昨日、筒井康隆の小説を読み終えた。8年ぶりの再読だった。内容のディテールはほとんど忘れていたが、読み進むうちに感動とともに思い出した。文字情報というのは、ある意味夢のようだ。文字で描写された風景、人物というのはあくまでも自分の脳内で解釈され、具現化されたものであって、他の人のそれとは異なる独自のものだ。そのため、そのものを何度も見たり聞いたりすることは無く、再現されないまま時間の経過とともに忘れていく。
文字情報というものを取り入れ解釈して具現化するという作業は大変な労力を伴う。だから、大作などといわれる小説をより深く理解するためとわかっていてもそれらを再読するには苦労を伴う。いくら現代語訳とはいえ、源氏物語をもう一度読み直そうという気にはなかなかならない。
一方、同じ読み物でも漫画はよく覚えている。ゴルゴ13の50巻あたりまでぐらいならタイトルを読んだだけで内容の大部分を思い出すことができると思う。アニメーションは声までつけてくれるからもっと楽だ。文字情報を映像化してあるから、頭は変換作業という重労働をせずに済むので、サクサク読み進めることができる。時間的にも楽で、さらには再読も容易となる。漫画ばかり読んでいると文字情報を自分なりの情報として落とし込む能力が極端に落ちるが、ゴルゴ13の顔は誰もが同じものを思い浮かべることができるという点でそれはそれで意味がある。
小学校の高学年から高校生までの間、多くの小説を読み飛ばすようにして過ごしたが、大学生になってからのコミック全盛時には漫画をずいぶん読んだ。結婚して、いつの間にか漫画を読まなくなった。かといって小説もあまり読んでいなかったが、最近になって自分の寿命のことを考えるとちょっとまずいと思うようになった。人類の遺産というべき名作というものに私はどれだけ触れてきたかと思うと、それは微々たるものだった。自分の血肉となっているものなどどれほどあるだろうか。少なくとも10作品ぐらいは読んでおきたいと思う。その中には、カラマーゾフの兄弟のように、遥か昔に読んだものの再読もしたい。何を読むかの選択はその折々で変わっていくだろうから今から決めておくことはしないでおく。
外国語文学は読みやすい翻訳が増えたので、ずいぶん楽になった。それはそれでいいのだが、医学論文も読んで勉強せねばならない。
残された時間は無くなり、おまけに知力体力の劣化も自覚する。焦っても仕方がないが、できることはできるだけ頑張ろう。
あれもこれもは難しい
私は最近すっかり小説を読まなくなり、歴史をよく読むようになりました。
ただ、トルストイの『戦争と平和』だけは岩波文庫の新訳で読みたいと思っております。でも、そう思ってすでに数年経ってしまいました。長いので、なかなか踏み切れないのです。
そうこうしているうちに、私も残された時間がどんどん短くなっていきます。
古典と言われる小説はずいぶん読みましたが、その割に自分の身になっていない気がします。才能がなかったですね。残念です。
それでは失礼します。
生きている間に何をしたいかと思うと、小さなことでも結構あるものだと思います。
そう考えると、読書はコストパフォーマンスの良い優れものですね。