現ロッテ監督、伊東勤氏の野球殿堂入りが決まりました。今回は「プレーヤー表彰」ということで、監督としてではなく、選手時代の功績を称えた殿堂入りです。伊東といえば、西武ライオンズの黄金時代を支えた名捕手という記憶が今でも鮮明なので、思い出話を書いてみます。
伊東は1983年、熊本工から西武球団職員を経て、ドラフト1位で西武ライオンズに入団します。当時のライオンズは、管理野球で知られた広岡監督の時代で、新人だった伊東がマスクをかぶった試合は、ベンチから1球ごとに投球のサインが出ていたという厳しさでした。そんな中、捕手としてのノウハウを少しずつ集めていき、森監督に代わった1986年からは押しも押されぬ正捕手でした。
選手としては、捕手としての守備が最も評価できると思います。私が見に行った、1997年の西武対オリックスでは、荒れ球の先発竹下にいろんな球種を投げさせて、カーブならストライクが取れると見抜き、勝負所でカーブを軸にしながらも、わざとボールのカーブを投げさせて空振りを取るなどの高等テクニックを見せていました。
全盛期は強肩でも知られ、捕手としてはあらゆる要素を備えた選手でした。ベテランになってくると、伊東の後継者は必要と見たライオンズは、高木大成、和田ら即戦力を補強してポスト伊東を競わせましたが、ことごとくその挑戦を跳ね返し、41歳まで現役を続けた偉大な捕手でした。
打つ方は、通算打率2割4分台と、打順は8番が定位置のあまり打たない選手でした。しかし、伊東には攻撃面でも優れた特徴がありました。それは、犠打と打点が多かったことです。7番安部が出た後に伊東が送り、9番田辺、1番辻につなげた攻撃もありましたし、打率の割に勝負強く、打点は他球団の8番打者とは比べ物にならないほどでした。
キャッチャーの背番号が「27」と語られるのは、伊東と古田の存在が大きいでしょう。事実、ライオンズでは正捕手になると27番を希望する選手が多いです。今でもライオンズに影響を残す伊東、今は敵の監督ですが、いつかライオンズと何らかのかかわりを持ってくれると嬉しいです。
伊東は1983年、熊本工から西武球団職員を経て、ドラフト1位で西武ライオンズに入団します。当時のライオンズは、管理野球で知られた広岡監督の時代で、新人だった伊東がマスクをかぶった試合は、ベンチから1球ごとに投球のサインが出ていたという厳しさでした。そんな中、捕手としてのノウハウを少しずつ集めていき、森監督に代わった1986年からは押しも押されぬ正捕手でした。
選手としては、捕手としての守備が最も評価できると思います。私が見に行った、1997年の西武対オリックスでは、荒れ球の先発竹下にいろんな球種を投げさせて、カーブならストライクが取れると見抜き、勝負所でカーブを軸にしながらも、わざとボールのカーブを投げさせて空振りを取るなどの高等テクニックを見せていました。
全盛期は強肩でも知られ、捕手としてはあらゆる要素を備えた選手でした。ベテランになってくると、伊東の後継者は必要と見たライオンズは、高木大成、和田ら即戦力を補強してポスト伊東を競わせましたが、ことごとくその挑戦を跳ね返し、41歳まで現役を続けた偉大な捕手でした。
打つ方は、通算打率2割4分台と、打順は8番が定位置のあまり打たない選手でした。しかし、伊東には攻撃面でも優れた特徴がありました。それは、犠打と打点が多かったことです。7番安部が出た後に伊東が送り、9番田辺、1番辻につなげた攻撃もありましたし、打率の割に勝負強く、打点は他球団の8番打者とは比べ物にならないほどでした。
キャッチャーの背番号が「27」と語られるのは、伊東と古田の存在が大きいでしょう。事実、ライオンズでは正捕手になると27番を希望する選手が多いです。今でもライオンズに影響を残す伊東、今は敵の監督ですが、いつかライオンズと何らかのかかわりを持ってくれると嬉しいです。