こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

集団としては進歩し、個としてはそのままな人類

2022年04月25日 | 日々思うこと、考えること
 雨上がりのさっぱりした朝。ゴミ出しに出た時の空気はまだひんやりしていたが、昼間の気温は25度前後まで上がるということだ。昨日立てたポールのところに打ったコンクリに猫の足跡がないかと見たら、誰かの靴の足跡があった。どんなものかと踏んでみたのだろうが、自分達の労作が少しでも損なわれると少し腹立たしくもあり、こういう人はいるものだとあきらめつつ納得する。

 昨晩、NHKスペシャルを視ていたら、われわれホモ・サピエンスは集団が大きかったので知の共有と継承がうまく行ったが、ネアンデルタール人は集団が小さかったため、それが上手くいかず絶滅に至ったという説が語られていた。ネアンデルタール人全ての集団が絶滅に至った理由をそれだけで語ることができるのかわからないが、”知識”というものが”個”のレベルではなく、”集団”で保有されるものだという考え方は大変役立った。

 シンギュラリティが間近といわれるこの時代になっても、戦争という無意味かつ野蛮な殺戮行為が繰り返され、独裁政治はなくならず、安全対策をいくら施しても運輸事故(JR福知山線脱線事故から17年)、海難事故(知床 観光船遭難事故)が起きてしまう。いつまでたっても、”どうしてこんなことになるの?””こうしたらよかったのに”という事態になる。その都度反省して、もう2度とそのようなことが起きないようにさらに高度な防御システムを構築するが、必ずそれを突破する人間が出現し、多数の人間に被害をもたらす。いうまでもなく、今直面している人類最大の危機はプーチン大統領の独断に基づくによる核兵器の使用だ。

 知識の進歩により、人類は倫理的にも進歩したと考えてしまうかもしれないが、そんなことはない。今の日本人倫理観は民主主義という立場からの一方的な考え方に過ぎず、少しでも多くの人が幸せであること、それが人類にとって本質的に有益であるのかということすら、実はわからない。集団としての考え方が同じ方向に向くこと、それはそれで大きな危険をはらんでいるわけで、民主主義、平和主義が愚かなシステムである可能性もあり、そうだとしたら独裁主義、暴力主義こそが肯定されるべきかもしれなくなるし、そういう手段をとる個人、集団が出現してもこれらを否定はできない。愚かな個人の暴走と片付けることのできない難しさが、人類を幾度も絶望の淵に立たせる。人間の本質とは不変であり、そこに立脚した行動規範を作ろうとすること自体が無理なのかもしれない。
人間は間違いを起こすとはいえ

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