かつての日本代表キャプテンで、全盛期は代表のCBは井原で決まりと言われていた、井原正巳さん(現柏コーチ)の思い出です。ただ、井原のプレーのどこが良かったのかと言われると、当時は私のサッカー眼が未熟だったので、はっきりとは言えません。
そんな井原は、少年時代はFWで、DFとして育てられた選手ではありません。DFになるきっかけとなったのはユース代表の合宿で、当時の松本育男監督に相手の動きを読むセンスを評価されたからです。
いったんはトップレベルでのプレーを諦めて、教員になるために筑波大学に進学していますが、DF転向で自信を取り戻して卒業後は横浜FMの前身の日産自動車に入団しています。
そんな元FWだった攻撃センスは、プロになってからも役に立ちました。井原のゴールはDFらしく、ほとんどがヘディングでしたが、それで年間数点は計算できる戦力でした。そんな井原のヘディングの中で、一つ強烈な輝きを放っているものがあります。
それは1995年にロンドンのウェンブリースタジアムでイングランド相手に決めた先制ゴールでした。当時はまだまだアジアサッカーの地位は低く、W杯にも出場していなかった日本代表がイングランドと対戦するだけで、大事件でした。
おそらく大敗するだろうというのが大方の予想でしたが、井原はこの先制ゴールでこの試合を面白くしました。最後は柱谷が故意のハンドで退場になり、そのPKを決められて1-2で敗れましたが、このゴールを評価された井原はその年のアジア最優秀選手に選ばれました。
井原は選手生活の最後の2年を浦和で過ごしています。確かに全盛期は過ぎていて、ヘディングを空振りして中山に抜け出されるミスもしていますが、3バックのリベロは彼のベストの位置で、まだ若手だった坪井や内舘を後ろで見守ってくれた頼れる兄貴分でした。
そんな井原は、浦和が元豪州代表のゼリッチを補強して、来季はゼリッチで一年間戦うという結論を出されたことで戦力外になり、その年(2002年)限りで現役を引退しました。その後は北京五輪を目指したU-23代表でコーチを務め、ライバル国の戦力分析をしていました。
着実に指導者としてのキャリアを積んでいますから、いつかどこかの監督でJリーグに登場するかもしれません。そんな日を楽しみにしています。
そんな井原は、少年時代はFWで、DFとして育てられた選手ではありません。DFになるきっかけとなったのはユース代表の合宿で、当時の松本育男監督に相手の動きを読むセンスを評価されたからです。
いったんはトップレベルでのプレーを諦めて、教員になるために筑波大学に進学していますが、DF転向で自信を取り戻して卒業後は横浜FMの前身の日産自動車に入団しています。
そんな元FWだった攻撃センスは、プロになってからも役に立ちました。井原のゴールはDFらしく、ほとんどがヘディングでしたが、それで年間数点は計算できる戦力でした。そんな井原のヘディングの中で、一つ強烈な輝きを放っているものがあります。
それは1995年にロンドンのウェンブリースタジアムでイングランド相手に決めた先制ゴールでした。当時はまだまだアジアサッカーの地位は低く、W杯にも出場していなかった日本代表がイングランドと対戦するだけで、大事件でした。
おそらく大敗するだろうというのが大方の予想でしたが、井原はこの先制ゴールでこの試合を面白くしました。最後は柱谷が故意のハンドで退場になり、そのPKを決められて1-2で敗れましたが、このゴールを評価された井原はその年のアジア最優秀選手に選ばれました。
井原は選手生活の最後の2年を浦和で過ごしています。確かに全盛期は過ぎていて、ヘディングを空振りして中山に抜け出されるミスもしていますが、3バックのリベロは彼のベストの位置で、まだ若手だった坪井や内舘を後ろで見守ってくれた頼れる兄貴分でした。
そんな井原は、浦和が元豪州代表のゼリッチを補強して、来季はゼリッチで一年間戦うという結論を出されたことで戦力外になり、その年(2002年)限りで現役を引退しました。その後は北京五輪を目指したU-23代表でコーチを務め、ライバル国の戦力分析をしていました。
着実に指導者としてのキャリアを積んでいますから、いつかどこかの監督でJリーグに登場するかもしれません。そんな日を楽しみにしています。