕事である「俳句分類」の成果を踏まえて綴った俳論集の前者は、名のみは高いが、その内容に特筆すべきものはない。語句と定型の慣用的狭隘ゆえに和歌はすでに絶滅し、俳句も明治の御代のうちに沈没するだろうという予言も当たらなかった。
わずかに其角、嵐雪、去来、丈草、支考など芭蕉の高弟たちの作風を具体的に作品を並べながら論じているくだりは面白いが、明治29年には、嵐雪の優美派が撤回されて其角と同じ猛烈派に編入されているから、君子は豹変したのである。
続く「芭蕉雑談」も、激しく豹変する。ひとたびは「余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。否僅かに可なる者を求めるも寥々晨星の如し」と、勇ましくタンカをきったものの、後になると例外続出どころか、俳聖ばにせを全作讃美!の大合唱となり終わって、豹変転じて家猫のごとく大人しくなる。
まあ君子豹変はもとより滄海桑田すら世の習い。むしろ子規の時期折々のあっけらかんとした変身、転向こそ、いっそ健康な精神的態度なのかもしれない。
あどけなき童子に戻って「鬼は外ォー、福は内ィー」と叫ぶなり 蝶人