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思い出の中継ぎ投手(鹿取義隆)

2012-11-21 20:11:50 | 他スポーツ
先日発表されたパリーグの新人王は中継ぎ投手の益田(ロッテ)でした。昨年のセリーグのMVPが中継ぎの浅尾(中日)だったように、最近は中継ぎ投手も結果を出せば評価してもらえるようになりました。ホールドポイントという数字に残る結果が出るようになったり、今の中継ぎ投手は1イニングしか投げない代わりに70試合近く投げてもらうという起用法が定着したのも中継ぎ投手にとっては吉報でしょう。

私の思い出に一番残っている中継ぎ投手は、こういう制度ができる前の巨人の中継ぎ、鹿取義隆元選手です。当時、ゴールデンタイムのスポーツ中継といえば巨人戦だった時代で、当時のスポーツ漫画にも王監督が連日緊急ミーティングをしたという事実がよくネタになっていました。

鹿取もそんなスポーツ漫画の格好のネタでした。理由は王監督に連日のように使われていたことです。当時の巨人のエース江川は100球前後で降板することが多く、その後で登板するのは大抵鹿取でした。鹿取イコール使い過ぎがスポーツ漫画を賑わせていました。

当時懸命に働くことを「かとりる」という言葉が流行ったほどで、勝ち星もセーブもつかないマウンドに上がっていた鹿取はサラリーマンの世界からも鑑と言われていました。

鹿取は江川事件のあった1979年に明治大学からドラフト外で巨人に入団しています。この年は巨人がドラフトをボイコットしたので、巨人は残っていた選手しか獲得できませんでした。鹿取もプロでは通用しないだろうと他球団が動かなかった選手でした。

そんな鹿取は、監督が使いたくなる特徴を持った選手でした。理由はサイドハンドからのシンカーが武器という変則投手だったことと、ブルペンで15球投げれば肩はできると本人が豪語していた仕上がりの早さでした。そのため、いつ先発投手が降板しても鹿取の準備はできていることが多く、鹿取は一番難しい二番手の登板が多かった便利な投手でした。

また、これだけ使われても鹿取は怪我が少ないという優れた特徴を持っていました。当時の明治大学の監督は「御大」と言われた島岡監督で、鹿取いわく陸上部にいるのではと思うほど走らされた経験がありました。その当時のトレーニングが鹿取の長い投手生命を支えていました。

鹿取は西武に移籍してからは抑え投手になり、最優秀救援投手になるなど活躍しました。西武では1億円プレイヤーになるなど、栄光はキャリアの終盤でやってきました。ただ、私の記憶には巨人時代の方が刻まれています。「かとりる」の印象が少年だった私には強烈だったからです。
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