この話題もあまり続けると説教じみて自縄自縛になってしまうので、今日で終わりにしようと思います。お盆も終わるタイミングというのも不思議だけど、なんだかご先祖様が私のところに来て、戒めてくれたような気がする。
さて、人のことをわかりたいと考えるのなら、その人のことを自分本位の視線で評価しても意味がない。その人のことをわかりたいと考えるのなら、その人の気持ちになる必要がある。その人の気持ちになるとは、その人の心を想像すること、その人がどんなことを考えているかを考えることだ。
そして、そうすることには勇気が必要となる。
自分本位の考え方から脱却しない限り、人として真っ当に他者との関係を構築することはできない。相手のことを考えない生き方をしている限り、人を幸せにすることはできない。
例えば犯罪者、痴漢・万引き・放火・ひき逃げ、そういった身勝手な行為は相手の人生を踏みにじるものだ。被害者は一生癒えることのない傷を負うが、犯罪者には被害者の気持ちを想像することはできない。罪として咎められるから、それがいけないことだということを知るが、被害者の心がわかるわけがない。
人のことを悪く言う、すなわち悪口を言うということは、ある意味、犯罪につながる。
それは、自分本位の勝手な解釈で、他人を貶める行為で、それはその人への侮辱であり、罪となる。
ひとのことを悪く言う前に、自分自身を見つめなおさなくてはいけない。
「なにが悪いのだろう?」、「なにが悪かったのだろう?」まずは”自分なりに”そう考えた後、想像力を働かせ、「(その人は)何を考えているのだろう?」、「(その人は)何をしたいのだろ?」そう考えなくてはいけない。そう考えるには努力が必要だ。
奇しくも、去年の今頃もそんなことを考えていたようだ。お盆というのはそういう時期なのだろうか。
ということで、1年経って、私はどうなったかというと、ちょっとだけ進歩している。努力をするというよりは、その人の気持ちを知ろうとすることができるだろうと考えるようになっている。人の気持ちを想像しようという勇気が出てきている。まだまだ捨てたものではない。
人間誰しも必死に生きている。自分のことばかり考えて、なんて言われるが仕方ない、それで精一杯の生き方もある。でも、何かしら考えて生きていることを認めないといけない。それが社会だ。社会の中では、その人の都合を考えることでしか関係を発展させることはできない。そもそも過去と他人は変えられないのだ。
人が考えていることを想像すれば、その人のことを悪く考えないで済むかもしれない。そうすれば、悪口を言うこともなくなるかもしれない。
”必ず”はないけれど
追伸(そうはいっても)
それでもどうしてもダメな人がいたら、その時はその人から離れるしかない。そうしたら、その人のことを言わなくなるし、考えなくなる。たとえそれが夫婦でも職場の上司同僚であっても。