11月も終わりになってくると、桜の紅葉が次第に散ってきます。こんな晩秋の季節に思い出すのは1999年の浦和の残留争いの日々です。今でこそ浦和の本拠地は巨大な埼玉スタジアムで街からは遠く離れていますが、当時の本拠地は駒場スタジアムで、浦和駅を降りてから片道20分、市街地を歩いて行きました。
住宅の並ぶ市街地にちょっと異彩を放っていた場所が本太氷川神社でした。浦和の表土の地層は関東ローム層と呼ばれる赤土で、宅地化が進んだ現在はむき出しになっている場所は神社の境内くらいです。そんな赤土の薄暗い本太氷川神社に、浦和のJ1残留を祈願して賽銭を初めて入れたのが崖っぷちの一戦の市原(現千葉)戦でした。
この市原戦はJリーグの歴史にも残る一戦になりました。当時の市原は長身FWのバロンの頭を狙うサッカーでした。浦和は上背では劣るCB路木がバロンに付きました。ヘディングでは負けることを覚悟して、セカンドボールを粘り強く拾うサッカーで試合は終盤まできましたが、最後に福田がゴールを決めて1-0で浦和が勝利します。
この勝利で残留の望みをつないだ浦和は、平塚(現湘南)に勝ち、東京Vに引き分けて最終戦の広島戦を迎えます。このときに見た桜の紅葉はすっかり散り、市原戦からたった10日しか経っていないのが信じられないほど枝を露出していました。今度も頼むと、また神社に賽銭を入れて残留を祈願しました。
この当時から私は試合展開をノートにメモしていましたが、この残留争いで駒場のスタンドにいることは浦和サポの代表と思っていました。なんとしても浦和をJ1に残さなければいけないという思いで、この残留決戦はノートを取っていません。
そのため、この広島戦は細かいことは覚えていません。ただ、ベンチに入っていた3人のFWが大柴、盛田、福田というメンバーだったのに、12得点と結果を出していた福田の投入が後半も終わり近い時間だったことは今でも采配ミスだったという思いは残っています。
結局、この試合は0-0で90分を終え、降格が決まった延長戦という空しい展開になりました。NACK5のラジオ中継を聞いていた私は情報が入っていたので、私のリアクションで降格を知った方がいれば申し訳ないです。福田がVゴールで試合を終わらせ、池田ロボが抱きつきに行って振り払われたのは皆さんご存知の通りです。
住宅の並ぶ市街地にちょっと異彩を放っていた場所が本太氷川神社でした。浦和の表土の地層は関東ローム層と呼ばれる赤土で、宅地化が進んだ現在はむき出しになっている場所は神社の境内くらいです。そんな赤土の薄暗い本太氷川神社に、浦和のJ1残留を祈願して賽銭を初めて入れたのが崖っぷちの一戦の市原(現千葉)戦でした。
この市原戦はJリーグの歴史にも残る一戦になりました。当時の市原は長身FWのバロンの頭を狙うサッカーでした。浦和は上背では劣るCB路木がバロンに付きました。ヘディングでは負けることを覚悟して、セカンドボールを粘り強く拾うサッカーで試合は終盤まできましたが、最後に福田がゴールを決めて1-0で浦和が勝利します。
この勝利で残留の望みをつないだ浦和は、平塚(現湘南)に勝ち、東京Vに引き分けて最終戦の広島戦を迎えます。このときに見た桜の紅葉はすっかり散り、市原戦からたった10日しか経っていないのが信じられないほど枝を露出していました。今度も頼むと、また神社に賽銭を入れて残留を祈願しました。
この当時から私は試合展開をノートにメモしていましたが、この残留争いで駒場のスタンドにいることは浦和サポの代表と思っていました。なんとしても浦和をJ1に残さなければいけないという思いで、この残留決戦はノートを取っていません。
そのため、この広島戦は細かいことは覚えていません。ただ、ベンチに入っていた3人のFWが大柴、盛田、福田というメンバーだったのに、12得点と結果を出していた福田の投入が後半も終わり近い時間だったことは今でも采配ミスだったという思いは残っています。
結局、この試合は0-0で90分を終え、降格が決まった延長戦という空しい展開になりました。NACK5のラジオ中継を聞いていた私は情報が入っていたので、私のリアクションで降格を知った方がいれば申し訳ないです。福田がVゴールで試合を終わらせ、池田ロボが抱きつきに行って振り払われたのは皆さんご存知の通りです。