今年始めの寒波ですっかり葉が落ち、枝もずいぶん枯れてしまったハイビスカスだが、じっと我慢して再び元気になるのを待とうという妻の方針に従って半年、見事に復活して、次々と花を咲かせてくれている。
1月25日に載せた写真はまだ、葉が焼けてしまって、すべてが萎れてしまったところまでだったが、このあと、すべての葉っぱが一斉に茶色くなって枯れ落ち、枝もポキポキと折れ、それは見るも無残な姿になってしまった。「根っこが残っているから大丈夫よ」という妻の言葉をとても信じる気になれず、虎刈りよろしく切り戻しをしたりしていたがうんともすんともいわない。だが、5月頃から根っこのあたりから新芽がチラホラ出始め、8月には豊かな緑が戻った。私の切り戻しは結果としては関係なかったが、こんなに小さな鉢植えでもそれなりに持っている生命力を信じてやれずオタオタしていた自分が情けない。
先日、芥川賞を取った「コンビニ人間」の単行本帯には「コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる」とある。人間誰しも社会という環境に中で生きているに過ぎず、そこで浮いたり沈んだりを繰り返している。人生に浮沈はつきものだが、生きている限り、すなわち命という根っこが残っている限りは諦めてはいけない。我慢していたら、きっといつかはこのハイビスカスのように美しい花を咲かせることができるようになる。
なんでもいいから、目標を持って生きる。年は関係無い。そして、そのために毎日を丁寧に、健康に、コツコツと生きていくことが大切なことだ。
あとはヒューマンストレスには気をつけよう。
なんてことを花に教えてもらい
人生、一体何が起こるかわからない。不慮の事故、病気だけではなく、旅先で何かあるかもしれないし、突然の仲違い、泣き別れ、誘拐されることだってある。真夜中に爆撃を受けて何も言う間もなく死んでいくことも過去にはあったし、この先無いとも限らない。
自分がオハヨウとオヤスミを大切にするのであれば、他人にもそうさせてあげるようにしなくてはいけない。オハヨウとオヤスミを人から勝手に奪ってはいけないのだ。
誰もが、親兄弟、連れ合い、恋人、ペットそれとも心の中に持っている誰かに気持ちよく、「オハヨウ」と「オヤスミ」を言うことができるようにするにはどうしたらいいのかを日々考えながら過ごしたい。もちろん、すべての人にそうしてあげることがとても難しいことだとはわかっているが。
毎日、毎日
また雨だ。それも大雨。
相次ぐ台風のあとは秋の長雨シーズンとのことだ。空もずいぶん意地悪だ。頼んでも雨が降らないようなところからみたら贅沢な話だし、それに、渇水危機が言われたのはついこの7月のことだ。だが、何事も過ぎたるは及ばざるが如しともいう。
今回の台風で北海道の農業は大打撃だそうだ。今年の作物のみならず、農地もずいぶん被害を受けたそうで、この先何年かは日本中の食卓に影響が出てしまいそうだ。
そこで私にできることは何かと考える。何よりも、食料の大切さをもう一度考え直したい。ここのところ、あまりにも多くの食料が無駄にされていると思うようになっている。飲食店、コンビニそして日々の食卓で、もっと無駄を減らさなくては罰が当たると思うようなことを目の当たりにする。
ちょっとした宴会のあと、宴会場に残された食事を見ると泣けてくる。賞味期限切れで廃棄される弁当は一体どれほどあるのだろうか。家でうっかりしてパンにカビを生やしてしまうこともある。スケールの差こそあれ、これが日本中、世界中で繰り広げられているとしたら一体どうなるか。国連機関の調査報告を調べなくてもその結末は火を見るよりも明らかだ。
すべての食べ物は天からの恵みであって、かけがえの無い生命だ。人間だけで生み出したものでは無い。結局は一人一人の意識を改善するしか無いが、それにも限界がある。
北海道の農業に甚大な被害をもたらした今回の水害が、このようなことを考える契機になって欲しい。
今週はぐずつくらしい
911は静かにすぎ、アメリカの大統領選挙は相変わらず揚げ足取りをしている。民進党の代表選挙は人のことを言えないような真面目な人ばかりが立候補していてどうも今一つ盛り上がりに欠け、マリオ総理大臣の印象ばかり強くなっている。リオデジャネイロオリンピックの興奮も収まり、パラリンピックの競技が粛々と進められている。全米オープンテニスで錦織圭はベスト4で終わり、横綱を目指す稀勢の里は初日黒星。明るい広島カープの25年ぶりの優勝ぐらいか。だがこれも山本浩二と衣笠祥雄時代のカープを知っていると、どうも見劣りしてしまう。
マスコミ受けするようなニュースがここのところ無い、というかこれが正常な気がする。
でも、先日の台風の水害にあった岩手や北海道、地震がまだまだ続く熊本、そして福島。たくさんのところが災害からの復興途上にある。そうしたところではたくさんの人が苦しんでいて、様々な悩みや人生の選択が行われている。過去の事件や事故のその後も同様で、すべてについて総括されなくてはならないが、なかなかそうはいかない。
これらのことについて少しずつでも関心をもって、悲しいことが二度と起きないようにするのも、マスコミの役割のはずだ。できたら、戦争も未然に防ぐような活躍をしてはくれないか。
先の大戦のことを考えると、なかなかそうもいかないようだが。
新聞もテレビもちょっと頑張ってよ
我が家のフラットコーテッドレトリバーのナイト、しばらく前から元気が無かったが、どうやら重い病気らしい。
今年で6歳だが、その病気、有効な治療法も無く、予後は厳しいらしい。
人を含め,生きものの命の残りの長さをどうこう言うのはおこがましいことだと思うので、そのようなことに触れるのはやめておく。
獣医さんに言われたあと、改めてナイトをみると、やっぱり元気が無く、いつもゴロゴロしている。今も私の右足に頭をのせて寝ている。
それでも、なでてやると尻尾だけはバタバタと振ってくれる。だが、顔を舐めてくれることはずいぶん減った。
エサのときだけはやっぱり元気だ。この子に限って食欲だけは死ぬまで無くならないのではないかと思う。
これまでこのブログでも、ずいぶんナイトのことを書いてきたけれど、次書くのはどんなことだろう。できたら、「思いもよらず長生きしている」なんてことを書けたらいいのだけど。
フラットコーテッドレトリバーは、死ぬまで元気でいてくれて、逝くときはあっさりと逝ってしまうらしい。飼い主思いだというけど、何も言わずに逝ってしまわれても、寂しくて悲しいだろう。犬は自分の死期というもの、どの程度わかっているのだろうか。昔、実家で飼っていた柴犬は亡くなる直前にぷいっと家を出て行ってしまい、親切な人が葬ってくれたということが後になってわかった。ナイトは、そんなことは無いと思うがどうだろう。
動物を飼ったらわかっていることだけど、いよいよこういう時期が来たのかと思う。
もう少し先の話だと思っていたのに
フェミニストの旗手といわれる、上野千鶴子さんによる、結婚とは「自分の身体の性的使用権を、特定の唯一の異性に、生涯にわたって、排他的に譲渡する契約のこと」という話を読んで驚いている。結婚をそんな風に表現してしまうなんて、なんだか気の毒な考え方の人だ。不倫評論家との対話の中で出たそうで、その評論家の文章を読んで知った。
結婚するということは、もっとも小さな社会単位を構成するということで、双方の性的資源を独占して使用するということではない。
人間という種は、肉体的にも精神的にも脆弱で、一人ではとてもやっていけない。だからこそ、集団を形成し、それが社会となる。その最小単位が夫婦だ。それが異性間であろうと同性間であろうと関係ない。だから、性的関係だけが結婚の目的ではない。
互いを尊重し、未来にわたって夫婦という社会単位を維持していくのが結婚の目的だ。性的従属者を求めるのであれば、わざわざ結婚などしなくていい。
あと、子供を持つことも結婚の目的ではない。結果として子供を持つ夫婦が多いというだけだし、昔はその社会の労働力を増やすためにも子供を持った岳の話だ。
性的なことばかりに目を向けるから、不倫がどうのとかいう話になる。結婚していても他人のことは好きになることはあるし、それが悪いなんてことあるのだろうか。結婚ということとは、全く別のことだと思う。結婚を否定的というか、さめたような目でとらえるというのは、高度に文明化した現代社会で、あたかも一人で生きていけるような錯覚に陥っているのではないだろうか。
結婚して苦労するのは当たり前
臨床医として有名だった父は私、コロ健が病理医になることを決めた時、どんなことを考えたかわからない。医師以外への道を進みたかった私が、ささやかながら自分の意思で決めたことを、父は意趣返しとまでは取らなかったかも知れない。だが、私は臨床医である父の背中を見て育ったのに、臨床医にはなりたくなかったのは確かだ。患者さんから直接受ける様々な感謝の気持ち、大勢の人が立ち働く賑やかな職場。そのほかいろいろな華やかさ、役得に興味が湧かなかった。今では、一部は羨ましいと感じることがないわけではないが、病理医の仕事が好きなので後悔はない。
人は人生の選択をどんな時にするのだろう。就学、就職、結婚、出産(妊娠)。人はその都度、何らかの選択をしている。選択をするかしないか。幸運を掴むか逃すか。人は選択の連続の中で、経験を積み、成長していく。これから先の私の人生、何度かまた選択を迫られる時がやってくるだろう。より良いものを選んでばかりはいられずに、苦しい選択となることもあるかもしれない。それでもめげずに、自分の選択が最善のものだと信じて生きて行きたい。
そもそも簡単な選択というのが無い
フロイトの夢分析を一時期熱心に勉強したという知人に話したら、またおかしなことを言われてしまうだろうというような夢を見た。それは、私がまだ高校生か大学生ぐらいで、徴兵されてどこかの部隊に配属され、いよいよ過酷ないじめのような訓練が始まりかけたところで目が覚めた。夢とはいえ、自分が兵士として死地に赴くという恐怖といったらなかった。8月になって、戦争関連の新聞記事が目立つようになって、このところしょっちゅう戦争のことを考えていたからこんな夢を見たのかもしれない。それとも徴兵される前に南米に移民として渡った人の話を読んだからなのかはわからない。夜中に目が覚め、しばらく眠ることができなかった。
先の戦争では日本だけで310万人が亡くなった。広島・長崎では原爆投下後5年の間に合わせて34万人が亡くなった。東京大空襲では10万人の人が一晩で亡くなった。いったいなんのために亡くなっていったのか、そして亡くなった人たちの人生は戦争によって死ぬためにあったというのだろうか。なぜ戦争をすることになったのかはわからない。誰かが、戦争を止める努力をやめて、他人の命を自分のモノとして扱っていいと考えたところから始まったのだろう。
今、中国でG20サミットが開催されている。世界の盟主たらんとする中国を世界中が抑え込もうとしているようにも見えるが、日本が経済的にあっさりと追い越された過程を考えると、その勢いを止めることは無理な気がする。今の経済的繁栄は中国の人たちの努力の結果であり、賞賛すべきことだろう。日本にたくさんの人が観光にやってきて、鎌倉もその目的地の一つ。ほとんどの人は上品で大人しい。だから、よもや戦争、などということになって欲しくない。それはロシアともだし、韓国、北朝鮮ともだ。
地には平和を、そして地球を大切に
杜の都で、某研究会主催の病理診断講習会。昨日の昼から今日の夕方まで、ガッツリ缶詰めで勉強する。で、コロ健はその講師の一人として参加。
疾患について、講義形式で説明をしたあと、バーチャルスライドシステムという顕微鏡標本をデジタル化した画像データを用いてコンピューター上で解説をする。今回は、12セッション。1セッション1時間なので,結構疲れる。私は、講義一コマとその後の解説12コマ。講師&チューターも生徒もヘトヘトだ。
生徒といっても、参加者は病理医かその領域の病理診断に関心のある臨床医。今年の受講者は140名。みなさん決して安くはない参加費と旅費宿泊代を払って日本中から集まってくる。毎度のことながら、毎年熱心な先生達の参加には感謝し、かつ頭が下がる。
行って、解説して、帰ってきただけで、見たのはホテルの窓からと、駅から会場までの往復のバスの窓からみた街の緑だけだったのは残念だったが,仕方ない。
帰りに、「私のこと、覚えていらっしゃらないと思いますが」と声をかけてくれた先生(生徒さん)がいた。
「何年か前、◯◯学会で先生に“コロ健”というサインをいただいた者です。」と言われて思い出した。「ああ、あの時の」と、懐かしくお話しした。
地元で元気に仕事をしているとのこと、さぞ活躍中なのだろう。たまに、このブログも覗いてくれているという。ありがたいことだ。
こういう方と言葉を交わすことができると、少々のことにめげないでブログを続けていてよかったと思う。
お帰り前に名物の甘味を
一体全体自分はいったい何のためにこんなことやっているのだろうかと思うけど,運命というか流れというか、そう言ったものにあらがってまで自分の人生を変えていこうとは思わない。
今の私に不満はありません。
というようなことを、40歳になった頃ある人に言ったら、こっぴどく叱られた。
曰く、君はそんなことに満足しているのか?そんなことでは、君にこの先の向上は無い。
狂ったようにそう言われ、私はうろたえ、ずいぶん落ち込んだ。言われたのが旅先だったので、部屋に帰って一人になったときには、孤独感と相まって自殺しようかとさえ考えたほどだった。ちなみに、言った方は今では何も覚えていないに違いない。
その時はなんとか乗り切ったけど、その言葉はずっと心に引っかかっている。私が、今だにのびないのもそんな”甘え”があるからだろうけど、それを克服しようという気にもならない。たぶん、あの時もそうだったに違いない。結局、やれることというのには限度があるのだ。
だが、どうだろう。頑張りにも限度があって、未だに、能力がいまひとつでちょっと足りないせいで、仕事ではあれこれ苦労してる。けれども、なんとかかんとかいっても私と一緒にいてくれる家族はいるし、本当につらいとき手を差し伸べてくれる人もいる。結局、それから一回り(12年)経ったけど、今の私はあの頃の私と何も変わっていない、という意味で、不満は無い。
人間の欲望はきりがない、もっと多くの何かを得るための努力が必要なのかもしれないが、今に感謝し、満足していれば、それでいいのだ。
それでも私にはきついけどね
金縛りにあっているように忙しい。
朝、通勤中にブログの下書きをし、半分過ぎたところで、原稿書きに切り替える。
病院では8時半から19時過ぎまで顕微鏡にしがみつく。その間、手術材料の切り出しと、迅速診断が入り込む。1時間ほどある昼休みの半分はメールの整理。返事もそこそこに診断業務にもどる。
窓の外を見るといつの間にか雲が赤く染まっている。もう9月、秋が見えてきた。
アインシュタインの相対性理論だと、速く移動する人に時間はゆっくり進むらしい。では病理医はどうだろう。
癌の手術材料の診断を一例行うのにおよそ30分かかる。少し込み入った症例だと、すぐに1時間経つ。その間、時間の流れを感じることはほとんど無い。ということは、「顕微鏡の前に座っている病理医に時間は異様に速く進む」ということになる。
まあ、これは病理医に限った話ではなく、部屋の技師さんも「あー、もうこんな時間」と言っていたので、仕事というか何かに没頭している人皆に共通することだろう。病理医の場合、顕微鏡の前で、30分も1時間もじっとしているので、周りから浮いているのではないかと勝手な心配をしていたけど、その必要はなかったようだ。また、仕事にしても趣味にしてもそれほど差もなさそうだ。
さっき、「明日の講演会の準備、徹夜覚悟でこれからやります」というメールが来た。私もその演者の一人だが、なんだかなー、そういわれると私も頑張らないといけないか。
飛行機で準備をしても間に合わないのは何故?